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2003年10月29日(水) バナナちゃんだよ。





いとこが大宮からコスモスを見に来て、ご飯(今日は餃子と麻婆豆腐)を食べて風呂に入り、帰っていった。イラストが雑誌に載るそうだ。頑張っているなあ。久しぶりにテレビをつけたら渡部篤郎っちがアンニュイな髪型で「別れてくれ……」と来週の予告をしている。

町田康のウェブダイアリー(http://www.machidakou.com/)をかれこれ1年前から愛読する。この人の日記がすごいのは、本にまとめても売れなさそうな、まさに食事と日々の「業務」の記録のみで成り立っているところ。とかまじめに書くのがばからしくて本当はいやんなるよ、だって「ぎょんべらむ」って何?ってくらいまじめに書いてるでしょう。

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2003/10/23
午前、原稿。午後、仮眠。書見。夕、自宅にて卵焼きを食したり。人間の渦潮。むかし渦潮という洗濯機があったなあ。洗濯機の修理屋を呼ばんといかんなあ。面倒くさいぜ、ベイビー。「わたしは捨て子やったんどす」のところで爆笑した。夜、ニゴ世話。業務。ぎょんべらむ。



2003年10月28日(火)

会社でピンキーをもらったのでヨーグルト味を食べていたら、ハート型のがでた。その後はうきうきはねる乙女心よ。ねえ、分かってるの?この気持ちを、どこかの国の王子さまったら。

雨の日だったので『ばらの花』を聞こうとしたら朝、『team rock』のアルバムが見あたらないので『さよならストレンジャー』にする。『東京』の二回目のサビの前、ギュイーンとギターが鳴って、ためた後にドラムとボーカルが入る瞬間!!いつも泣きそうになる。今日の帰りに聞いた時は生理的興奮状態に陥り、なんだよ畜生、と思って市ヶ谷のお堀を見た。世界文化社のビルの光が映って揺れながら、その水は黒く、深く、私の前に横たわっていた。「君がいるかな君とうまく話せるかな、まあいいか、でもすごく辛くなるんだろうな」と、岸田くんは歌う。

そういえばこの間デルフォニクスに行ったら、レジのところで「あ、お財布(使ってくれてるんですね)」と店員さんがすこし照れて、ひかえめに笑いながら話しかけてくれた。「もしかして時計も?」。「あ、恥ずかしいです」とすぐにお会計を済ませて立ち去ったのだけれど、とても嬉しかった。ああいう普通の文房具店みたいなところが好きだ、あの店は。なんだろう、買ったマフラーを嬉しくて「その場でつけたいんです」と切り出せる雰囲気というか。そのあとたった210円のマッチをプレゼントに包んでもらう時も、少しも気後れしなくて。





2003年10月27日(月) 白みに耐えろ(と、松尾スズキはいう)

この間電話で友達が、「予備校の帰りに好きな子を待ち伏せしていたけれども、あ。と一言くらい発しただけで通り過ぎられてしまったようなぐつぐつの、そして今考えると清々しい恋の記憶がふと歯を磨いている時などにでてくる」と言ったが、同じような感じで私は今日「コスモスマラソン」という地獄の持久走大会の一種がたしか今頃の時期に行われていた記憶が、電車の座席でようやく上巻が青山ブックセンターに入っていた武田百合子『富士日記』(中公文庫)を読んでいる途中に頭に浮かんできた。

勿論、私にとっては地獄巡りのような5.3キロではあったわけだが、調子がいいと(というか調子がよくならないだなどということは当時の私にはあってはならないことだった)あれを「ランニングハイ」というのだろうか、だんだん体が乗ってきて、いくらでも前の人を追い抜いていける時がある。

それが来るのはたいてい後半で、作戦としては前半8位くらいにつけておいて、ばてた人をランニングハイが作り出す中距離走的スピードで拾いながら最後はちゃっちい銀メダルがもらえるくらいの順位に行くのがいつもの作戦だった。

その年(13歳の時だ)のランニングハイは、真っ黄色に紅葉した銀杏並木の一本道に折り返したところでやってきた。ああ、と私は気持ちが良かった。一瞬、もしかしたら走っていることを、幸せだと思ったのかもしれない。私はその直線で、昨年の優勝者を含んだ数人を抜いた。



『富士日記』はいいと思う。私が卒業論文で研究する予定の『ドロシー・ワーズワスの日記』(原題:Journals of Dorothy Wordsworth)と共通のものを感じる。ドロシーワーズワスは、”イギリスロマン派の代表的詩人で湖水地方の自然を愛でながら生涯を過ごしたことで知られるウィリアム・ワーズワス”の妹である。彼は生涯を妻よりも妹に寄り添って過ごした。その為グラスミアでの日々を中心に書かれたドロシーの日記は彼の日常生活を知る貴重な資料となっている。と、偉そうに書いたよ、もぐもぐ。



