橋本裕の日記
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2002年10月31日(木) 雑草を愛した詩人

 日本が西洋列強に負けじと、富国強兵を押し進め、その総決算として、あのいまわしい侵略戦争へと国を挙げて傾斜しつつあった時代に、ひとりの詩人が山野にひっそりとした漂泊の旅を続けていた。

  分け入っても分け入っても青い山

 大正15年、種田山頭火は九州南部を行乞し、彼の代表作とされるこの句をえた。そしてこのあと、次々と名句が生まれている。山頭火は自然を愛し、山や草花や虫を愛した。なかでも「雑草」が好きだった。

<雑草を活けかえる。いいなあとばかり、見ほれる。今日の雑草は野撫子だった。その花の色のよろしさ、「日本」そのものを見るようだ>

<いつみても、なんぼうみてもあかない雑草、みればみるほどよい雑草、わたしは雑草をうたわずにはいられない>

  雑草伸びたままの紅葉となっている
  雑草にうづもれてひとつやのひとり
  雑草はうつくしい淡雪

 山頭火の雑草に寄せる思いは、どこかで雑草のように生き、雑草のように枯れて死にたいという思いと重なっているのだろう。<すべてを自然的に、こだわりなく、すなおに、気取らず、誇張せずに、ありのままに、水の流れるように、やってゆきたい>と、彼は日記に書いている。

<峠を登りきって、少し下ったところで、ふと前を見渡すと、大きな高い山がどっしりと峙えている。祖母岳だ。西日を浴びた姿は何ともいえない崇美だった。私は草にすわってじっと眺めた。ゆっくり一服やった。山を前に悠然として一服、いや一杯やる気持は何ともいえない>(昭和5年9月20日)

<山はいいなあという話しの一つ二つ。三国峠では祖母山をまともに一服やったが、下津留では久住山と差し向かいでお弁当を開いた。とても贅沢なランチだ。例の如く飯ばかりの飯で水を飲んだだけであったが>(昭和5年11月9日)

<朝あけの道は山の青葉のあざやかさだ。昇る日とともに歩いた。いつのまにやら道をまちがえていたが、それがかえってよかった。山また山、青葉に青葉、分け入るという感じだった。蛙声、水声、虫声、鳥声、そして栗の花、萱の花、茨の花、十薬の花、うつぎのの花。しづかな、しめやかな道だった>(昭和8年6月20日)

<人生とは何か、それは持って生まれたものを打ち出すことだと思います。その人のみが持つもの、その人のみが出しうるものを表現することだと信じます。私は私を全的に純真に打ち出し表現する。ここに、ここにのみ、私の生きていく道があります>(昭和9年11月9日、木村緑平への手紙)

 野の花や虫や動物達は山々にあって、もって生まれたものを全的に純真に打ち出している。そうやって偽りなく精一杯純真に生きている自然界の生き物の姿に、山頭火は共感を覚え、自分もそのように生きることを望んだのだろう。

 折から世界は植民地支配の弱肉強食の時代で、軍部がいばりだし、民衆の心も目先の利益に溺れ、物騒な侵略戦争へと傾いていた。そうした世相に背を向けるようにして、山頭火は自然を友とし、俳句と酒を愛しながら、天真爛漫に生きた。しかし、その人生の旅は、孤独でさびしい道でもあった。

<風もわるくない。もう木枯らしらしい風が吹いている。寝覚めの一人をめぐって、風はどこから来て、どこへ行くのか。さみしいといへば人間そのものがさみしいのだ。さみしがらせようとうたった詩人もあるではないか。私はさみしさがなくなることを求めない。むしろ、さみしいからこそ生きている。生きていられるのである>

 私たちは戦後の平和でゆたかな時代に生をうけた。しかし、私たちがそうした恵まれた環境の中で、十分に自分を生かし切っているかどうか。山頭火の俳句に親しむにつれて、私もまた自分の人生をなるべく好きなように、自然に、なだらかに、「雑草」のように生きてみたいと思うようになってきた。

<今日の一句> われもまた 雑草のごとく 草紅葉  裕


2002年10月30日(水) 豊かで美しい自然

紅葉の山を歩きながら考えたことは、自然は美しいハーモニーだということだった。ことに秋のこの季節、自然はその多様な豊かさを私たちに実感させてくれる。色づいた木の葉も赤や黄色、橙とさまざまであり、路傍の雑草もまたそれぞれがそれぞれの美しさで私の目を楽しませてくれた。

 自然が豊かであるということは、町の郊外の野原や河原を歩いたくらいではなかなか実感されない。そこで感じられるのは、むしろお互いに勢力を競い合う植物たちの殺伐とした印象である。たとえばセイダカアワダチソウという外来種が我が物顔にのさばっている。ススキがあるかと思えば、これも外来種らしい。それらが争い、強者が生き残り、他を圧倒する姿があちこちに見られる。

 他を駆逐し、ある特定の種が我が物顔に群生する姿は、ある意味で力強さ
が漲っていて簡明かもしれない。西洋の風景はしばしばこのような専制的な単調さに支配されている。どうしてこのようなことになるのか。それは風土が厳しいからである。あるいは人工的に矯正されているからである。あるいは開発によって、従来そこにあった生態系が破壊されたからである。

 これに対して、奥深い山の中の自然は、まるで様相が違っている。そこには様々な種類の樹木が平和共存して混じり合い、樹木の下にはシダ植物がしげり、苔やキノコがつつましく自生している。そこここに雑草が茂り、さまざまな彩りの花が咲き、そして果実や木の実が木洩れ日の中に顔を覗かせている。山の中に身を置き、しずかにこれらの様子を眺めているだけで、なにかしら心にしみこむような温かいものを感じる。

<私自身の折りにふれての経験によると、たとい気の毒な人間嫌いや、ひどい憂鬱症にかかった者でも、このうえなくやさしい、けがれのない、心の励みになる交際相手は、自然界の事物のなかに発見できるものである。「自然」のまっただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。四季を友として生きるかぎり、私はなにがあろうと人生を重荷と感じることはないだろう>

<太陽のぬくもりがしみじみとありがたく感じられる秋晴れの一日、こうした小高い丘の上の切り株に腰かけて湖を見下ろしながら、水面に映る空や木々のあいだに次々と波紋が刻まれているのを観察するのは、心の休まるひとときである。・・・ありとあらゆる木の葉や小枝、石ころやクモの巣が、いまこのまっ昼間、あたかも春の朝露にぬれそぼったように光り輝いているではないか。オールや昆虫の動きのいっさいが、まばゆいまでにきらめいているではないか。しかもオールが水に落ちるとき、なんという美しいこだまが返ってくることか>

 ソローの「森の生活」の一節である。森は人間を自由にする。なぜなら、森の中の生き物の姿を見れば、人間はもはや生存競争が人生の真理であるということを信じなくなるからだ。この愚かしい迷信から解放され、人間を本当にしあわせにする思想を手を入れようと思ったら、森を歩き、そしてそのゆたかな生命の息吹を心ゆくまで呼吸すればよい。

<今日の一句> 山ふかき 渓流たどり 草紅葉  裕


2002年10月29日(火) 森の中の思索

 先週の日曜日に、妻を誘って木曽川の支流にある阿寺渓谷まで紅葉狩りに行った。ちょうど紅葉が見頃だった。山肌に日があたり、黄色や赤に輝いていた。私たちは車を路肩に止めて、渓流の方に降りた。岩場に腰を下ろし、弁当を広げた。近くに小さな滝があって、その音があたりに響いていた。

 こうした山の景色は、私にとってとくに感慨深いものがあった。それは私が幼い頃から山に親しんできたからだろう。中学生や高校生の頃は、休日はたいてい父と山仕事だった。その合間に谷川に降りて水を飲んだり、山菜をとったり、傍らにきたリスやウサギを見たり、そうしたいろいろな経験が私の体の中に感覚としてしみついている。

 この感覚を、ひとつの思想として、言葉で表せないか、そんなことを、私は考えてきた。それは高校時代に哲学的夢想に耽るようになった頃から、私の心を支配したひとつの感情であり、考えてみれば、その後30数年間、この感情は私の中にあって、ひとつの清流のように鳴り響いていた。

 中学時代、あるいは高校時代、私は自分の体験を語る言葉を持たなかった。感情や思想は混沌として、私の中で渦巻き、ときには仏教の何かの諸説の中にその片影を見出し、また「万葉集」のような古典のなかにそれらしい姿をかいま見たことがあった。そして、たとえば西洋の哲学では、ハイデガーの「存在」についての著作の中に、同質で雄弁な類縁者を認めたりした。

 5年ほど前に、私はこの感覚を言葉に置き換えようと決心した。そして半年ほどかけて、一つの作品を書いた。それが「人間を守るもの」である。これを書いて、私はひとまず肩の荷を降ろしたような気がした。それは少年時代から私の心を領してたものに対する、ひとつの表現にはちがいなかった。

 しかし、しばらくして、この作品が必ずしも究極的な解決ではないことを知った。そこにはまだ、吟味すべき問題点が残されており、証明すべき命題が山積していたが、そんなことより、もっと本質的なことが語られていないことに気付いたのである。それは私の幼少年時代からの「自然体験」そのものだった。

 町の中の書斎で組み立てられた思想は、山に来て、深い森の渓流の傍らに身を置いて眺めてみると、いかにも生命力の乏しいものに思われてくる。そして、私の中にひそんでいた原始的な感情が目を覚まして、私の精神を揺さぶるのである。明日の日記で、山の清流近く身を置きながら考えたことを、もう少し具体的に書いてみたいと思っている。

<今日の一句> まなこ閉じ 紅葉の谷に 身を置きぬ  裕
 
 山lから帰っても、しばらくはその余韻を楽しむことができる。目を閉じれば山や渓流が見え、さわやかな音を幻しに聴くことができる。この幻想の中に身を置いていると、何かすがすがしいものが、私の心身を浄化してくれる。


2002年10月28日(月) 結婚まで

23.厄介な関係

 ゆっくり時間をかけて、コーヒーを飲んだ。私は口数が少なくなっていた。S子はコーヒーには口をつけたが、サンドイッチには手を伸ばさなかった。ほんとうに食欲がないのかもしれなかった。S子と目があって、私は少しやさしく声をかけた。

「ここのサンドイッチ、まあまあいけるよ」
「やさしいのね」
「そうだよ、僕はいつだってやさしいよ」
「そうね、口は上手だものね」

 S子の表情が、少しほぐれていた。K子のことはまだ知らないのだろう。K子のくれた花を鋏で切り刻んだりして、女の直感の恐ろしさを私に思い知らせた上に、「青春の蹉跌」などいいう意味ありげな本を送ってきたので、私は自分の留守中に日記を読まれたかもしれないと思っていた。

 日記帳にはいろいろなことが書いてあった。もちろんS子やK子のこともありのままに書いてあった。私はその日記帳を鍵のかかった机の引き出しの中にしまっておいた。しかし、引き出しをあける鍵は、同じ机の引き出しの中に無防備に置かれていたので、S子が本気で机の鍵を探せば他愛なく見つけることができたはずだ。

 私は日記の中に、本当の気持ちを正直に書いていたので、それをS子に読まれて、格別恥ずかしいとか、具合が悪いとは考えなかった。S子が私の日記を虚心坦懐に読んでくれれば、私がけっしてS子を軽くみているわけでも、軽蔑しているわけでもないことがわかるはずだ。同時にK子にたいして、私が彼女を傷つけることなく関係を清算しようとしていることも理解できるはずだった。

