日記
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2001年06月28日(木)  ガンに侵された父の脳 ホルマリン漬け

父の脳のホルマリン漬けは
今も某大学病院の研究室か何処かに
保存されているのかもしれないし、もう存在しないかもしれない。
「今後の研究に これからの医学に 少しでも役立つなら」
そんな思いから 提供を承諾した母。



「大きくなったら、医者になって、たくさんの人の命を救いたい。
 お母さんが病気になっても、私が治してあげる。」

小学校1年生の時から、将来の夢は医者になる事だった。
周りの女の子達が皆、
お花屋さん、ケーキ屋さん、保母さん、お嫁さん、と言っている中で。


本当は
たくさんの人の命を救いたい なんていう綺麗事じゃなくて
ただ、母が喜んでくれる顔が見たくて。
私が「医者になる」と言う度、とても嬉しそうな顔をしてくれた母。
父が死んで暫くは、父の両親と同居していたが元々の不仲に加え
様々な金銭的トラブル等も重なって
ただでさえ父の入院の世話で身体を壊していた母は
ノイローゼ気味になり 
少しの間母の実家で暮らす事になった。
その後、母の実家から徒歩5分の場所に2DKのアパートを借りて
家族3人で暮らし始めた。
母は正社員で働き、弟の保育園の送り迎えや家事も
とても大変な毎日である事は、子供ながらに解っていた。
だから私は夕食後の食器洗いもしたし、掃除機かけもやった。
父親参観のプリントをなかなか見せる事が出来なくて、
でも母は先生からの”連絡ノート”で知って、
黙っていた事を怒られたけれど、
申し訳なさだけが残った。
母親に迷惑を掛けたくなかった。


母の実家、そしてその後引っ越したアパートは、
最初に入学した小学校からは、 ”学区外”だった。
だから、転校を勧められたのだけれど
大好きな先生や友達と離れるのは嫌だった。
学校側に無理を通してもらい、
心配する母にも「遠くても頑張って通うから」と頼んで
通わせてもらえる事になった。
普段から物をねだったりする事の無い、私の唯一の我儘を、
母は受け入れてくれた。
その事には今でも本当に感謝している。


幼い頃から、「とても手のかからない いい子」だと言われていた私は
父が死んでからますますその性格が顕著になっていった。
只でさえ、幼い頃から「人一倍手のかかる子」だった弟の世話だけで
母はもういっぱいいっぱいだったのだ。


そのせいかどうか解らないが
あまり弟とは仲良くなかった気がする。
しょっちゅう喧嘩ばかりしていた気がする。
一応「面倒見の良い姉」ではあったが、
やはり年も近かったし、何よりきっと、”嫉妬”していたのだろう。


弟は小学校に入学する前から既にコマカイ物を「万引き」するように
なっていたし、小学校に入学してからもどんどんエスカレートしていった。
同級生の持ち物を取ってきてしまう事もあったし、
母親の財布からお金を抜き取る事もあったし、
小学校2年生の時には、母が旅行用にと引き出しに入れておいた
数万円、という単位のお金を持ち出し、
駅前のデパートで高価なプラモデルを買っているところを
運悪く(?)と言うか、運良く
たまたま母の実家の、伯母さんと従姉妹と私がデパートのレストランで
食事をする前に玩具売り場に立ち寄った時に遭遇、発覚して
大問題になった事もある。
ちなみにそれ以前に何度か購入していたプラモデルは、
全部友達の家に預けられていた。
本当に、今思い出しても末恐ろしいガキだと思うが、
「手癖の悪いのは一生直らない」と言われる通り、
いくら怒られても、母を泣かせても
大きくなるにつれますますエスカレートしていくのだけど。


とにかく私はそんな弟が大嫌いだったし、
弟がこんなだから尚更自分だけはしっかりしていなければいけないと
思ってしまっていたのだろう。
今にして思えば、弟はただ寂しくて、
その寂しさが”万引き”という形で表現されていたのだろう。
勿論、その行為自体は決して許される事ではないし言い訳にもならないけれど。
私はきっと羨ましかったのだ。
我儘ばかり言う弟が。
母を困らせてばかりいる弟が。
寂しさをそうやって表に出せる弟が。
私は決してありのまま表に出して、母を困らせるなんて事は 出来なかった。
私が「医者になる」と言えば 母は喜んでくれた。
私にはそれしか出来なかった。