最近ポラロイドカメラを買ったのでやたらと写真を撮っている。今日は母を撮った。ポラロイド、とかっこよく書いたが種をあかせば「チェキ☆」です。このあいだできあがった写真を半ば無理矢理に友達に見せたら「んー」としばらく眺めた後に渋い顔で「これはいいんじゃない?」と一枚だけ選びだしてくれた。

てっきり「いいよ、うまいよ」と褒められると思っていたので私は驚いた。私はこんな風に誠実に、人に、あるいは「作品」(かぎかっこをつけたのは、「私のは作品じゃないよ」という謙遜の意)に向き合うことは出来ない。

そしてだから、向き合えなかいがために、昨日書店でゲルハルト・リヒターとかいうドイツ人のアーティストの写真集(作品集)を見せられた時も「あーいいね〜」としか言葉が出なかった。それではそこらへんで「いいよね〜」「ああ〜あれはいいよね〜」と前提も共有せずに分かり合った気になっている私がかつて疎んでいた人々と同じになってしまうのだと思った。どうしよう。



アフリカに行っているきゃへくんからメールが来た。大変なこともあるみたいだけれども本当に頑張って欲しい。日本語が使えるようになったとのことなのでこれからはメールしますね。手紙は郵便事情が悪くて2週間もかかるという。



最近私の描く絵が、時代の寵児になっているようだ。ぐふふ。何を書いてもいいねえ、といわれる。ただし、「子供の絵(やらせ)」という題名の時だけ。これは、と思い『「子供の絵」で作る雑貨』(アスキーコミュニケーションズ)を買う。



2003年10月23日(木) 「いそがしくてあえないね」

オリオン座がくっきり見える。家についたら手紙が来ていた。ごはんをたべながら松尾さんのドラマ。星の数ほどいる男の中で、この人を頂点に置く自分を「なんかいいぜ」、と思う。昨日はちえこと、久しぶりに会った。

どきどきしながら電話をした、朝の四時まで。中学生みたいだ。何と幸せな日々だろうか。冬の匂いのする風を吸い込んで、だらだらもつれあい出した恋人たちを横目に、ああ池袋のジュンク堂の前の通りをひとり歩く。今日は仕事が少し早く終わって時間があったからドトールでコーヒーを一杯飲み、ひとりで作る私家本のことを少しすすめて、やっぱりポラロイドが欲しいなあと考えながら席を立つ。フィッシュマンズが体に流れてくる。



映画の試写状整理のアルバイト(ノーギャラ)のために、新宿で映画評論家の方に会う。めまいと耳鳴りが持病だそうで、「試写に行くと下手に知ってる人にあうのが辛くて」と歌舞伎町にお金を払って映画を見にいらしたそう。あはは。社会生活が営めていないじゃないか、といった感じで二人で笑い、あまりに素敵な人なのでいつもながら感激する。

田中さんの仕事は本当に体を壊すから2年で転職なさい、とおっしゃるので25歳をメドに自立できたらと目標を立ててみる。ああ、でもすぐなんだろうなあ2、3年なんて。

森山大道のエッセイ、『犬の記憶』(河出文庫)がとてもいい。写真を知るための教科書のはずだったが、小説家顔負けのしっかりした文体にすっかりのめりこんでしまった。もう青山ブックセンターの平積みがどうとか、おしゃれがどうとかはいいや。文句いうのもいいや。だって行けるんだぜ、大道の迷いこんだあの町やこの路地に、私たち。





2003年10月19日(日) 旅の予定を立てる。

夢路いとしの追悼番組をBSでやっていた。何と普通で、くだらなくて、小さな笑いなのだろうと思う。普通なのに、こんなに面白い。君こいしは、兄の思い出を語りながら少し泣いていた。



ここまでぐるぐる回って、全く文章を書く意味を見失い、インターネットに繋がっていることに疲れながらもまだ書いていることの奇妙さと、喜び。最近は暗い自分を避けながら洋服ばかり買って、唯物主義者になろう、クールにやりたいと願ってきた私だ。

それが結局は、自ら孤独と向き合う作業に戻ろうとするこの禁欲的態度は何なのか。



この土日は久しぶりの休みだった。土曜日は横浜美術館に中平卓馬の写真展『横浜原点回帰』を見に行く。「知らない住宅地」「ある河岸の風景」が東横線の窓に次々に広がって、「見ず知らずの人々」が向かいの席に座っている。それだけで嬉しかった。特急が着いた桜木町の駅からは海が見えた。