 もちろん、S子が私の日記の内容を誤解し、逆上することも考えられたが、いずれ破局がくるのなら、そうした愁嘆場も覚悟しなければなるまい。大切なのは、いつまでも問題を先送りしないことだった。しかし、S子を前にして、私はこれまで優柔不断だった。S子を拒否すべきときに妥協して、結局S子を受け入れ、傷口を大きくしてきた。

 その意味で、今日、いつもと違う展開を作りたかった。いかにして、S子をこのまま西春駅にまで送り、そこで無事に別れることができるか。喫茶店に入って、1時間が過ぎていた。街には灯りが点り、レストランの中もいつか客がかなり入っていた。すぐ近くの席では大学生らしい二人の娘が、ワインを片手に海外旅行の話しをしていた。

「そろそろ、いいかい。駅に送るよ」
「私に帰ってほしいのね」
「うん」
「どうして?」
「しばらく、会わないでおこう。君に冷静になって考えて欲しいんだ」
「何を考えるのよ」
「君にとって、僕が必要な人間かどうかをだよ」
「そうね。あなたが何を考え、たくらんでいるのかも、考えなくてはね」

 S子の挑発を受け流して席を立った。勘定をすませ、喫茶店の外に出ると、私は西春駅の方に歩いた。
「さあ、送るよ」
 立ち止まりそうになったS子の肩に手を回し、体を近づけ、半ば抱くようにして歩いた。そうやって歩いている二人は、周囲からはあつあつの恋人同士に見えそうだった。

<今日の一句> 木曽川の 源流たずねて 紅葉狩り  裕


2002年10月27日(日) キリンの首

 ダーウインの進化論によると、キリンの首は突然変異で長くなり、適者生存の法則によって、首の長いキリンの種ができたらしい。この説の真偽は明らかではない。しかし有力な仮説として学校で教えられている。

 私はこの説にいささか批判的である。その理由については「何でも研究室」の「生物質問室」に詳しく書いたとおりである。簡単に言えば、進化の原動力は「生存競争」ではなく、「共生的すみわけ」であるということだ。

 たとえば首の長いキリンは、他の首の短い動物に対して競争的という訳ではない。首が長くなることで、他の生物が食用として利用できなかった部分を手に入れることができただけである。他の動物にとって、これは脅威ではなく、むしろ望ましいことであった。

 進化とは器官の一部が遺伝的に変化することだが、これによって生物は新しい環境を手に入れる。そしてその世界で伸び伸びと生きようとするのである。このようにして、魚は陸上動物になり、陸上動物は鳥になった。生命環境は生命が多様化するにつれて、多元化し、ゆたかになっている。

 こうした「すみわけ」によって、この地上に多様な生物が誕生したとする仮説は、今西錦司によって唱えられたが、私はたいへんすぐれた視点をもっていると思っている。ダーウインの進化論は西洋的近代主義の背骨を作ってきた。しかし、その結果が20世紀の帝国主義戦争であり、今日のパレスチナ、アフガン、チェチェン、北朝鮮問題である。

 21世紀はこの悪しき近代主義から自由でありたい。そのためには、私たちはこの「ダーウイン進化論」の精神的呪縛から逃れなければならない。この呪縛の中にある限り、私たちの生は常に「競争至上主義」の強迫観念を免れることはないだろう。そしてこの思想がもたらすものは、戦争であり、紛争であり、過労自殺や犯罪の絶えない殺伐とした競争社会でしかない。

 たとえば、26日未明、ロシア連邦保安局特殊部隊がモスクワ市内のミュージカル劇場に強行突入し、チェチェン武装勢力を制圧した事件で、ロシア政府は人質90人以上が死亡したと発表した。約40分にわたる激しい銃撃戦の末、武装勢力側は女性18人を含む50人が死亡し、3人が逮捕されたそうだ。こうした血なまぐさい事件が生まれる背景について、私たちはもうすこし根本的に考えてみる必要がある。

<今日の一句> ひとひらの 紅葉葉拾う 少女あり  裕


2002年10月26日(土) オフ会の楽しみ

 インターネットで知り合って、そのうちにどちらからともなく声を掛け合って、落ち合って一緒に食事をしたり、旅行に行ったりする。オフ会というらしいが、私もいつかそんな仲間ができて、年に一度は泊まりがけで旅行に行ったりするようになった。

 今年は北陸へ6人ほどで行く予定である。遠くに離れて住んでいるので、一年ぶりの再会、もしくは2年ぶりという人もいるが、なんだかそんなに遠い人には思えない。インターネットを通して、日常的にやりとりをしているので、気心を知り合っているためだろう。私には何だか、久しぶりの家族の団欒のような気もする。

 出身地や居住地、職業や境遇、性別まで違う人たちとの、こうした交流が気楽にできるようになったのも、インターネットのおかげかもしれない。インターネットを使ったいかがわしい犯罪も多発しているが、ものは使いようである。インターネットも又、邪悪な人が使えば物騒な道具になるし、智慧のある人が使えば、人生を豊かにする楽しみの多い道具になる。

 ところで、昨日もそうしたオフ会を持った。二人だけのこじんまりとした会で、相手のNさんはHPを通して最近知り合った私と同年輩の会社員の男性である。私の住んでいる一宮まで来ていただいて、二人で酒を飲みながら、秋の夜長を語り合った。日本の将来のこと、過去の戦争のこと、家族のこと、そして好きな映画のことなど。

<今日の一句> 人生を 語れば楽し 秋の夜  裕


2002年10月25日(金) 楽しむに如かず

 早起きの私が、昨日は珍しく起床が6:30分だった。「ごはんですよ」と襖こしに妻に声をかけられて、床からしぶしぶ起きあがったが、体重が2倍に増えたようなけだるさだった。その上、足がふらついていた。

 食卓に着いた私を、妻と娘がいぶかしげに見た。
「どうしたの、お父さん、顔が真っ赤よ」
 妻に言われて、私は自分の額に手を置いた。とくに熱があるようではない。
「また、血圧が上がっているんだろうな」
 頭に血が上って、火照っている。そう言えば、この数日間、休みなく頭痛がしている。

 この10年間に、最高血圧が50、最低血圧が30ほど上昇していた。学校の定期検診でも、毎年高血圧を指摘され、治療を勧告されていた。そこで、水曜日の午後は2時間ほど年休を取って、水泳に行くように心がけていたが、この数ヶ月間、さぼっている。年休が取りにくい。先週は連休まで二日間部活で潰れて、疲労とストレスで血圧が上がったようだ。

「学校休んだら」と妻に言われ、その気になりかけたが、今日は木曜日で、HRがあるし、職員会議もある。それに、就職試験を受けに行く生徒や、推薦書や調査書を渡さなければならない生徒の顔が浮かんだ。2限目の授業を3限目に変更して貰えば、2時間ほどは休めそうである。

「少し休んでから、学校に行くよ」
 私は妻に言って、食事をしはじめた。しかし、遅刻するとすると、学校に連絡しなければならない。時間割変更のことも依頼しないといけない。そのあと、学校で仕事に追われることになる。考えているうちに面倒になってきた。
「休めばいいのに、知らないわよ」
 妻は不満そうだったが、私は出かける決心をして、歯磨きに洗面所に行った。

 鏡に映った自分の顔が、少し青ざめて見えた。赤くなったり、青くなったり、自分の身体でありながら、わけがわからない。最近の私は、ただあくせくと忙しさに追われて、自分を見失っていたようだ。この日記を書くことが、流されて行きそうな自分を正気に返らせるための、ささやかな営みだった。しかし、世の中の流れに棹さして自分にこだわり続けるのも疲れる。ときには肩の力を抜いて、のんびり生きることも必要だ。

 さて、とりあえず今日はいくらか気分がよい。夜には人に会う約束があるので、部活や補習もさぼり、仕事も適当に切り上げて、のんびりしよう。限りある人生を、大いに楽しみたいものだ。

<今日の一句> 湯浴みして 秋の夜長を いつくしむ  裕


2002年10月24日(木) あきれた授業風景

 教員と生徒がお互いに言いたいことを言い合えるというのは、いいのか悪いのか・・・。最近、私はよく教室で「バカヤロウ」を連発するようになった。今日紹介するのは、二日前の、ある理系クラスの授業風景である。

 授業をしていたら、紙飛行機が飛んできた。もともと体調不良の上、機嫌の悪かった私は、これで完全にキレた。「バカヤロウ」と怒鳴って、床に落ちた紙飛行機を思い切り蹴飛ばすと、それが居眠りをしていた生徒の頭を直撃。彼は自分が叱られたのかと思って、キョイトンとしている。あちこちでクスクス笑い。私もつられて笑ってしまった。

 このクラス、週になんと7時間もある。2時間の日が2日。しかも理系クラスなのに、数学の出来ない生徒が多い。おしゃべり、携帯、ゲームが日常的に見られ、さらにその日は紙飛行機・・・。私も紙飛行機で遊びたい気分だが、真面目にノートをとり、私の話に耳を澄ませてくれている生徒もいる。そういう生徒のことを考えると、クラスの規律を乱す連中に腹が立つ。

「おれ、今にキレルからな」とか、「キレたら怖いぞ」「お前ら、幼稚園児か」とか、私も時には恫喝したり、言いたいことを言う。そうやってストレスを発散させないと、血圧が上がるし、心臓も悪くなりそうだ。

 50歳を過ぎて、こうした品性のないことでは恥ずかしい。しかし、年々おしゃべりや携帯が目立つようになった。意欲のない生徒を見ていると、何だか授業をするのが面倒にもなってくる。できれば今すぐにでも教員を辞めたいのだが、残念ながら、まだ世界放浪の旅に出るわけにはいかない。

(今日の日記は先日、北さんの掲示板に書き込んだものをおおよそ転用した。読み返してみると、随分弱気で後ろ向きな内容だが、たまにはこんな日記もいいだろう)

<今日の一句> 満月に 雲が流れて 虫の声  裕


2002年10月23日(水) ちゃらんぽらんな部員

 帰り際に、いつものように疲れた足取りでよろよろとテニスコートへ行くと、珍しく2年生のI君が来ている。コートで顔を見るのは、10日ぶりだろうか。テニス部は「3日間無断欠席したら退部させる」というルールがある。このルールに従えば、退部させなければならない。他の生徒もそれとなく、私の方をうかがっている。

「おい、I、こちらにおいで」
 テニスコートで練習をしていたI君は、ベンチの私の声にしぶしぶやってきた。
「どうして呼ばれたか、わかっているね」
「あっ、ごめん。修学旅行のおみやげ忘れた」
「そいつは問題だな。しかし、もっと重大な問題があるぞ」
「そうですかね」

「ずいぶん、無断で休んでいるじゃないか。3日間ルールを知っているね」
「知っています」
「だったら、退部しろ」
「えっ、いきなり、退部ですか」
「いやか」
「いや、それは、その……」

 事情を訊くと、足を負傷したという。手も突き指をして、今も痛いらしい。
「ずいぶん、おっちょこちょいだな」
「そうでです。しょっちゅう、自転車でもこけるし……」
「今に交通事故で死ぬぞ」
「僕もそう思います」

「お前はいつか、テニスは楽しみながらやるものだと言っていたな」
「はい。言いました」
「楽しむのはいいが、それだけじゃ困るんだ。これは学校の部活だからな。道楽でやりたいんなら、他でやってくれ。迷惑なんだよ」
「他でと言っても、相手がいないし………」

「それはお前の勝手だろう。そんなお前達の勝手のよい都合に、この俺がつきあっていられるか。馬鹿やろう」
「でも、休日は遊びたいし」
「遊びたいのは俺も同じだよ。おれが好きでやっていると思っているのか。顧問が毎日テニスコートに来ているのに、お前は何だ。無断で休んで、いいのか」
「それは、すこし、ヤバイと思いますね」