こうして書いていると、随分としっかりした優等生のような子供みたいだが、
実はそうでもなかった。
小さいころはそこそこ頭が良かったので勉強では全く困らなかったけれど、
何しろ忘れ物が多かった。宿題を忘れる事も多かった。
そして母はそんな事に気がつく余裕さえなかったので、
あまり怒られる事すらなかった。
まあ、自分で自覚して「ああ、明日の持ち物は何だっけ」と
行動できるようになるのにそう時間はかからなかったが、
少々信頼され過ぎ、と言うか、放って置かれ過ぎていた感はある。


普通は小学校低学年位なら、母親があれこれやってくれる年頃なのだろうか。
「明日は算数で三角定規を使うでしょう?」とか
「宿題はもうやったの?」とか。
しかしそんな暇な母親ばっかりでもないだろうし。
不満など無かった。


ちなみに小さい頃完全に放って置いたその反動か何だか知らないが、
中学生頃から母は異常な干渉をしてくるようになる。



私が忘れ物をするのは、
しっかりしているようで実はちょっとボーっとしている所があったからだし、
だから母親のせいとかではなかったと今でも思っている。
今でも思い出すのは、
「小学校1年生の算数のドリル」
何学期だったかは、憶えていないのだけれど。
ボーっとしている私は、その宿題の存在さえわかっていなくて、
学校に置きっ放しにしていて先生から母へ連絡があった。
私はその時初めて宿題の存在を知り、
その日のうちに最初から最後まで終わらせてしまった。
(どうも昔から先生の話を聞いていない子だったようだ)
さすがに不思議に思った母が夜先生に電話すると、
案の定”宿題”はその中の4ページ程度であった。
おかげで私はその学期中、算数のドリルをやらなくて済むようになった。
母は、びっくりして呆れながらも、笑っていた。


母に放って置かれた、と書いたが、
決して母が私に無関心だったわけではない。
算数の”九九”を覚えなきゃいけない時は、一緒にやってくれた。
ローマ字を覚えなきゃいけない時だって、一緒にやってくれた。
問題を出してくれたり、一緒に歌を歌ったり。
だから私はちっとも”不幸”ではなかった。
私が4歳から習い始めたピアノを、5歳の夏に父が入院してからずっと
中断して、そのままになっていた事もとても気にしていて、
でも自分からは決して「もう一度ピアノをやりたい」と言わない私を気遣ってか
小学校2年生になってから近所に住む従姉妹達が、ピアノを習い始める時
きっとこの子も習いたいのだろう、と
同じピアノ教室に通わせてくれた。
ほぼ同時期に、従姉妹達がスイミングスクールに通う事になった時も、
私と弟も同じスイミングスクールに通わせてくれた。


母の実家は割と裕福で、従姉妹達は欲しい物は何でも買って貰える環境だった。
そして、近所に住んでいる事もあって私達はとても仲良しだった。
母なりに、「きっと羨ましいし、寂しいだろう」と考えて
精一杯の事をしてくれたのだった。
母のお給料で、家族が生活していく他にお稽古事の出費は
正直少し大変だったに違いない。
元々負けず嫌いと言うか、勝気な人で、
勿論時々私達の面倒を見てもらう事や、一時期の同居のように
世話になる事はたくさんあったが、
実家から経済的援助を受ける事は頑なに拒んでいたし、
何より「母子家庭だからといって子供達に惨めな思いをさせたくない。」
と強く思っていた人なので、
確かに他の家庭に比べて色々構って貰えることは無かったかもしれないが
母は最大限出来得る事をしてくれていたのだ。
私は本当に心から感謝している。


だから私は自分が”不幸”だと思った事は無い。
学校の環境にも、本当に恵まれていた。
私は誰よりも明るかったし、たくさんの友達に囲まれていたし、
寂しい なんて 思わなかった。
それでも
私は自分が”特別”だと思っていた気がする。
特別、と言うのは、別に育った環境云々ではなくて、

何処か、物事を冷めた目で見ている自分が自分の中で存在した。
人の死が突然やってくる事、
人との別れが突然やってくる事を
私はいつも自覚していた。
一人で生きていけるようにならなきゃいけないのだと解っていた。


周りの同級生達が、時々ふと 凄く子供に見えて
無邪気に成りきれない、子供らしくない自分を感じていた。
母だけではなく、他の大人達に対しても
子供らしく甘える事もできかった。

要するにかなり可愛げのない子供だったという事。それだけ。

そんな私を、母方の祖母は、
5人の孫の中で 一番可愛がってくれていた。
と言うか、今でも一番可愛がってもらっている。
本当に祖母にはいくら感謝しても感謝しきれない。
祖母がいなかったら、現在の自分は無かったかもしれない、とさえ思う。