彼に関する知識はゼロだったのであるが、中平卓馬という人は既成の写真を壊すような構図の写真を撮ってきたいわばアウトローなアーティストだったらしい。それが、『植物図鑑』という作品を境に写実主義者に変わった。ただ、「そこにある、あるがままの世界」を撮る。こちらのイメージするもの、人や、こうあるべきだと描くそれではなく、ただただ彼の前にある、横たわっている絶対的なものを撮る。

昔のファンから届いた批判を掲載している資料(『美術手帖』)に目がとまった。「かつてあなたの写真には詩があった。『植物図鑑』以降の写真には、単に対象があるのみである」と書くその青年の主張に、中平が反論する形で論文を寄せている。何故私は夜を、ぼけた像を撮ったのか。何故白昼にレンズを向けなかったのか。彼は、読者を説得しながら繰り返し自問している。白昼に耐えられない自分を知り、夜というよくわからない闇の中に孤独を隠すという行為は傲慢であり逃げであった。世界を歪曲し、単に自分のなかのあるべき姿として撮っていたに過ぎなかったのではないかと。(私にはそう読めた)

2003年の横浜を、かれは鮮やかなカラーで切り取っている。まさに、そこにある物に、世界に、カメラとはまさにこのためにあるのだと大きな声で叫びだすかのように、まっすぐな視線を向ける。

「世界はただそこにあるだけ」「日々は続くだけ」それは決して悲観ではないことを、分かったつもりでいる。結局生まれて食べて、セックスをし、子供を産んで死ぬのならば、われわれの日常とは、瞬間瞬間をただ"ある"世界と対峙していく限りなく空白の景色でしかない。しかしそこには、きっとうまいカレーライスやきれいな紫色の花や、あるいは戦争を写したテレビの映像があるだろう。くだらない夢路いとしの笑いや、彼の死や、そのドキュメントを見る私のある夜があるのみだろう。

しかし、この写真展を見た私が思ったのは、やはり彼のファンである青年と全く同じ感想だった。

詩を見せてくれ。

詩を見せるのが、写真家だろう。詩を見せるのが、芸術だろう、物語だろう。そう思う。センチメンタルで格好の悪い、滲んでぼけた世界でいいから、中平卓馬が傲慢にも作り出したその妄想に触れてみたい。

世界はただそこにある。世界って何だ?結局私のリアリティは、私のものでしかない。しかし私には言葉に出来ないかもしれない、残念ながらカメラもない。

中平には「言葉」があるではないかと思う。揺れてぼけて孤独で、そんなセンチメンタルな夜を撮ってくれよ。白昼の明るさの中に、自分を晒して辛いならば部屋を撮ればいいだろう。そう思うのだ。



夜の一時過ぎ、「写真展どうだった?」とメールをくれた友達に電話をして、朝まで話した。その人は「うわー、白昼に向き合うんだね、そりゃあ息詰まるよなあ、死ぬまで撮るしかないのかなあ」と苦笑して言った。



夕方、祖母の入っている老人養護施設に初めて顔を出す。彼女がそこに入ってから、どうしても気が進まずに避けてきた面会だった。

耳の遠い祖母は、コミュニケーションがうまくいかない。だから自分の言いたいことを話すのみだ。「れいこは大きくなったねえ、こんないいむすめさんになっちゃって」。同じ台詞を何度も何度も、2.3分おきに繰り返す。「せっかく来てくれたのに、また行っちゃったら寂しいよ」。帰ろうとしたら小さな声が後ろから引き止めた。

午後6時。車いすの老人たちはおのおのの部屋から食堂に集まってきて、順番にご飯を食べさせてもらうところだった。静かな、食卓だった。

泣きそうになるのを、必死でこらえていた。

何故、今まで避けてきたのだろうか、なんともいえない情けなさとむなしさが襲う。「れいこ、ばあちゃん喜んでたんよ、ありがとうね」。帰りの車の中、父がその母と同じ小さな声で言ってくれた。

本を作るのに飽きたらここで働こう。気まぐれと怒られても反論できない、しかしあるはっきりとした考え、意志、目標のようなものが頭をかすめた。人の弱さと向き合うことは、決して文学や物作りでない場所にもあるのだ。そんなことは分かっていたはずなのに、すっと肩の力が抜けた。ものづくりってなんだろうね。

白昼を撮り続ける中平卓馬の強さと、危うさを思う。そして日々死に向き合う祖母を思う。


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