「やるならやるで、毎日出てこい。辞めるなら辞めろ。俺はどっちでもいいんだ。しっかり考えて、今週中に俺の所にイエスかノーを言いにこい。いいね」
「わかりました」
「ちゃんと考えるんだぞ。こんど無断で休んだら、もう完全に首だからな。彼女ともよく相談するんだな」
「えっ、何で、彼女ですか」
「いるんだろう。それで、向こうが楽しくなって来なくなったんだろう。それとも、アルバイトでも始めたのかな」
「いえ、彼女の方です」

 正直言って、3年生が引退してもまだ28名と、ただでさえ部員が多いわがテニス部だ。こんなちゃらんぽらんな部員は首にした方がいいのである。そのほうが、1年生への示しがつく。部の規律も守られる。

 しかし、まがりなりに、彼も部員として一年半続けてきて、試合にも出ていた。あと半年間、来年の4月の公式戦までがんばれば、3年間活動したという認定が出て、高校生活の勲章になる。彼自身のことを考えると、そう、無慈悲にもなれない。腹が立ったが、数日だけ、猶予を与えることにした。

<今日の一句> 歳ととも 秋の夕暮れ 淋しくて  裕


2002年10月22日(火) 愛は学ばれるもの

 今月号のHPの言葉「愛は学習されるべき感情である」は、私の「人生についてに21章」の中からとった。「愛」について、自分の半生をいろいろ考えた結果、私はこのような結論に達したわけだ。

 その意味するところは、愛は決して本能的なものではない、それは家庭や学校や社会で「学習」されるべきものだということである。私たちは「学習」というと、英語の単語を覚えたり、数学の問題を解いたりすることだと思っている。しかし、ここにもっと大切な人生の学習がある。それは「人を愛する」という勉強である。

「愛する」という感情は、決して「自然な感情」ではない。それはもっと人間的で、社会的な感情である。ところが多くの人は、愛を本能的なものと同一視している。しかし、そうした考えが支配的である限り、愛を育てようという真剣な努力は行われないだろう。

 カントは「世界平和のために」のなかで、「平和状態はなんら自然状態ではない。自然状態はむしろ戦争状態である。・・・それゆえ、平和状態は創設されなければならない」と書いている。なぜ、「平和状態は創設されなけばならない」のだろう。

 その答えがここにあるのではないだろうか。家庭で、学校で、社会で、「愛」は学ばれ、そして意識的に実践されなければならない。そして、そうした努力の上に、カントのいう「平和」もまた、営々と築かれていく。

 ところで、「愛」とは何だろう。それは一言でいって、「思いやり」ではないかと思っている。もう少し格調高く言えば、ともに生きようという意志と感情、すなわち「共生の心」である。

<今日の一句> 甘栗に 幼きころを 懐かしむ  裕   


2002年10月21日(月) 結婚まで

22.すれちがう二人

 カレーライスを食べ終わって、私は二人分のコーヒーを注文した。それから、いそいでミックスサンドを一人前追加した。S子はいらないと言っていたが、ここは少しでも誠意を見せておく必要があった。コーヒーとサンドイッチが運ばれてきて、S子の表情が少し穏やかになった。

「青春の蹉跌、読んだの」
「読んだよ。しかし、僕の生き方とはまるで違っているね」
「そうかしら」
「僕があんな利己的な人間だと思うかい」
「あなたもエゴイストじゃない」
「しかし、僕のエゴイズムはあんなんじゃないよ。もっと徹底している」

 私に出世したいとか、社会的に成功したいという願望はなかった。そのために人を踏みつけにしたり、犠牲にしたりする気もなかった。もともと私はギリシャ人の哲学者ディオゲネスのような自由な生き方に憧れていた。教員になったのは生活のためであり、仮の姿だと思っている。

 S子と別れたいというのも、何も私の立場や環境が変わって、S子が自分の将来の邪魔になったからではない。単純にS子の私に対する執着が鬱陶しいだけだった。私は自分の自由を大切にしたかった。簡単に言えば「手ぶら」で人生を歩きたかったのだ。ところがS子はいつも私と手を繋いでいないと不安で仕方がないのである。

「僕は特殊な人間だよ。人に干渉されるのが嫌いだし、何よりも自由を愛しているんだ。なるべく早く教員を止めて、できれば小説か俳句でもつくりながら、気儘に人生を渡っていきたいね。最後は、モンゴルの草原で一匹の動物として、しずかに死んでいくつもりだよ」

 S子はこの話を、何度も聞かされていた。もちろん、そんな生き方は彼女の想像の外にあった。彼女の理想はあくまでも世間並の結婚をして、私という良人と運命共同体のようにして生きていきたいということだった。たしかにそれは誰でもが考える人生の幸福の姿だろう。しかし、私はもう少し違った生き方をしてみたかった。そうした生き方は奴隷の生き方としか思えなかった。

「そんなのは嘘よ。ただ、私から逃げたいだけでしょう。それが証拠に、ちゃんと就職して、教員になっているじゃないの。それに、私の他に、まだいるんでしょう、つきあっている女の人」
「いるわけないじゃないか」
 私は咄嗟に嘘をついた。しかし、あきらかに、うろたえていた。 

<今日の一句> 金木犀 匂ふ木陰で ひとやすみ  裕


2002年10月20日(日) 30代の過労自殺

 不況がいよいよ深刻になってきた。巷に失業者が増え、不況風がこれからますます吹き荒ぶのだろうか。こうした中で、私たち公務員の給与もかなりカットされそうである。住宅ローンを抱え、大学生を抱えているわが家の家計は、現在でも赤字なのだが、これからますますローン地獄に陥り、火の車になりそうである。

 ところで、自殺率と失業率のグラフはほぼ同じかたちをしている。リストラが吹き荒れ、中高年の失業者が増えると、これからますます多くの自殺者を出すことになりそうだ。現在でも毎日100人近い人が自殺をしている。交通事故死の3倍にも相当する異常な数字だが、これがさらに増えていくのかと思うと、やりきれなくなる。

 ヨーロッパやアメリカでも、ここ数年来、雇用リストラが進んだが、自殺者がそれに比例して増えてはいない。なぜ日本では、リストラに絡んで自殺も増えるのか。その理由は、日本では、リストラされた中高年のサラリーマンの再就職の道が事実上閉ざされているからだ。

 こうして失業率の増大が、リストラ自殺を生むわけだが、実はリストラの被害は中高年にのみとどまるものではない。リストラを免れた社員もまた、労働強化の憂き目を味わうことになる。つまり、辞職して失業するのも地獄なら、残るのも地獄ということだ。

 現に、残業時間数はこの数年間上昇カーブを描いていて、バブル時の人不足の水準に達している。失業と残業がセットになっているところが、日本の何ともかなしくて貧しい現実である。失業者に職を与え、現職者の仕事を軽減する法的処置(ワークシェアリング)が一向にはかどらないのが、私には残念でならない。これは政治の貧困としかいいようのない現実である。

 こうしたなかで、10月16日(水)放送のNHK「クローズアップ現代」が「急増 30代の過労死・過労自殺」と題して、30代若手社員のなかに急増している過労死・過労自殺の問題を実例をあげて具体的に取りあげていた。

 NHKはここ5年以内に過労死・過労自殺した人の遺族を対象にアンケート調査を実施したという。遺族67人の回答をもとに追跡取材した結果、浮き彫りになったのが、不況下で生き残りをかける企業が、中高年のリストラを進める中、残った働き盛りの社員に仕事が押し寄せ、かつてない長時間労働が課せられている現実である。

 人員削減の穴を長時間サービス労働で埋めようとする企業や、厳しい価格競争を生き残るため、社員に過酷なノルマを課しつつ、その精神的異変に同僚も気づくゆとりがない。こうしたなかで、仕事による過労、ストレスから虚血性心臓病、うつ病から自殺など、死に至る状況が慢性的に生み出されているわけだ。NHKの番組を見ているうちに、私は何ともやりきれない気持になり、やがて怒りで体が震えてきた。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」(日本国憲法25条)

 いくら立派な憲法があっても、それを守ろうという国民の意識と実践がなければただの空文である。国民が政治を軽視していると、いつかそのつけは国民にまわってくる。NHKの番組で、残された遺族が「過労死のことは知っていたが、まさか主人に限ってと思っていた」と涙ながらに語っていた。死んでいった人も、「まさか自分に限って」と思っていたのではないだろうか。

 過労死・過労自殺に追い込まれる人の中には、ストレスをあまり意に介さず、一見丈夫そうなやり手の人が多いという。このような人は、自分の心やからだが苦しい状態なのに、それに気づかないで、結果的に病気になるまでがんばってしまう。心身症になりやすいだけでなく、過労死・過労自殺が多いのもこのタイプといわれている。一口で言えば、自信家ほどあぶないのである。心当たりのある人は用心した方がいいだろう。

<今日の一句> 過労死は かなしかりけり 柿を食ふ  裕


2002年10月19日(土) ゆとりのない生活

 昨日は、とうとうクラスの女生徒を泣かせてしまった。彼女は明日の日曜日、大学のAO入試がある。それに向けて面接指導をしたが、志望の動機が言えない。「何をいままでやっていたんだ」といつになく強い口調で叱ってしまった。

 最近、体調が悪い。昨日も歯茎が腫れて、食事ができないくらい奥歯が痛かった。午後は年休を取って帰りたかったのだが、業後に面接指導と数学の補習があり、がまんをしていたのである。おまけに、調査書を6人分つくり、推薦書も一通書いた。授業に行くと、どのクラスも騒がしい。体調が悪いだけに、かなりしんどい一日だった。

 おまけに、この連休は二日間とも部活の練習と県大会の試合で潰れる。ゆっくり体を休めそうもない。連休前の金曜日だというのに、少しも解放感がなく、むしろ出張願いを書いたり、余計な書類まで用意しなければならない。交通費の請求方法が変わって、JRや地下鉄の運賃まで自分で調べて書類を書かなければならない。

 さらに美術の先生から、ある生徒の態度が悪いので注意をしてくれ、事務からは9月分の授業料が未払いだがどうなっているのとか、ひっきりなしに悪い情報が入ってくる。教室に行くと掃除が手抜きで、ゴミ箱からゴミがあふれたままになっている。こうしたことが重なって、帰りの終礼のときの私の気分は最悪だった。

 そのあとの面接指導だった。しかも15分後には数学の補習が控えて、私は少し焦っていた。心にゆとりがないので、強い口調になり、泣き出した女生徒を見て、ますますいらいらが高じてくる。
「しかたがないな。明日土曜日だけど朝10時に学校に来なさい。先生は部活だからね、テニスコートにくるんだよ。そこで特別に指導をしてあげるからね」それだけ言って、あたふたと教室を後にした。

 家に帰って、夕食の後、風呂に浸かっていると、ようやく気持がほぐれてきた。そして、なきべそをかいていた女生徒のことを思いだし、気の毒なことをしたなと思った。もともと能力の高い生徒ではない。プレッシャーで思うように言葉が出なくて、自分でも歯がゆい思いをしていたのだろう。担任の不機嫌な叱責で、彼女は受験を前にして、ますます自信を喪失したのではないだろうか。

 今日も私の体調はあまりよくない。歯茎は痛いし、おまけに熱っぽく、頭痛までしている。しかし、昨日の反省をふまえて、なるべくやさしく彼女に接してやろう。彼女に今必要なのは、自信であり、自己肯定感である。このままでは、面接の本番で言葉に詰まって、泣き出しかねない。