私の医者になりたいという思いは
高校入学とほぼ同時に 完全に消えて無くなる事となる。
学力が追い付かなかったのが一番の理由だけど(笑)
その時の私にとってはもう、
母に喜んでもらう必要は無かったし、
私が小学校高学年の時に母と再婚した新しい父との生活は
私にとって幸せだった。
私は父のことが好きだ。


だからと言って、死んでしまった父の事を忘れる事は決してない。
むしろ父への感謝の思いはより強く深く

私には父が2人いて
2人の父のおかげで今の自分が成り立っているのだと思っている。



医者になる事を諦めた後で、
死んだ父親が早稲田に行きたくて、でも入試で受からなくて
浪人は親から許されていなくて
結局地元の国立大学の工学部に入学した事を思って、
じゃあ私は早稲田を受けようか、などと思った事もあったが、
それは一時的な思いに過ぎなかった。
何より私にはそんな能力は無かったし、
もうそんな事をして 誰かの為に自分を追い込む事などしなくて良かった。



心残りなのは、
もし医者になっていれば、
大学病院に行き、父の脳のホルマリン漬けを
この目で見る事が出来たのかもしれない、という思い。
只それだけ。





今日突然両親から お中元 が届いて(笑)
お中元なんて貰ったの初めてだし、大学生の娘にお中元なんて聞いた事無いし、
かなりびっくりさせられたけど
(突然思いついて送ったらしい。なんだそりゃ。)
中身はと言うと、3種類の野菜ジュースの詰め合わせセットで、

  ちなみに私はここ2年半、毎朝欠かさず『充実野菜』
  (たまに浮気して『野菜生活』)を飲む事を習慣にしているのだけれど、

こんな風に私のことを心配してくれる両親に対して

心から感謝しているし

私は幸せなのだと感じる事が出来る。



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父の事を書こうと思って書き始めたのに
書いたものを読み直してみれば 母の事 母への思いばかり。
中学、高校時代
一時は 殺したい とさえ 思っていた
それほど嫌悪していた
母に対して
母の存在に感謝の気持ちを
感じる事が出来るようになるまで 家を出て 2年半 という年月がかかった。
それだけの時間が必要だった。
私が 決して手の届かないところにあると思っていたものが
実は 私には 最初から 
私の人生には 溢れるくらい存在していたのだと
気付くまで
理解するまで

私は何てバカだったんだろう。

昔の私を 笑い飛ばしてしまえる程に
今の私は 本当に幸福なんだろう。





2001年06月26日(火)  死んでしまった父も 現在の父も 大切で

憶えているのは
大学病院の暗く長く続く廊下と  売店の明かり
廊下の中央は何色かのビニールテープが行き先を示し


父の脳腫瘍が発覚して 入院したのは 暑い暑い 8月


私は何故か、病室の風景も、ベッドに横たわる父の姿も
ほとんど憶えてはいなくて




ある朝起きて、夜中に父が死んだと聞かされ
父の両親に預けられていた私達は最期を看取る事も無く


私は6歳
弟は4歳


お葬式の時
父がもうこの世にいないという事実よりも
目の前の母が泣き崩れる姿が  ただ  悲しくて悲しくて

私も泣いた。


大学病院の隣  公園の銀杏の葉は黄色く色付いていて
そんな季節に私は  父の命が限りあるものだと教えられ



父は、私が小学校に入学して、ランドセルを背負っている姿が見たいと、
懸命に戦っていたのだけれど
入学式の20日前に力尽きてしまった。



現代のように、ホスピスで 最期の瞬間までより良く生きる、とか
モルヒネで痛みを和らげ、 無駄な延命などせずに
残された時間を、 家族に囲まれて 穏やかに・・・・
そういう風潮はまだ 無かった。少なくとも一般的ではなかったようだ。
そして父は一分一秒でも良いから長く、長く生きながらえる事を望んだのだ。
家族を残して自分一人逝かなければならない
辛さ  口惜しさ  心残り  恐怖  寂しさ  怒り  悲しみ  苦しみ
それはきっと私には想像がつかない位、深く、強く、激しく


自分の死が迫って来る苦しみ
抗癌剤の激しい副作用
父はどんなに辛い治療でも泣き言一つ言わずに、耐えていたのだという。
自分がもう 長くはないと知っていても
治る事はないのだと 解っていても
「子供達の為に一分一秒でも長く生きていたい」 繰り返し母に言った言葉
最期の数日間は意識も無く、ICUで、身体に無数のチューブをつなげて

そんな姿であっても、長く生きたい。
それは父自身が望んだ事。

「スパゲッティー漬け医療」とか言われる最期。
(たくさんのチューブがパスタみたいに見えるから)
現代の末期ガン患者の”死に方”としては
否定的な、”尊厳の無い”最期。


私自身、”自分”が”自分”でなくなった状態で生きていたいとは思わない。
無数のチューブとたくさんの機械に囲まれて
只”生かされている” そんな状態なんて もはや私ではない。

母からは、「もし私が 死ぬってわかったら、ホスピスに入れてね。」
と 言われている。 何度も何度も。


それでも
私は父の生き方を誇りに思うし、父のことを愛しているし、
私も父に愛されていたのだと信じる事が出来る。




先週の日曜は 父の日 だった。
だからと言うわけじゃないけれど、
これから暫く  父の事を 少しずつ 書いていこうかと思う。
だって それは私の原点で
書き残す事で もう一度 自分の事を 見つめ直す事が出来る

そんな思いから。





父の日
私は毎年 ビール券を贈っている。(母が再婚した、現在の父へ)
結局他に思い付かないし
結局一番喜んでくれるし


お父さんが喜んでくれると 私は凄く幸せだから


私はお父さんの子で良かったと 本当にいつも幸せだから


これからもずっと 私のお父さんでいて下さい




2001年06月23日(土) 回転寿司25皿が自己最高記録 / 「そうだ、歯医者に行こう」

でも今日は18皿でSTOP

友人(パチンコ3万勝ち)のオゴリだったので一応遠慮?
と言うか、「美味しく」食べられる所で、終わっておくのが礼儀かと。

身長155cm・体重42kg と小柄な私が20皿以上食べると
大体、寿司屋のオジサン達にびっくりされる。
「おねーちゃんよく食べるねぇ!」と言われ、
男友達と食べに行くと、「食うペースが男と一緒!」と
これまたびっくりされる。
普通の女の子は、一皿食べてる途中に左手で次の一皿を取っている、
なんて事はしないんだそうだ。ふん、そんなん知るか。
私の食いっぷりに魅せられて奢ってくれたりする奇特な(優しい)人もたまーにいるので、
まぁこれも数少ない私の特技の一つかな〜? なんてね。
履歴書には書けないけど。

でもね、あくまで「一般的な女の子よりはよく食べる」ってだけで、
やっぱりTV出てる人達とかって、格が違うって感じだよね。
テレ東の”TVチャンピオン”の、”大食い””早食い”の人達って、
本当に凄いと思う。あれはもう、絶対見入っちゃう。
あと、春頃TBS(?多分。)でやってた、
”フードバトルファイト”(←かなりうろ覚え)とかいう
大食い番組で、優勝した 小林尊(タケル?)君、だったかな?
超カッコ良かった!!顔が!!
また見た〜〜い!!


よくTVでやってる
「巨大お好み焼き3枚を30分以内で食べたら5千円」 とか、
「巨大ステーキ3枚(ライス付き)を40分以内で食べたら1万円」とか、
ああいうのも、私には絶対に出来ない。
何故なら、私は超”ねこじた”だから。
それ以前に、私にはあんな量は食べられないけどね・・・。


人よりいっぱい食べられる、って事は、
人より幸せが多い、って事だと思ってる。
だって友達とゴハン食べに行っても、
みんなは食事だけでお腹一杯になっちゃうけど
私はそのあとに一人だけデザートも食べて大満足×2!



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春頃一時期歯が痛い(知覚過敏?)ような事があったけど
いつの間にかそんな事もなくなっていた。あれは何だったのだろう?
その時日記にも書いたかもしれないけど、

私は生まれてこのかた、歯医者に行った事が無い。


今日「そうだ、歯医者に行こう」  
と、突拍子も無く考えたのにはちゃんと理由がある。


「自分が自分だと証明してもらう手段として」


例えば、先月の武○士事件、その後続いた、消費者金融、郵便局、信用金庫、
または美容室までも狙った同様の手口による事件。
ほとんど未遂に終わったけれど、もはやいつどこで黒コゲにされてしまうか
わからない時代。かなり以前にも、宝石店に強盗が入って、ガソリンを撒かれ
女性店員全員が生きたまま焼き殺された、とんでもない事件があった。


ガソリンを撒いて火を付けたら、本当あっという間に燃え上がって
逃げる間もなく 黒コゲ になってしまうそうだ。

そして遺体の識別は、歯によって証明する他手段は無い。
よく、飛行機の墜落事故、なんかにおいても、そうやって身元の
確認をしたりするのよね?
まぁ、職場とか飛行機とかだったら他にいくらでも身元確認の方法はあるだろうけど、たまたま出かけたところで事故に巻き込まれて死んだら・・・と考えると恐ろしい。

歯医者に行ったことの無い私の歯の形なんて一体どこの誰が
証明してくれるというのだろう?