<今日の一句> ただひとり 寝ころんで見る 鰯雲  裕  


2002年10月18日(金) 尺八の曲「手向け」

 映画「カンダハール」(モフセン・マフマルバフ監督)をビデオで見た。アフガンの現実が痛いほど伝わってくる映画だった。厳しい自然と社会の中に生きる人間がよく描かれていて、映像も印象的で秀作だと思った。

 その少し前に、NHK教育テレビの「心の時間」をたまたま見た。そこに出演していたお坊さんが、全国を行乞しながら、ひたすら吹いていという尺八の曲を聴かせてくれた。「手向け」という悲しくて美しい曲である。「カンダハール」を見ながら、ふと、尺八の音色が思い浮かんだ。

 そのお坊さんは、まだお坊さんになる前の大学生の頃から、、尺八を吹いていたらしい。人生の問題に悩み、あるとき尺八を持って、四国や北陸を行乞したのだという。私はその話しを寝床の中で寝ころんで聞いていたが、尺八の「手向け」が始まると、私はいつか布団の上に正座して聴いていた。なんという美しい、そして悲しい曲か。そして何という深く味わいのある尺八の音色だろう。尺八で感動した最初の体験だった。

 私は2年ほど前からオカリナを毎日吹いている。曲は赤トンボ、紅葉、荒城の月、里の秋などの、日本のしみじみとした優しい曲が多い。吹いていて楽しいのは本人だけで、回りの人には騒音公害でしかないようだ。しかし先日、河原の駐車場で吹いていると、隣の車の人が途中から窓を開けて、こちらを見ながら聴いてくれた。少し照れくさかったが、うれしかった。

<今日の一句> オカリナを 吹けば楽しや 里の秋  裕


2002年10月17日(木) 犯罪者の心理

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。周恩来でさえ毛沢東の前ではいつくばり、毛が危篤だと聞いて失禁したりしている。李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。

<今日の一句> いつまでも 残暑続きて 薄着かな  裕


2002年10月16日(水) 「人生」を感じさせる映画

北さんに薦められて、「エネミー・オフ・アメリカ」「サベイランス」「ファーゴ」などの映画を見た。その感想を北さんの掲示板に書いた。北さんのレスと一緒に、ここに再録しておこう。

 ーーーーーーー 映画「ファーゴ」をみました。橋本裕 ーーーーーーー

「ファーゴ」は秀作だと思いました。登場人物のキャラクターがそれぞれよく描けています。女署長も味があっていいですね。この人、この映画でアカデミー主演女優賞をもらったようですね。犯罪映画でありながら、異常性を強調したりしないで、日常性がきちんと描かれている。これは小説でも同じですが、日常性から浮いた作品はどれも詰まらないですね。

 そういう意味で、同時に見た「サベイランス」の方はいま一歩でした。こういう映画はどちらかというと私の好みではありません。やはり、「ファーゴ」はよくできた映画だと思います。

「ファーゴ」は地名のようですね。ゴールドラッシュで成功したファーゴさんはファーゴ銀行をつくり、その銀行は今日でも存在しているようです。映画では「お金」が重要な殺人の動機になっています。やはり関係があるのかもしれませんね。
少なくともアメリカ人なら、「ファーゴ」という題名から、銀行、お金、ゴールドラッシュという連想が自然に生じるのではないかと思いました。


 ーーーー 日常性の中に染みこんでいる異常性。北さん ーーーー

「ファーゴ」は実によくできた映画です。<犯罪映画でありながら、異常性を強調したりしないで、日常性がきちんと描かれている。>まさにそのとおり!

 しかし、私は、あの「日常性」の中にこそ現代の「異常性」が深く染みこんでいるという恐ろしさを感じました。女署長とその夫の健全さが対比されて、それが見事に描かれている。そこが素晴らしいと思いました。

 夜中に同級生が電話かけてきて、会うと異常に陽気に振る舞い、実はただ「淋しかった」からだと打ち明けるエピソードがありました。あの犯罪劇とは何の関係もないエピソードですが、現代人の心の闇の一面と、女署長の優しさが描かれていて、私にはとても印象的な場面でした。

「サベイランス」は娯楽性が強すぎて、日常性や人間性は描けていませんが、単純にテーマは面白いのではないかと思って薦めたのですが、「こういう映画は好きではない」と言われると、どうも橋本さんの「好み」の基準が今一つかみきれなくなりました。

 で、質問です。
「エネミー・オブ・アメリカ」は面白かったと言いましたよね。「サベイランス」との質的な違いはどこになりますか?

  
  ーーーー 「人生」が感じられる映画が好きです。橋本裕 ーーーー

「サベイランス」は私の好みではないと書きました。「エネミー・オブ・アメリカ」は私の好みです。その違いは何?

 ずばり言って、「サベイランス」にはほとんど人間が描かれていなかった、ということです。人間の生活が描かれていなかった。だからとてもうすっぺらな勧善懲悪主義の映画に見えてしまった。私は「人間」や「人生」を感じさせないような作品はあまり好きではないのです。リアリティがないから。主人公があまりに完全な天才で、わたしのような凡才には感情移入しにくかったこともあります。

 この点、「エネミー・オブ・アメリカ」はひょっとしたら私も巻き込まれるかも知れないような監視社会の恐怖が感じられました。リアリティがあり、国家という得体知れないものの不気味さを実感させてくれます。つまり「人生」を実感させてくれるのです。恐ろしいほどに。

 同様なリアリティを「ファーゴ」にも感じました。これについては、昨日書いた通りです。なお、蛇足ですが、私に「人生」を最高度感じさせてくれた映画は「大地のうた」です。

   ーーーーーーーーーーーー 引用終わり ーーーーーーーーーーーー

<今日の一句> 万葉集 親しみをれば 虫の声  裕

「人生」を感じさせる映画が好きだと書いた。それでは、私に最も深く豊かな人生を感じさせてくれる文学は何か。私は迷うことなく「万葉集」をあげるだろう。この歌集こそ私にとっては「文学そのもの」、「人生そのもの」である。


2002年10月15日(火) ディベイトと対話(2)

 一昨日に続き、ディベイトと対話についての補足である。このことについて、tenseiさんが掲示板に書き込みをしてくれたので、まず、その文章を引用したい。

 ーーーーーーーーー  tensei さんの書き込み ーーーーーーーーーー

 ディベートについて詳しく書かれたHPにも行ってみましたが、僕が最悪の欠点と思っていることについては答えてありませんでした。それは、意見を聞き合う中で、あの意見が正しい、こちらは間違いだと思っても、立場を変えずに、自分の立場を擁護し主張しなければならない点です。

 これほど議論のあり方についても、思考する精神に対しても、悪影響を与える学習はないのではないかと思っています。こんな能力を必要とするのは、弁護士や検事や、○○党員として議席に座っている人をはじめとするお上に追従する人たちだけだと思うのですが、こんな訓練を小学生からやらせてほしいというのだからイヤになってしまいます。

 調べたり論理を組み立てたりするひとつの方法として役立つ面もある、ということは認めますが、根本的に議論のあり方として間違っている、こんなやり方をしないと思考力は育たないと思う方が間違いです。

 ーーーーーーーーーーー 引用終わり ーーーーーーーーーーーーーー

 tenseiさんが言うように、ディベイトでは、あくまで途中で間違っていたと気付いても、自説を変えることはできない。それどころか、はじめから自説は間違いだと思っていても、それを真実の如く偽装して論戦する。問題はその説がいかに真実らしく相手に印象づけれるかで勝敗を競うゲームである。

 考えてみれば、これは真理に対して無節操で不誠実な詐欺行為である。しかも、こうした嘘八百をもっとも真実らしく論証する訓練が、教育の場に持ち込まれ推奨されている。論理力や弁論力を鍛えるためだというが、詭弁としか言いようのない論理力を身につけても仕方がない。

 そもそもA説とB説が対立していたとき、どちらかが正しく、どちらかが間違いであるという二分法が非論理的である。○か×かということで決着がつくのは、人工的に作られた入試問題くらいでだろう。単純な○×思考を助長し、人間の思考を型にはめるやり方は一種の暴力であり、知性を装っていても、それは知性の否定である。

 必要なのは、論理的に訓練された対話力である。これによってA説とB説はその内容が吟味され、その矛盾点が解決される中で、より総合的なC説の中に止揚される。こうした対話を基本とした弁証法的な発展があって、はじめて私たちはともに相手と手を携えて、より奥深い真理の認識に近づくことができる。そこに対話することの喜びと、ゆたかな果実がある。

<今日の一句> コスモスと 野菊を通り 君に会ふ  裕


2002年10月14日(月) 結婚まで

21.青春の蹉跌

 駅前通りに、行きつけのレストランがあった。私は日曜日など、ときどきそこで食事をしていた。レストランと言っても、喫茶店を大きくしたようなもので、そう高価な料理があるわけでない。

 S子をそこに誘った。アパートに帰り、一風呂浴びてから出直したかったが、できることならS子をアパートに上げたくはなかった。食事をして、おとなしく家に帰ってくれればありがたかった。

 表通りの窓からなるべく離れた席に腰を下ろした。おしぼりで顔を拭い、私はカレーライスを注文した。S子はその間、黙って私を見ていた。
「どうしたんだ。何か注文したら」
「最近食欲がないの」
「そうか。それじゃ、僕だけいただくよ」
 私はグラスの水を鷲掴みにして、喉に流し込んだ。

 なるべくS子に冷淡にすること、それが当面の私の作戦だった。S子の私に対する気持を冷却させ、愛想を尽かせることができればよいと思った。もちろんこの作戦を成功させるために、あせりは禁物だった。急に冷たくすれば、S子は何をするかわからなかった。

 4月にS子がアパートに押し掛けてきたあと、何度かS子から電話があったが、私は部活動の多忙を理由に会うことを避けていた。そうするとS子は一冊の本を小包で送りつけてきた。それは石川達三の「青春の蹉跌」という本だった。

 大学生の主人公は貧乏な法学部の学生で、かっては学生運動の経験もあった。いまは家庭教師のアルバイトをするかたわら司法試験を目差していたが、家庭教師をしていた少女と肉体関係をもってしまう。

 一方で伯父のひとり娘に愛をよせ、司法試験に合格と同時に縁談も決まり、バラ色の将来が見てきたとき、かって家庭教師をしていた少女の妊娠を知らされる。青年は自分の社会的成功のため、少女を殺害しようと考え始める・・・。

 その不愉快な小説を、私は終いまで読まずに、ゴミ箱の中に投げ捨てた。S子が小説の主人公に私を重ねていることは事実だった。状況はよく似ている。S子が妊娠でもしたら、おあつらえ向きということになりそうだが、私はもちろんそのような失敗はしていない筈だった。

 それでも、万が一と言うことがある。私は不安に駆られて、何度となくS子の腹のあたりを眺めていた。S子もその視線に気付いていたのか、
「心配でしょう。さんざんひどいことしたものね」
「ひどいことって、何だい」
「ここで言ってもいいの?」

 私はカレーライスを口に運ぶのを止めて、S子の顔を見つめ、それからあたりを見回した。10人近い客が入っていた。その客や、カウンターで待機しているウエイトレスの視線が気になった。S子の尖った様子から、普通の恋人同士ではないことが、すぐにわかりそうだった。

<今日の一句> 上着脱ぎ 妻と登れば 秋の風  裕

 登ったのは山ではない。木曽川河畔に立つ一宮タワーである。年に2回ほど、100メートルの高さにある展望台まで、階段を使って登るイベントがある。昨日の日曜日、私たち夫婦はそれに挑戦した。階段から下界が見える。私は途中で上着を脱ぎ、途中の踊り場で何度か休憩をとって、汗ばんだ体を爽やかな風にあてながら、どうにか展望台にたどり着いた。そこにある喫茶店で、秋晴れの濃尾平野を展望しながら、アイスコーヒーを飲んだ。下りはエレベーターを使うこともできたが、私たちはせっかくなので、再び階段を使った。降りてからコスモス畑へ行って、タワーの写真を撮った。 


2002年10月13日(日) ディベートと対話

 ディベートと対話はよく似ている。しかし、実はその精神において、まったく違うものだ。結論から言えば、私は学校で教えられるべきものは「対話の精神」であって、たんなる弁論述としてのディベートであってはならないと考えている。今日はそのあたりのことを書いてみたい。

 ディベートの場合、ある主張に対して、賛成派と反対派に別れて、論戦を展開する。また、その論戦を観戦する第三者がいて、いずれに分があるかを判定する。これは一種の公開の討論競技会である。そこでの議論は、相手に勝つための議論である。そのために、自分の全知全能を傾けて戦う。一種の知的なゲームであり、頭脳のスポーツだといえるかもしれない。

 これに対して、「対話」は相手に勝つためになされるのではない。その目的と動機は「真理の追究」ということである。見かけはディベートと同じく論戦のように見えて、その精神はまったく違っている。その根底にあるのは、相手を打倒することではなく、相手とともにもう一段と高い境地に進み、ともに真理を共有することである。そこには敵意はなく、ただ友愛と信頼の心がある。

 こうした対話の重要性をプラトンはその著述の中で繰り返し述べている。当時ギリシャでは弁論述が花盛りだったが、それはどちらかと言えば、政敵をうち破るためのディベートに近いものだった。そしてときとして白を黒と言いくるめるために弁論述が使われた。これにたいして、ソクラテスは「真理追究」のための対話術を重視し、それを実践してみせたわけだ。

 とはいえ、対話の精神を教えることはむつかしい。なぜなら人間の心の中にあるのは、多くは他者に勝りたいという敵対心であり、優越を求める対抗意識だからだ。そして日本の教育はこうした競争心をあおり、これを利用することで成り立ってきたからである。

 こうした排他的、競争的な風土の中は、ともに真理を共有することの喜びを実感することはできない。そうした経験が与えられていないのである。しかし学校で学ぶべきことは敵を打倒するためのディベートではなくて、相互理解のためのコミュニケーションである。対話はこの基盤の上に築かれる。

 自己中心主義の壁をうち破ることで、私たちは奴隷の心から解放され、ほんとうの自由な精神を得る。哲学や学問のすばらしいのは、こうした精神的自由に基づく対話によって、「真理をわかちあうことの喜び」に魂を目覚めさせてくれることだろう。

<今日の一句> 月ひとつ 皆で眺めて ありがたき  裕 


2002年10月12日(土) ノーベル化学賞は主任さんへ

 島津製作所の研究者・田中耕一(43)さんが2002年度ノーベル化学賞を受賞した。9日に小柴昌俊・東大名誉教授(76)がノーベル物理学賞受賞のニュースが流れたが、その翌日にこの報を朝刊で知って、少し驚いた。もちろん、嬉しい驚きである。

 これで日本人のノーベル賞受賞は、00年の白川英樹・筑波大名誉教授(化学賞)、01年の野依良治・名古屋大教授(同)に続き、3年連続11人目だという。日本の科学技術の独創性もようやく国際的なレベルだと認知されたといえるのではないだろうか。
 
 田中氏は東北大学の電子工学科を卒業し、第一希望のソニーの入社試験に落ちたため、島津製作所へ入社したという。そして、これまで手がけたことのないまったく畑違いのタンパク質の質量分析の研究を始めた。修士号も博士号ももたない一介の研究者である。日本の学会ではほとんど無名の人だった。

 受賞対象になったタンパク質分析の新手法に対して、会社が田中氏に支払った報酬はわずか1万1千円だったという。「社員の発明は会社のもの」という考え方があるためだが、彼の研究がもとになってできた質量分析機の昨年1年間の売り上げは40億円を超えているというから、いくらなんでも少ないのではないか。

 田中氏は上の役職に進めば研究から離れてしまうことが心配で、昇級試験も拒んできたのだという。会社ではかなり変わり者と見られていたようだ。発言からは、好きな研究が出来るだけでしあわせだというニュアンスが感じ取れる。11日の朝日新聞に掲載されたものだが、「日本の研究者に欠けているものは?」というインタビュアーの質問に、彼はこう答えている。

<自分の研究に自信を持って欲しい。たいしたことがない技術でも英語で話されるとすごい技術に聞こえる。イギリスの研究者は自信をもっているのですよ。一方、日本の科学者は「どうせうちはたいしたことがないから」が口癖のようになっている。「あきらかにこれは勝っている」とはっきり自己主張する訓練が必要です>

 日本人は自己主張することが苦手である。それはそうした訓練を受けていないせいだろうが、同時に他人の自己主張に耳を傾ける精神に欠けていることも大きいのだろう。田中さんの研究は島津の製作所の中でもあまり知られていなかったらしい。

<87年に日本の学会で発表した後、それをききつけたアメリカの研究者2人が私のところに来られて、「ぜひこれを世界に紹介したい」と言われたのです。将来性を認めてくれたこうした「目利き」のような方がいなければ、今の騒ぎにはなっていなかったと思います>

 田中氏は失敗しても、「ああ、また失敗したか」ですまして、「実験を楽しんでいた」という。そして、将来も博士号を取るつもりはないらしい。博士号を取るためには「面白い分野」をいったん離れなければならないからだ。ノーベル賞を受賞した後も、「この賞はなかったことにして、これまで通り私の好きなこと、しかも会社と社会に役立つ研究開発を続けていきたい」と述べている。

<今日の一句> 夢さめて ぬくもり恋しや 朝寝床  裕


2002年10月11日(金) ゴールドラッシュの勝者

 ヨハン・アウグスト・ズーターについて検索中に、野口悠紀雄さんの「超整理日記」にであった。その中に「ゴールドラッシュの勝者はだれか?」という文章があった。興味深い内容だったので、私見をまじえながら紹介しよう。
 
<1848 年 1 月、カリフォルニアの開拓者ヨーハン・アウグスト・ズーターの農園を流れる川で、豆粒大の金(きん)が発見された。歴史に残るゴールド・ラッシュの始まりである。

 ズータはスイスの生まれで、10 年ほど前にカリフォルニアに来て農園を始めていた。彼の夢はここに農業帝国を築くことだったので、(信じられないことだが)金で利益を得ようとは思わなかった。そこで、発見を秘密のままに葬ろうとした>

 ズータはドイツ人らしく、勤労を重視する堅実な考え方の持ち主だったのだろう。もし現代に生きていたら、バブルなどに踊らされることなく、株や土地の取引で儲けることに反感をもつような保守的なタイプの人間ではなかったかと思う。自分の土地で金が出たり、石油が出たりすることは、農業と勤労に価値をおく彼にとって、むしろありがた迷惑なことなのかもしれない。

<しかし、ニュースはたちまちのうちに広がり、一攫千金を夢見る人びと(「フォーティナイナーズ)が全世界から集まってきた。なにしろ、アメリカの他の地域での賃金が 1 日 1 ドルであったのに対して、カリフルニアで金を採れば 1 日 25 ドル稼げたのである。

 しかし、フォーティナイナーズで財をなした人は、一人もいなかった。それどころか、彼らの大部分は、経済的に破滅したのである。それは、インフレが生じたからだ。当時のカリフォルニアは、住宅、食料、衣料など、生活に必要なものが何もないところだったから、生活必需品が高騰したのだ。たとえば、他の土地で 1 バレル(約 100 リットル) 4 ドルである小麦は、1 パイント(約 0.5 リットル) 1 ドルになった。つまり、約 50 倍になったわけだ。賃金が 25 倍になっても、実質賃金は約半分ということになる>

 金をめあてで、何万人という人々が押し寄せた。生活物資が不足し、ときにはグラス一杯の水が100ドルで売られたという。多少の金を手に入れても、これでは生活が出来ない。一攫千金の夢はこうしてはかなく消えて行った。

<ところで、カリフォルニアのゴールドラッシュで、すべての人が経済的に破綻したのかといえば、そうではない。大儲けした人もいた。最初の成功者は、サンフランシスコの商人サム・ブラナンである。ただし、彼は、金を採鉱したわけではない。

 ブラナンは、西海岸にあるすべてのシャベルと斧と金桶を買い占めたのである。その後で、サンフランシスコの通りを、「金だ。金だ。金が発見された!」と叫んで歩いた。20 セントで買った金桶を 15 ドルで売るといった具合で、わずか 9 週間のうちに、3 万 6000 ドルを手にした>

 こういう抜け目のない男は他にもいた。たとえばニューヨークで乾物(ドライフーズ)の商売をしていたリーバイ・ストラウスという男がそうだ。彼はさっそくカリフォルニアに移住して、金採掘者たち(フォーティナイナーズ)にデニムのパンツを売りつけて大儲けした。これが現在のブルージーンズであり、彼の興した会社が現在の「リーバイス」だという。

<ヘンリー・ウエルズとウイリアム・ファーゴは、送金・輸送・郵便のサービスを始めた。当時のカリフォルニアには、こうしたサービスの安全・確実な供給がなかったので、これはフォーティナイナーズがきわめて強く求めていたものだったのである。彼らの興した会社は、現在の「ウエルズ・ファーゴ」だ。

 彼らも、金の採掘をしたのではない。集まってきた金採集者が必要とするものを提供したのだ。しかも、他の人々が容易に模倣できないものを供給した。彼らの興した事業は、今日においても残っている。したがって、彼らこそが、ゴールドラッシュの真の勝者といえるだろう>

 ゴールドラッシュは、これら商才に長けた人たちにそれこそ一攫千金の機会を与えた。そして、なによりも大きな遺産は、サンフランシスコという今日に残る美しい都市であろう。しかし、この都市が生まれるにあたって、そこに数々の悲劇があったことはたしかだ。そして幸運が悲劇につながったという意味で、ヨハン・アウグスト・ズーターは、もっとも気の毒な犠牲者の一人だったと言えよう。

 野口悠紀雄さんはゴールドラッシュを今日のITブームに重ねている。ゴールドラッシュで金採掘者や土地所有者は結局破産した。どうように、今、IT関連の企業は不振に陥り、破綻に追い込まれているものが少なくない。この状態はどこかゴールドラッシュのときの状況に似ている。

<このことは、われわれに貴重な教訓を与える。つまり、IT で富を築く人が今後現れるとすれば、それは、IT の進展によって需要が増え、しかも、容易に模倣できないものの供給に成功する人だろうということだ。つまり、リーバイス=ウエルズ・ファーゴ型の勝者である。まず注意すべきは、真の勝者は、IT の利用そのものからは現れないだろうということだ>

 ITブームは私たちに何を残すのだろう。できることなら、世界中の人々を繋いでできる多重的で寛容な精神の共生空間、もしくは自由で平和な交流のできる共有の広場であればよい。そこから21世紀型の新しい文化が育ってほしいと思う。あえて言えば、IT文化には特定の経済的勝者はいらないのである。