事件に巻き込まれて、死後長い間経って発見されたりした場合もまた同様。
腐敗が進んで、もはやその物体は”私”の原型を留めてはいないだろうね。


私が私であると証明してくれるものは、”歯”しかない。
まぁ、DNA鑑定とかもあるんだろーけどね。



新潟県に、佐渡島、と言う島がある。
私は1年間位の短い期間であったが、住んでいた事がある。
中学に入学し、転校するまで半年位の短い期間だったけど、塾に通っていた。
塾と言っても、都会の受験塾のようなものとはかけ離れた、
お菓子OK、ジュースOK、ほとんど遊びに行く感覚で。
(私の母は転校の多かった私の、学業の心配と言うよりは
 友達が出来ると良いと思って、塾に入れていた部分があったようだ。
 もっと言うと、「こんな田舎でもちゃんと塾に通うような、ちゃんとした
 おうちの子と付き合っていて欲しかった」わけであるが。
 
 そんな私は中2の時の塾で塾長(デブのオッサン)と大喧嘩して
 塾をやめた経歴がある。 昔から気が強かった。
 母はたいそう嘆いたが半月もしない間に次の塾を見つけてきてしまった。)


前置きが長くなったが、とにかく私は、佐渡島で塾に通っていた。
オーストラリア人のネイティブティーチャーがいた。
名前はピーター(仮名)。
中1だったから、
なんか自己紹介とか・・・・
そういった感じの基本的な事しかやった記憶が無いんだけど。



月日は流れ、私は高校生になっていた。
もうピーターの顔なんか忘れてしまった。


同じ塾だった、一番仲の良かった友達から電話があった。


「富士山麓の青木ヶ原樹海で、ピーターの遺体が発見されたらしいよ。」

「新聞にも載っていた。遺体は死後1年以上経過していたらしくて、
 歯型で確認を取ったらしい。」

「新聞によると、何か事件に巻き込まれた可能性が強いと見て、オーストラリアのピーターの母親にも話を聞くなどして捜査していく方向だという。」


 じゅ、樹海?
 し、新聞にも載ってたの?


かなりの衝撃だった。
あんな辺鄙な地で英語教師をしていた事自体謎が多いが、
そんなピーターが巻き込まれる事件とは一体どのようなものであったのか??
どうやら、私が塾をやめた1年後位に、ピーターも塾を辞めていたようだ。
そしてその後の消息は、その塾の塾長さえも、わからないそうだ。
殺された??自殺?と考えられるまでの、1〜2年間、彼の身に何があったのだろうか。
佐渡島から、青樹ヶ原樹海までのルートは、謎のまま。
(もしかしたら、その後真相解明されたかもしれないが、
 私にはそれを知る手段さえ無いので、わからぬまま。)
結局、どうしてもピーターの顔を思い出す事さえ出来なかった私。



この事件から解る事は、
「いつ、誰が、どんな形で、突然事件に巻き込まれるか、解らない」という事。



そして私がもし何らかの事件に巻き込まれて、
青木ヶ原樹海や東京湾や信州の山奥や多摩川や・・・・
そんな場所で、もはや原型を留めていない私の腐敗した肉体が発見されても
今のままではそれが私であると証明してもらう事すら出来ない。


こんな物騒な世の中。
いつなんどき、どんな事件に巻き込まれるか、本当にわからないのだ。



そんなわけで、

是非近いうち歯医者さんに行って
歯石でも取ってもらおうと思う。
虫歯になった事が無いせいで、私の歯磨きは非常にいいかげんです。
だからきっと、歯石
(”歯石”がどんな物かわからないが、歯医者で取ってもらえるらしいので)
がたくさん付いている筈なんです。
歯医者デビューだ!緊張するなぁ。


でも、歯石取るのにわざわざ歯のレントゲン?
(そもそもそんなの撮るのかすら知らん。誰かに歯医者について
 詳しく聞かなければ!) を撮ったりしてくれるのだろうか??
やっぱり、虫歯にでもならなきゃ駄目なんだろーか??