ーーーーーー渚の王子様が調べて下さり、次の2点がわかったーーーーー

1.「サンフランシスコ」と「サクラメント」の誤認
サターが所有権を主張したのは、「サクラメント」地域の土地であり、「サンフランシスコ」ではありませんでした。

2.土地所有権の根拠
カリフォルニアは、サターが入植した1830年代後半においてメキシコ領でした。彼は、メキシコ政府のカリフォルニア知事のアルバラードから、メキシコ市民権と4800エイカーの土地を授与されているのです。その後カリフォルニアは米国の戦勝により、メキシコから米国に帰属が変わり、現在に至っているのですが、彼が土地の所有権を主張した根拠は、最初に入植した「優先権」ではなく、メキシコ時代の知事から所有権を授与されたという事実に基づいているようです。裁判所も、この権利を認めました。但し、一部の土地については無効審判が下ったようです。

(参考サイト) http://www.calgoldrush.com/part1/01suttertimeline.html

 ーーーーーーーーーーーありがとうございましたーーーーーーーーーーーー

<今日の一句> 秋晴れに 風の香りよ 金木犀  裕


2002年10月10日(木) 杓子定規な判決の悲劇

 昨日の「サンフランシスコ悲話」について、渚の王子様から、貴重な情報をいただいたので、全文引用させていただこう。そのあと、北さんからいただいた意見について、私見を述べてみたいと思う。

  ーーーーーーーー 渚の王子様の書き込み ーーーーーーーーー

 僕にとってサンフランシスコは「第二の故郷」みたいな町です。今日の日記で取上げられていたので、懐かしく読ませて戴きました。

 ところが、「ヨハン・アウグスト・ズーター」という名前は初耳で、首を傾げました。僕は留学中、彼の地で観光ガイドのアルバイトをしていましたから、SFの歴史には詳しいのです。橋本さんが根拠の無いことを書く筈がないので、僕も検索しましたが、初耳の訳が分りました。

 実は、現地での呼び名は「ジョン・サター」なのです。SFのダウンタウンには、サター・ストリートという通りもあるくらいで、歴史上の人物です。ただ、少し解せないのは、サターが居住していたのはSFから150Km東のサクラメント近郊であり、金の発見もその辺りなのです。

 従って、サターがSFの町の土地所有権を主張したとは思えないのです。彼の悲劇について僕は今回驚きでした。本件の信憑性は、引き続き調べてみたいですね。Yahooで検索した限り、裁判の話は見つかりませんでした。勿論、見落としの可能性もありますが、何か狐につままれたような感じがします。

 ーーーーーーーーーーー 引用終わり ーーーーーーーーーーーーー

 ますます謎が深まった。シュティファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」(みすず書房)を読みたくなった。ヨハン・アウグスト・ズーターというのはドイツ語の本名だろう。いまわしい悲劇が隠蔽され、歪曲されている可能性もあるのではないか。私ももう少し調べてみたい。いずれにせよ、貴重な情報をありがとうございました。

 さて、北さんから、昨日の日記で紹介したサンフランシスコ事件について、そもそもズーターの訴えや、裁判所の判決が不可解だという意見が出された。掲示板におおよその答えを書いたが、ここでもう少し補足を加えて、この問題に対する私の考えをまとめておこう。とりあえず、昨日書いたズーターの裁判事件が歴史的事実だと仮定しての話である。

 住民の立ち退きと賠償を求めたズーターや、彼の主張を認めた裁判所の判断はそれ自体妥当なものだ。当時カルフォルニアは未開の地が残っていて、そこにズーターが入植して農園を作ったわけで、先住民がいたわけでもなく、当然ながらそうして開拓された土地には当時の法律に従って彼の所有権がつく。

 もし私の家の庭に小判でてきたら、その小判の所有権を私は主張するだろうし、他人が入り込み、私の家を壊して野宿をはじめたら、私も又立ち退きを裁判所に求めるだろう。ズーターが行ったことは、この意味でなんら不合理でも、不可解なことでもない。誰でもが考える当然なことを、正当な法の手続きによって行っただけである。そして裁判所は私有権を認める合衆国憲法と法律に従って、正当な判決を下したわけである。

 しかし、これを現実にそこで暮らしている1万7220人もの住民の立場になって考えてみると、彼等に立ち退きを命じることは、およそ現実的とは思えない無慈悲な判決であることもたしかだ。裁判所の判断はあまりに法律に則った杓子定規なものに思われる。合法的であっても、現実的な判決とは言えない。おそらく北さんが「不可解」と感じたのも、住民側に立って考えたからだろう。

 裁判所はズーターの主張を一方的に認めるのではなく、もう少し人道的な見地に立って柔軟に対処してもよかったのではないか。必要ならば、超法規的な判断が、もっと上部のワシントン辺りからあってもよかった。法律は守られなければならないが、その運用にあたっては、もう少し慎重に、諸般の事情を考慮すべきだったと思われる。

 実情を無視して、法律の条文のみにとらわれると、こうした血の通わない理不尽で不可解な判決が下され、原告と被告の双方に悲劇を生むことがある。法律が対象としているのは、あくまで生きた人間だということを忘れてはならない。この悲劇的事件(もし仮にあったとしての話)から、私たちはこうした教訓をくみ取ることができるのではないかと思っている。

(補足)アウグスト・ズーターで検索したところ、次のようなHPが出てきたので、参考までに上げておきます。(検索google)
  http://www.noguchi.co.jp/archive/diary/010901.html

 なおサンフランシスコについては、次のような記述があった。
<サンフランシスコ。人口73万、全米13位、日本人9500人。都市圏人口684万人、全米4位、サンフランシスコ湾は、1769年スペインの探検家ガスパ・デポルトラにより発見され、アッシジの聖フランシスにちなんで市の命名がなされた。1848年、ジョン・サッターの製材所より金鉱が発見され、1849年のゴールドラッシュの本元地となり、たちまちカリフォルニア州の金融および保険センターとなった>
 なお、カルフォルニア州が合衆国に編入されたのは、ゴールドラッシュがはじまった頃で、当時のカルフォルニア州はほとんど無政府状態だったらしい。

<今日の一句> まるまると 小鳥もわれも 秋の空  裕


2002年10月09日(水) サンフランシスコ悲話

 サンフランシスコといえば、アメリカの西海岸を代表する国際都市である。観光の名所も数多くあり、日本人観光客にも評判が高い。ぜひ一度は訪れてみたい都市の一つである。今日はこのサンフランシスコにまつわる、ちょっっと怖い実話を紹介しよう。

 1834年、一人のドイツ人が妻子を大陸に残したままニューヨークに移民として渡ってきた。彼の名前は、ヨーハン・アウグスト・ズーターで、当時31歳だった。彼はニューヨークでしばらく働いたあと、未開の地だったカルフォルニアに移住する。

 彼はそこで精力的に働いた。荒れ地に井戸を掘り、土地を耕し、懸命に働いて、やがて数千頭の家畜を持つ農場経営者になる。そしてついにドイツに残してきた妻子を呼び寄せた。アメリカンドリームの見事な達成である。

 ところが、1848年のことだ。ズーターの農園で働いていた大工が砂金を発見した。そうすると、彼の農園で働いていた男達はすっかり舞い上がり、仕事をほったらかして砂金さがしに熱中し始めた。そればかりではない、この話はあっというまに広がって、アメリカ各地から人々が殺到しはじめた。つまりゴールドラッシュの始まりである。

 彼等はズーターの育てた乳牛を殺して食い、穀物倉庫を壊して自分たちの家を建てた。土地は踏み荒らされ、機械も盗まれたり壊されたりして、農場はすっかり無法者達の住みかとなった。そしてたちまちそこに町ができた。その名を人はサンフランシスコと呼んだ。

 こうした無法行為にたいして、1850年にズーターは裁判所に訴え出た。「サンフランシスコ市がその上に立てられている土地の全部は自分の土地である」と所有権を主張し、1万7220人の立ち退きと、カルフォルニア政府に対して2500万ドルの賠償金を要求した。

 ズーターは裁判に勝ち、彼の裁判所は彼の要求をすべて認める判決を下した。さてこれで一件落着、賠償金を得てズーターは億万長者になれるはずだったが、そうはならなかった。判決を聞いたサンフランシスコの住民が暴動を起こして、裁判所と彼の家を襲い、これを焼き討ちにしたのだ。

 この暴動によって、次男は殺され、長男はピストルで自殺、ズーター自身はどうにか生き延びるが、家族と財産を失った彼は精神を病んでしまう。ワシントンの政府に訴え出たが、ワシントンの人々は誰も彼を相手しなかった。1880年に彼はワシントンにある連邦議事堂の前で脳卒中で死ぬ。嘲笑され、無視されたあげくの失意の死だった。

 こんな話を聞くと、サンフランシスコに行くのが怖くなる。ズーター一家の恐ろしい呪いがかかっていそうだ。サンフランシスコの摩天楼まで不気味に見えてくる。考えてみると、もともとアメリカにはインデアンが住んでいた。そしてアフリカでの奴隷刈りなど、民主主義と自由の国アメリカにも、こうした陰惨な影の歴史がある。

(20世紀を代表する伝記作家シュティファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」(みすず書房)に収められている実話だという。この話を私は小室直樹さんの「痛快憲法学」(講談社)で知った)

<今日の一句> 新米を 我先に食ふ 雀かな  裕

 黄金色に稲の穂が熟れている。その田圃に雀達が集まっている。一説によれば秋という言葉は「飽きる」ほど食うという意味だそうである。田圃の新米にありつけた雀達は、妻の与える古米には見向きもしなくなった。


2002年10月08日(火) 教育に必要なもの

 私は教育の目標は、「個人を幸福にすること」だと考え、この日記にもたびたび書いてきた。それではいかにして人間は幸福になることができるのだろう。幸福な人生とは何かそれは教育によっていかにして実現できるか。このことについて、今日はもう少し考察してみよう。

 私は人間が幸福に生きるためには「自己中心性からの脱却」、もしくは「自我の社会化」が必要だと思っている。人間はもともと自己中心的である。天動説が地球を宇宙の中心だと考えたように、自分のまわりを世界が回っていると考えている。しかし、こうした自己中心性はやがて破綻する。

 私たちは学校で地球が太陽のまわりを回っていて、そして太陽でさえもこの宇宙に存在する無数の星々のごくありふれた一つでしかないことを知らされる。そしてこの果てしない宇宙で、人間はほんとうに粟粒のような微小な存在なのだと思い知らされる。

 自分もまた、この地上に何十億と存在する人間の一人であり、社会の中でそのルールに従い、時には他者の前に膝を屈してでも生きていかなければならないことを知る。私たちは親元を離れたとき、学校や社会で自己中心的で幼児的な自我の夢は砕かれ、そのかわりにあまりに冷酷で散文的な現実が与えられる。

 そしてこうした認識は、多くの人々を多かれ少なかれ現実主義者にする。ある者は守銭奴もしくは搾取者となって富を求め、あるものは支配欲にかられて権力を求める。また、享楽に走り、歓楽に溺れて、社会逃避の行動に出る者もいるだろう。しかし、そのような生き方が幸福に結びつくわけではなく、たとえそうして人生に成功したように見える人も、心の中に大きな虚無を抱えることになる。

 それでは、どのような生き方が、ほんとうの幸福にむすびつくのだろうか。ここで参考にしたいと思うのは、私がこの日記でもたびたび引用したことがあるラッセルの「幸福論」の中の言葉である。

<あなたが自己に没頭することをやめたならば、たちまち、本物の客観的な興味が芽生えてくる、と確信してよい。幸福な人生は、不思議なまでに、よい人生と同じである。

 幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人々の興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である>(第17章『幸福な人』)

 ラッセルが言うように、幸福になるために私たちは「客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味」を持たなければならない。そのとき私たちは、ほんとうに意味で「自己中心性」を離れることができる。それは自己を他者と眺め、また他者を自己と眺める、公平無私な生き方だと言ってもよい。

 もちろん、私たちにそのような聖者のような生き方はむつかしい。しかし、ほんとうの幸福がそのような客観的でかつ主体的な「無私の愛」の中にあるという認識を持つことは必要なのではないか。そして、その気になればそうした体験を、私たちは人生のどこかで、ほんのわずかでも恵まれていることに気付くのではないかと思う。

 個人の幸福を実現するには、社会を変えていかなければならない。しかし、社会的条件が満たされても、個人が幸福になるとは限らない。なぜなら幸福とはもっと個人的で内面的なものだからだ。しかしそれは、まったく個人的なものだともいえない。それはつねに、社会的なものであり、他者と自己との関係の中で成就されるものだからだ。

 目を社会に開き、人生における活動をより社会的で実践的なものにすることによって、個人の幸福は実現される。なぜなら、そうした活動によって、私たちは「自己が他者であり、他者が自己である」という共生体験を身近に実感するからだ。そして、こうした人生の意義を実感させてくれる「共生体験の実践」こそが、人を幸福な人生へと導く確実な道である。

 毎年の自殺者が3万人をこえ、世界でももっとも自殺率が高いという日本社会の殺伐とした現状を見るとき、競争主義の押しつけではなく、むしろ「自由な愛情と広い興味」に根ざした「共生体験の学習」こそ、日本の教育が今一番必要としているものではないかと切に思うのである。

<今日の一句> 妻と吾 娘もすりこ木 栗きんとん  裕

 秋の夜長、妻が栗きんとんを作り始めた。それを娘が手伝い、私もすりこぎをもって、ごしごしやった。家族で作った栗きんとんは、ことさらにうまかった。


2002年10月07日(月) 結婚まで

20.手ぶらが大好き

 私は学校へはカバンを持って行かない。これは新任以来20数年間の習慣である。こんな無精な習慣がついた原因は、やはり新任で赴任した頃の特別な環境のせいではないかと思う。

 前にも書いたように、私の一週間当たりの授業時間数は14時間であり、担任も持っていなかったので、教材研究の時間が不足することはなかった。実験の準備や、パソコンの組み立て、プログラムの勉強なども、豊富な空き時間を活用すれば充分だった。仕事を家にまで持って帰る必要はなかった。

 加えて通勤に片道2時間半もかかるので、たとえカバンで持ち帰ってみても、自宅の机で仕事をする時間はなかった。見得をはって空のカバンを持ち運びするには、通勤の条件が悪すぎた。ただでさえ苦痛な通勤がさらに厄介になる。合理的に考えれば、手ぶらで通勤するが一番だった。

 その後、いくつも学校を変わったが、この習慣は続いている。結婚した当時だけ、妻が弁当を作ってくれたことがあったが、手ぶらになじんでいた私は、弁当持参というのがどうも面倒で、そのことを妻に打ち明けて、やがてもとの手ぶらに戻った。

 仕事を持ち帰らないというのは、当初からの私のスタイルだが、しかし休日に完全に学校の仕事から解放されるかといえばそうではない。部活動の練習や、試合があるし、時によっては生徒の家庭訪問をしなければならない。まあ、そうしたことがあるので、よけいに、普段の仕事は家庭に持ち帰らないように心がけたわけだ。

 それに私には小説を書きたいという欲求があった。同人誌「作家」に処女作「海辺の市」を出してから、もう一年半も経っていた。毎月の合評会にも顔を出していない。就職して落ち着いた今、そろそろ二作目を書いて、正式の同人になりたいと思った。通勤の電車のなかで、短編小説のストーリーをあれこれ考え、構想を練るのも楽しみだった。

 その日は土曜日だったが、部活があったので午後遅く学校を出た。テニスで汗ばんだ体を一刻も早くくさっぱりとしたかった。途中寄り道もしないで帰ってきたので、6時過ぎには西春駅に着いた。6月に入って、日が長くなっていた。改札口を出た私は、汗でしめったハンカチを額と首筋にあてた。ここまでくれば、わが家まであと少しである。

 駅前通りにはまだ西日が射していた。角の本屋に女が後ろ向きに立っていた。その姿を見て、私は息を呑んだ。駅舎の外に一歩出かかった私の足が止まった。電車で名古屋に戻ろう、咄嗟にそう考えて、向きを変えようとしたとき、まるで私の動静を承知していたような正確さでS子が振り返った。
 私はハンケチを手にもったまま、彼女に近づいた。

<今日の一句> ほのかなる 木の葉の色に 里の秋  裕


2002年10月06日(日) 政治と自己決定

 前483年、ギリシャのラウリオン銀山で大鉱脈が発見された。これはアテネ市民に思わぬ臨時収入を与えることになった。思わぬ富の分配にあずかろうと、市民は色めき立った。ところがテミストクレスという男が、余剰金を市民に配ることに反対した。

 彼はペルシャの脅威にそなえて、これで100隻の軍船を建造すべきだと主張した。多くの市民は彼のこの提案に反対したが、最後は彼の説得に応じた。そしてこの100隻の軍艦がギリシャの運命を変えた。アテネの補強された海軍力が、ペルシャの大艦隊を破り、ギリシャの独立と平和に貢献した。そしてアテネはギリシャ世界の盟主としての地位と繁栄を築いた。

 歴史家はもしこのとき、アテネ市民がテミストクレスの言葉に耳を傾けず、慣例に従って富の分配を受けていたら、ペルシャ戦争の勝利はなかっただろうと説いている。ペルシャに破れていたら、パルテノン神殿やプラトンの哲学をはじめ、数々の芸術作品、つまり今日我々が目にするギリシャ古典文化は残らなかった。その後の世界の歴史は別のものになっていたに違いない。

 これは目先の利益に囚われるべきではないという歴史の教訓として、よく引き合いに出される話だが、「政治とは何か」を考える上でも参考になる。政治とは「共同体の自己決定」である。アテネ市民は当面の利益を捨てて、将来の利益を考え、軍艦を作るという自己決定をした。そしてこの自己決定に指導的役割を果たしたのがテミストクレスという聡明な市民だった。

 しかし、アテネのこの成功を、ひとりテミストクレスの功績にするわけにはいかない。そこにはテミストクレスの言論に耳を傾け、これを是とする市民たちの成熟した政治意識があった。一人一人の市民が政治に参加し、民会において自らの社会の進むべき方向性を議論し、具体的な選択をするという民主的なシステムが機能していたのである。

 自由とは市民一人一人が自らの運命に対する自己決定権をもつことであるが、このことは国の主権についても言える。国の自由とは、国が自らの進路に対して自己決定権をもつことである。そしてこの国の自己決定を、国民の総意のもとでおこなおうとするのが、いわゆる民主的国家というものである。

 現在の日本にこうした自己決定力があるのだろうか。個人レベルでも、共同体レベルでも、日本人は自己決定ということが苦手なのではないかと思われる。しかし、これではいつまでたっても社会はよくならない。自由とは自己決定であるということ、そして個人の自由があって、国の自由があるのだということ。このことを銘記したいものだ。

<今日の一句> 並木道 風に吹かれて 秋の蝶  裕


2002年10月05日(土) 人生の目標は何か

 昨日は「教育の目標は何か」ということで書いてみた。「政治に参加できるようになること」というイギリス流のすぐれているところを力説したわけだが、今日は同じ流儀で、「人生の目標」について考えてみよう。これについては、実は私がかねてよりお手本にしたいと思っている国がある。

 それはズバリ、「人生の目標は社会貢献にある」というオランダである。これについては以前の日記や、その後「何でも研究室」に載せた「オランダ入門」にくわしく書いた。ここではその要点を簡単に復唱しておこう。

 オランダはNGOの活動が盛んなことで知られている。外国に災害が生じると真っ先に駆けつけるのがオランダのNGOだという。実際に国民の大半が何かのNGO活動に関係している。国際貢献を国是とし、危険性の高い紛争地域にも国連平和維持軍を派遣している。ボスニア紛争ではセルビア軍の侵攻を許したことで非難を浴び、内閣が倒れる騒ぎになったが、それもこれも国連の活動に積極的にかかわってきたゆえのことである。

 ODAはGNP比0.79%で、第1位デンマーク、第2位ノールウェーに続き世界第3位である。GNP比0.35%である日本の2倍以上もある。人口、面積とも日本の九州ほどしかないが、金額ベースでも、米、日、仏、独、英に次ぎ世界第6位の援助大国だ。さらに注目すべきはことはその質の高さである。環境問題や貧困の撲滅、婦人の地位向上を重視し、ODAのかなりの部分が地元で活動するNGOを通じて実施されている。人道的見地から現地の実情に根ざした援助が主体で、日本のような国内企業に配慮した環境破壊・開発型のひも付きではない。

 NGOは教育にも深くかかわり、オランダの小学校の教科書や副読本の多くは、こうしたNGOが提供しているという。社会貢献こそが人生の目標であり、そうした社会活動に参加することが、人生のほんとうの生き甲斐であることを、それこそ小さいときから学校や家庭で繰り返し学ぶわけである。オランダの教育制度は理念がはっきりしていて、しかも実践的である。

 こうしたさまざまな社会活動に参加し、そうしたなかで人間的に成長することが、すなわち個人のほんとうの幸福であるという考えは、オランダ人の自然な常識にさえなっている。日本人にはほとんどこうした発想がないが、これもまた日本の社会性を軽視する教育制度のしからしめる結果だろう。

 オランダの子供たちは大学入学試験の勝者になるために塾に通うこともなく、これという受験勉強もしないが、高等教育の水準ははるかに高く、ノーベル科学賞受賞者の数は日本の2倍以上もある。研究活動も又、最高の社会貢献と位置づけられているので、学者の士気も高く、国民の共感や援助も得られやすいのだろう。

 長年オランダに住んでいる人の著作によれば、政治家の汚職は皆無で、ホームレスも一人も見かけないという。ワークシェアリングを採用し、ほぼ完全雇用を達しながら、しかも経済の国際競争力ランキングでは常にベスト5に入っている。(日本は27位)この活力の根本にあるのが、「人生の目標は社会貢献にある」というオランダ流人生哲学ではないかと思うのである。

<今日の一句> 団栗を ひとり拾へば 鳥の声  裕


2002年10月04日(金) 教育の目標は何か

 イギリスに長年住んでいた人の話によると、イギリスでは、小学校に入学すると、ある一つの言葉を繰り返し教えられるのだという。そしてその言葉というのは、「勉強をする目的は、政治に参加できるようになることである」ということだという。(先日放送されたNHKのラジオ番組による)

 いかにも民主主義を最初に実現した国らしく、教育の理念がはっきりしている。人々が幸福に暮らすためには、何よりも国の政治がしっかりしていなければならない。君主や独裁者、軍人や官僚の横暴から自由であるためには、国民一人一人が政治に参加する主権者としての自覚と能力がなければならない。そしてそのような政治意識に目覚めた個人を養成することが公教育の本来の目標と考えられているわけである。

 こうした自治意識を持ったよき市民になるための教育は、残念ながら日本ではほとんど顧みられていない。このことは、学生に「勉強する目的」を訊いてみればわかる。「良い大学に入り、いい会社に就職するため」という利己的であまり視野の広くない答えが返ってくるだろう。「政治に参加できるようになるため」という答えは、ほとんどないのではなかろうか。それは、もとよりそのような教育がなされていないからだ。

 教師や親もこうした意識を持っている人は少ない。円周率の計算や分数の計算ができなくなったと言って大騒ぎするが、もっと憂えるべきことがある。それは生徒が一人一人自分の頭で主体的に物事を判断する能力が、過去においても現在のおいても等閑視されて、ほとんど訓練されていないということである。