そんな事を考えながら、今☆ハーゲンダッツのアイス☆食べ中。
チェリーバニラ。
幸福な時間。
勿論、全然歯にしみたりしません。
シャリシャリ系だとたまにしみるんだけれども。

ハーゲンダッツは、真夏はあんまり食べないしなぁ。
今のうちにたくさん食べとこ!!
ハーゲンダッツ等の高級系は、冬に暖房の効いた部屋でコタツに入って
優雅に食べてる時が一番幸せ、だと思う。
夏はやっぱり、シャーベット等のシャリシャリ系や、あずきバーなんかの
さっぱり系、あとはバニラでも”爽”みたいな食感のものが良いです。

でも、ハーゲンダッツでも、フローズンヨーグルト系なら
真夏でも美味しく食べられるかな?
結局、何だかんだ言ってて、食べちゃってるんだよね。きっと。


余談ですが、私はアイスはスーパーで箱で買ってきて常に冷凍庫に
数種類ストックしてあります。スーパーかなり安いし。
小売りのアイスだって、1個80円、4個298円!
ハーゲンダッツはめったに安くなる事は無いので、
(それでも、ごく稀に”1割引”位にはなります。勿論、買いだめです。)
よけいに私の心を掻き立てる存在なのでしょう。


一番大好きなのは、やっぱりクッキー&クリーム。


もう1つ余談ですが、私は就活でハーゲンダッツ・ジャパン受けてみました。
採用数15名&英語も出来ない自分にとってかなり無謀でしたよ。
勿論、ネットエントリーシート選考の時点で弾き飛ばされました。
受けた理由は当然、「毎日アイスの試食、食べ放題だ〜♪」という
甘い夢をみたからに他なりません。




2001年06月20日(水) じゃがりこも、オーザックも、大好きなのに〜 (泣)

***遺伝子組み換えジャガイモ「ニューリーフプラス」***


今度はじゃがりこから ↑ 検出されちゃったみたい。


でも、6月8日以降に製造されたじゃがりこは、国内産じゃがいもなので、
回収しなくて良いらしい。

あ〜あ。お菓子の中でも特に大好きなこの2つ。
嫌がらせか??と思っちゃった。
腹いせに(?) 今ピザポテト食べながらこれ書いてます・・・・。
もしピザポテトまで遺伝子組み替えだったとか言って姿を消したら、

・・・・・悲しすぎです。お願いだからそんな事しないで!!!
お菓子メーカーさん、商品輸入してる商社さん、そして何より生産農家さん!
本当ちゃんとしてくださいよ〜〜 頼みますよ〜〜


オーザックが回収されたのって結構前の事だと思うんだけど、
それ以降どこのコンビニにもスーパーにも見当たらないんだよね。
当分復活しないのかな??


秋頃に遺伝子組み替えとうもろこしが結構話題になってたけど、
元々スナック菓子はとうもろこし系よりジャガイモ系の方が
好きだから、あんまり関係なかったのよね。
よく食べるのって、ドンタコス、ポリンキーくらいかなぁ。


じゃがりこの姉妹商品で 「さつまりこ」 っていうのがある。
去年の秋に板橋区成増の西友で発見。友達と2人で大爆笑!
じゃがりこのサツマイモバージョン(そのまんま)ってかんじ。
あんまり、置いてあるお店がなくって。
うちの近所だと、ファミマにしかない。






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昨日のニュースだったかな?
『Yahoo! 来月からADSLサービス開始!何と月額2280円!!』

安〜い。
これを機に我が家も高速通信&常時接続化??
今までの4000円台だと、ちょっと高いなぁ、って感じだったんだよね。
就活中なら良いけど、基本的に私あんまり家でPC使って何か
高度な事やるわけじゃないし。
夜行性だし。テレホで充分、と。


でもねぇ、2280円ならねぇ。
それに、夜行性生活習慣の改善にも貢献するかも??

何より、速い!!!イライラしなくて済むからストレスも溜まらないね!
イライラして夜中に菓子暴食する事も無くなる?かもね!!


折角、去年大学の授業で、HP作ったり、HTMLの基礎を学んだわけだから、
何かしてみようかしら?
新しくHP作ったり、その前にこの日記を少々いじってみたり、とか。






・・・・・・・・・・・







めんどくさ。


ムリ。







2001年06月16日(土) 白ブラ

私の日記を「お気に入り」登録して下さっている方々に対しては
理由はどうであれとても嬉しく思っておりますので、
その方々の日記には目を通させて頂いております。
中には、「成人 (ジャンル)」の方もいらして、
特に露骨な性描写が描かれているわけでもない私の日記を
結構前から登録されているのは理由不明ではありますが、
単に「女子大生」という響きがお好きな方なのだろう、と
勝手に解釈しております。うふふ(妄想)

しかしその方が白ブラウスと白ブラについて間違った認識を
されていたので、気になってしまいまして、
お節介とは思いますが、私の個人的見解を述べさせて頂きたいと思います。

”白いブラウスの下は白いブラ”というある種の幻想を
壊してしまうようで誠に申し訳ございませんが、

それは間違いです。

今年は襟を立てての着こなしが流行っている白シャツですが、
その下のブラは  ”肌色(=ババ色)”  なのです。

それは何故か?

透けないからです。

がっかりですか?・・・ごめんなさい。でもそれが真実なのです。
あの爽やかな白シャツの下は、そうまるでオバチャンが
ヨーカドーやダイエーや、あるいは近所の洋品店で買っているかのような、
あの色気もくそも無い、「オバチャン色」。それが悲しい真実・・・・。


白シャツに白ブラだとね、結構透けるんですよね。
白スカに白いパンティ、も 同様なり・・・。
パンティって言葉初めて使ったよ。なんかおもしろい。

何故なら人間の肌は肌色なので、白いパンツ(下着)だと・・・・・
特にタイトスカートやぴったりしたパンツ(ズボン)だとよくわかりますが
オシリの肉とパンティの境目が驚くほどはっきり、誰の目に見ても明らかに、

透けます。

まあ、白いブラは、透けるといっても色が出るわけじゃないので
気にしない人は気にならないでしょうけど。
ただ、普通にお洒落に気を使っている女性ならば、
ベージュ、もしくはブラウンの下着を身に付けている筈です。
それに、白いブラウスならまだ白ブラでも良いかもしれませんが、
淡いピンクや、ブルー等のパステルカラーのシャツやニット類の下に
白いブラだと、本当にはっきりくっきり透けます。
特に春夏は洋服の生地も薄いので、驚くほど透けます。
いくら外見の服装には頑張って力を入れていても、
その下着にまで気を配れないような女は、女として失格なのです。
プリント柄の下着が透けて見えるなんて、全くもって論外!です。


ただ、「見せブラ」と言って、
「わざと見せる、見せてもいいブラ。どちらかと言うと水着感覚」
なものが、昨年あたり少し流行ったようなので、
(例:黒いシャツの下に見せブラ。第4ボタン位まで開けてチラッと見せる。)
全てを否定はしません。
ただし、よほどスタイルのいい女性でないと似合いません。


「見せパン」というお洒落は無いので、
パンツ(パンティ 笑)透けて見えてる女は間違いなく阿呆です。


そんなわけでして、
ババ臭いのは承知で私もベージュ下着愛用者です。
洋服を脱いだ時格好悪いのは承知の上で。
「どうしてもカワイイ下着を着けたい!!」と言う、勝負日などには
その上にベージュのキャミソールや、ペチコート(?)を着ける事になりますが
それはそれでやはりババ臭さは拭えません。
女の子ならば誰でもカワイイ下着を身に着けていたいと思うものですが、
そうもいかないのが現実。苦渋の選択なのです。


それと、「女性が色物の下着を着けるのは何歳からか?高校か?20歳か?」
という問題ですが、
私は中1から自分で下着を買っていました。
スーパーじゃなくって、カワイイ専門店の下着が欲しかったので。
ただ、今時の子はマセてるので、小学生でも自分で下着を買っている
かもしれないですね。
でも、母親がスーパーで買ってくるようなパンツでも、
”赤いチェックで、リボン付き”とか”ブルー地に、小花柄”とか、
なにげに結構可愛らしかったと思うけど。スーパーといえども、侮れません。
だから、「色物下着は何歳から?」というのは非常に難しいけれど、
「自分で下着を買うようになるのは?」という風に考えると、
早い人で小学校高学年、遅くて高校生、位でしょうか。


あくまで個人的見解です。


以上。




こんな事を長々と書いていたら、ランジェリー大好き!な私は
また新しいランジェリーが欲しくなってきたので、
明日渋谷に行くついでに109で
(この年でマルキュー行くなよ!って感じですが、
 さすがギャル系ファッションビルなだけあって、
 超超カワイイランジェリーがいっぱい売ってるの♪)
あと、その他にも渋谷にはたくさんランジェリーショップがあるので
ハシゴして♪いっぱい買っちゃお〜〜〜♪


実は今日、新宿で豹柄のブラ&パンツ買ったばっかなんだけど・・・・・。
(茶色の豹柄は前から持ってたけど、今日買ったのはモノトーンの豹柄。
 珍しいし、可愛くって、つい・・・・。)


しかし昨日も今日も、明日も外食続きで美味し〜モノ食べ過ぎだし、
昼はこってりイタリアンや中華当然デザート付きだし、
夜はアルコール摂取量多過ぎ(でも心を鬼にして唐揚げは禁止)だし、
下着なんかよりも自分のBodyにもう少し気を使え!!って感じでしょうか。