 身の回りの問題について、自分の意見を持ち、これを自分の言葉で表現できること。異なった人々の意見に耳を傾け、自分に対しても他人に対すると同じように公平で客観的な批判的精神を持つこと。このような自由で平等な対話精神や自立的な思考力は、個人が政治に参加し民主的に社会を営むための大切な要素である。

 教育の目標は何かと訊かれれば、私は「個人の幸福を実現するため」だと答えてきた。この教育観は、「政治に参加するため」というイギリス流とはまるでちがっているように見えて、それほど遠く離れてはいない。個人の幸福は民主的で個性的な生き方が尊ばれる社会の中で実現される。個人の幸福を実現することと、そうした自由で平等な社会を創り出す活動に参加することは、本来一つのものの裏と表である。

 大学受験の勝者になるためのカリキュラムが優先され、反社会的なエゴイズムが横行する日本の閉ざされた学歴社会では、こうした本当の意味で個人的・社会的な視野に立った教育の理念は育ちようがない。今後、市民の政治参加を重視し、そのために必要な社会的能力の修得を教育の目標だと考える人々が増えてくれば、日本人一人一人の未来も明るくなるだろう。
 
<今日の一句> なにゆえに 暑さかえりぬ 衣替え  裕


2002年10月03日(木) 「自分」を創作する

 昨日の「自己推薦文サンプル」について、北さんがこんなアドバイスをしてくれた。なるほどと思ったので、ここに引用させていただく。

  ーーーーーーーー  「自分」を創作させましょう ーーーーーーーー

 強い動機があって志望しているわけでもない者に「志望の動機」が書けないのはあたりまえ。推薦できるような自分を持っていない者に「自己推薦文」が書けないのはあたりまえ。

 橋本さんの虚しい努力、私も何度となく経験していますのでよく分かります。
「動機があるかのように」「自分があるかのように」創作させればいいと思っています。

 マニュアル社会です。私なんか、書けない生徒には、割り切ってどんどんサンプルを示します。小論文指導なんか、様々な「模範解答文」を読ませて、それをマネさせることから始めます。

 このサンプルは、ただ誠実、前向きなだけで、その人の何の特長も感じられない文章だと思います。

「自己推薦文」なら、自分の持っている他人にはない特長を、もっとバーンと出すべきだと思いますね。その生徒にかすかにうかがえる「特長らしきもの」を見付けてあげて、それを拡大して、書いてあげるしかないでしょう。
もっといろいろなサンプル文を用意されてはどうですか。

  ーーーーーーーーーーーー 引用終わり ーーーーーーーーーーーーー

「自分のいいところを思い切り書いてごらん」というと、多くの生徒は「なんにもない」という答えが返ってくる。「そんなことはないだろう」と重ねて言うと、
「だったら、先生、私の良いところ教えて」という。自信を喪失しているのだ。そんな生徒の自信を回復させてやるために、教師は日頃から生徒のよいところを発見し、教えてやらなければならないのだろう。

 以前も就職試験を受けに行く生徒が、「面接で長所が何かと訊かれたらどうしよう」と不安そうに言うので、
「いいところなんかいっぱいあるじゃないか。まず、声が大きいだろう。元気がいいもの。それから、掃除を毎日やってくれる。先生にほめられたって面接で話してもいいよ」
 そんなふうにアドバイスしたことがあった。

 私も普段は生徒を誉めることはしない。あらさがしをして、叱ってばかりいるような気がする。しかしこれでは生徒はますます萎縮する。「自己推薦文」が容易に書けないのは、自分が周囲から肯定的に評価された経験が乏しく、むしろ親や教師からいためつけられ続けた負の遺産のせいなのかも知れない。

 「自己推薦文」を書く中で、そうした負の遺産を精算し、ポジティブな自己イメージが発見できれば、これにこしたことはない。まずは紙の上で「自分」を創作して新たな自己のイメージを掴むことである。それがやがては将来の人生において、新しい自分を確立する契機になるかも知れない。

 つまり、北さんのいうように「動機があるかのように」「自分があるかのように」創作させれば、そのうち動機や自分というものが育ってくるかもしれないということだ。まあ、俗に言えば「嘘か出たまこと」、「ひょうたんから駒」という奇跡がおこらないとも限らない。

 ただし私は北さんが日頃から口にする「かのように精神」には批判的である。これはたしかに大人の智慧というべき処世術で、その効用は認めるものの、ときとして悪弊の方が大きいと考えるからだ。具体的には戦前の天皇制の問題がある。

 天皇を神であるかのよう考えることで日本は近代化を成し遂げたが、やがてこのことが恐ろしい結果を将来することになった。「かのように精神」のもとでは、民主主義に必要な科学的精神は根付かないのではないかと思っている。

 さて、自己推薦文がなかなか書けなくて困っていた生徒だが、ようやく自己を肯定的に評価する視点に立って、それらしいものを書いて持ってきた。私の拙いサンプルは使わずにすますことができたわけで、私にとっても生徒にとっても、これはさいわいなことだった。

<今日の一句> 柿食ひて 友を想へり 月の夜  裕


2002年10月02日(水) 自己推薦文の書き方

 3年生の担任をしている関係で、進路指導に忙しい最中である。私のクラスは学校推薦で8名の生徒が会社に就職試験を受けに行った。今のところ、5人が合格し、2人が不合格。1人が結果待ちである。大変厳しい状況だ。

 進学の方も、すでに願書の受付が始まっている。受験校の選択からはじまり、願書の書き方や、自己推薦文の書き方など、いちいち相談に乗らなければならないので3年生の担任は今が一番忙しい。

 なかでも難物なのが、「志望の動機」や「自己推薦文」の書き方の指導である。今日も放課後生徒を残してその指導をした。AO入試の願書の締め切りを明後日に控えているというのに、どうしても文章が書けない。

 もう一週間も前から催促しているが、まるで何をどう書いたらよいかわからないので、どうしても書けないという。どうにか書いて持ってきた文章を読むと、たしかにこれがまったく文章になっていない。書き直しをさせてみたが、どうにも改善の兆しがなくて困っている。そこで、仕方なく、次のようなサンプルの文章を書くはめになった。

ーーーーーー  自己推薦文のサンプル(進学用)ーーーーーーーーー

 私は3年間の高校生活で、さまざまなことを学びました。中学校の時は何となく受け身で生活していたのですが、高校生になっていろいろなことに疑問を持ち、いくらかは自分の頭で考えながら行動することができるようになったと思っています。

 とくに進路について少しずつ具体的に考えるようになりました。これからの社会で、どうしたら自分らしく、いききと充実した人生を築いていけるか、そのために今何をしなければならないのか、勉強や部活動、友人達や両親との何気ない日常の会話をしながらも考えていました。そして思ったのは、やはり自立することの大切さです。いつまでも両親や社会に甘えていられないと思いました。

 私は将来は自立した社会人として、しっかりとした職業を持ち、できれば何か社会に貢献できる生き方をしたいと思いました。そしてそのためには、まず高校生活を充実させる必要があると思いました。欠席や遅刻をなるべく少なくし、学校から出される課題には真面目に取り組むことは当然ですが、様々な検定試験や学校の活動にも自主的に参加しようと思いました。もちろん、学校の清掃活動や日頃の学習にも手を抜かないように心がけました。

 たしかに怠け心がきざして、あるいはそのときの感情に流されて、こうした前向きの気持がなくなりそうになった時期もありましたが、それでも高校生活の3年間、まがりなりに自分を見失うことなく努力して、それなりの成果をあげることができたのではないかと思っています。たとえば日商簿記の検定や英検3級、漢字検定準2級などに合格し、愛知県からは技能検定顕彰証書も受領することができました。2年生の時は一年間、皆勤賞もいただいています。

 高校を卒業して、大学に進学したいと思ったのは、さらに自分を磨き、社会人としての自覚や能力を高め、職業選択の幅を広げるためです。特に貴校に学ぶことで、高校3年間で学んだことを生かし、さらに「社会貢献できる広くて深い専門性」を身につけることができるのではないかと考えました。

 私はまだまだ、考えは未熟ですし、意志の弱いところもあります。社会についての認識や、自分自身についての認識も十分だとは思っていません。人格的にも未完成で見劣りしますが、こうした自分をこれから積極的に変えていこうという向上心だけは誰にも負けないものを持っています。貴校に進学して、さらに豊かな社会性や専門性を身につけ、人間的にも成長して、職業人として社会貢献できる人間になるための一歩が踏み出せたらと願っています。

 (40字×30行=1200文字)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 せっかく書いたので、ここに載せてみたが、私はこうした文章はいささか苦手である。大学に入ってやりたいことをもう少し具体的に書けるとよいが、所詮他人事なので文章に力が入らない。サンプルとしてふさわしいかどうか、担任がこんな文章を考案すべきなのかどうかも含めて、何なりとご批評いただければ幸いである。

<今日の一句> 栗食めば 父を想へり 野分過ぐ  裕


2002年10月01日(火) 悩める貝殻に宿るもの 

 小説家はしばしば負の体験をバネにして文章を書くという。負の体験というのは、貧乏とか病気、失恋、あるいは虐待による性格異常、身体的欠陥、インポテンツ、まあそうしたたぐいのあまりありがたくないことだ。そうした負の体験が大きくて深いほど、人を感動させるいい小説が書けるらしい。

 この説に従えば、負の体験を持たない恵まれた人間はたいした小説が書けないということになる。また、負の体験も書いているうちにどんどんすり切れてくる。負の体験を食い尽くしたときが、すなわち作家としての生命が終焉するときということになろうか。

「悩める貝殻にのみ真珠は宿る」というアンドレエフの言葉があるが、これは大方の真実かもしれない。たしかに負の体験を何も持たずに、人を感動させる作品を書き続けたという作家は、世界にあまり例がないのではないだろうか。

 そうすると、これから小説を書こうとする人へのアドバイスとして、「小説を書くには、自らの負の体験を見つめること」を言うのもよいかもしれない。どんな順風満帆にみえる人にも、負の体験の一つや二つはある。その鉱脈をさぐりあてることができれば、そこから、何か独自な作品が生まれてくる可能性がある。

 もちろん負の体験を持つ人がすべて文学者になるわけではない。ある人は画家になるだろうし、実業家や政治家になる人もいるだろう。学者や独裁者になる場合もあるだろう。つまり、人が何事かをなし、ひとかどの人物になるためには、作家にかぎらず、何らかの負の体験がそこに介在していることが多い。

 負の体験は小説家の専売特許ではない。負の体験をバネにして、人は自分の資質に応じた活動をなし、何事かを成し遂げようとする。このことは、人間の活動全般にわたる原則の一つだということができよう。

 いずれにせよ人はそうした負の体験をバネにして、活動に邁進する。苦しい鍛錬に耐え、歯を食いしばって精進し、そうした人生の試練を乗り越えようとする。負の体験のもたらすコンプレックスはときとして、大きなエネルギーの供給源になる。

 ときとして、悩める貝殻にとんでもない邪悪なものが宿ることもある。それはまた、詐欺や犯罪の火薬庫とならないとも限らない。その意味でも、自己の負の体験の意味を考え、これをはっきり認識しておくことは、よりよき人生を建設していく上で重要なことかもしれない。

<今日の一句> 秋雨に ほどよく濡れて 秋桜  裕

 秋桜(あきざくら)はコスモスの和名である。メキシコ原産の一年草で、幕末に日本へ入ったが、広まったのは明治12年(1879)、東京美術学校教師のラグーザが、イタリアから種子を持参して以降だといわれている。「秋桜」という和名が付けられたのは明治時代らしい。 


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