明日のランチは、和食にしようかな♪



2001年06月13日(水) こう見えても日本経済新聞読んでたりします。

意外性狙ってます。
合コンでモテます。
嘘です。
いや、単に就活の為に購読始めたのですが。
去年の12月からだからかれこれ7ヶ月目?
ん〜、でもそれも今月で終了だね。

新聞は好きなんだけどね。
一人暮らし始めてからは取ってなかった。2年半。
だってほとんど家にいないのに、読む暇ない。
実家はずっと朝日新聞だったから、
就活を考えた時最初は朝日を取ったんだけど、
なんとなく気紛れで日経に変更。(なんかかっこよさげだから!笑)
最初はつまんなくって全然読んで無かったよ。
私は実家に住んでいたときは、小学校高学年の頃から毎日、
新聞に目を通していた。
でも、政治、経済、国際、なんていう面は全部飛ばしてて、
読んだ事無かったんだよね。だってつまんないんだもーん。
そんな女が日経取ってもそりゃ読む所ないわ(笑)。
ん〜、でも、3月くらいからかなぁ。ちゃんと読むようになったの。
結構面白くなってきたの。

今、政治も盛り上がってるしね。
流行に乗って、
『小泉内閣メールマガジン』申し込み受付開始日当日に申し込んでみた。


じゃあ何で購読止めるのかって・・・
だってまた、家で新聞読む暇なんて無い生活に戻るんだもーん。
それに、新聞もそうだけど、広告!って、かさばるんだよね!!
私はマンションの4階に住んでいるので、捨てに行く事自体が
とってもとっても大変なんだよ!!


誰か、私の部屋の窓際に積み重なっている・・・(そう、まるで棚の様に)

新聞(およそ4か月分)
雑誌(3年分の JJ,CanCan,ViVi,Ray等の女性誌、
   その他TokyoWalker,Tokyo一週間等の情報誌・・・)
                            
    


どうにかしてぇ〜〜〜〜


2001年06月12日(火) 好きな音楽(しかしうちのコンポ壊れてて聴けない)

だから仕方ないのでPCで聴きます。音質良くないけど。

激しく音飛びするんですよ。 
去年の夏あたりから。
実家から持ってきた、おそらく6〜7年前に購入(SONY製)
確か、グランドピアノを置いていた部屋があまりにも殺風景だから、という
良く解らない理由で父親が。
だから私の物じゃないのです。
私は自分の部屋にCDラジカセ(古。確か中学の入学祝。)がありましたから。
私の物じゃないので、捨てるわけにもいかないのですよ。
だって多分、修理したら使えるんだろうし。
実家に送り返すのも無駄にお金かかるし、
自分機械音痴だから直すなんてとんでもないしで、
本当は新しいコンポ買いたくて仕方ないのに、
結局未だにうちに存在しています。

今時MDも聴けないどーしよーもないヤツです。
ああああ〜〜カワイイミニコンポ欲しいな!!!



別に、「音楽が無くちゃ生きていけない!!!」って人間でもないので、
大して困ってないんですが。  
只、結構場所取ってて邪魔で困ってます。
ちなみに、音飛びするのはCDの2曲目までなんで、
3曲目からなら聴く事が出来ます(笑)


何で音楽聴かなくなったかって、
勿論コンポが壊れた事もあるけど、
現在住んでる家の近所に、最初の頃
レンタルCD屋が無かったせいだね。(今はある。)
それに、高校生の頃は週2で通ってたカラオケも、
今じゃあんまり行かないしね。


 
  Dear friends so long  忘れない

曲名忘れたけどドラマの主題歌だったかな?歌い出しのこの部分だけ好き。
(アーティスト名は思い出せるけど綴りがわからん・・・・。)



ショパン、好きです。
ピアノの練習は苦痛だったけれど
ショパンを弾いている時は幸せだったから。
ベタだけどリストの”愛の夢”も大好き。


現在、これを書きながら鬼束ちひろ ”INSOMNIA”聴いてる。
最近、こればかり。飽きない。
このアルバムの中では ”眩暈” ”BACK DOOR” 特に好きかなぁ。



もう活動停止しちゃったけどCocco大好きだったのにな。
最後の出演、Mステ思いっきり忘れてて
見られなくって残念でした。



椎名林檎は、かなり大好きです。素敵ですね。
特に好きな曲を挙げてみます。
   ”17”
   ”正しい街”
   ”同じ夜”
   ”依存症”
普通にギブス、歌舞伎町、罪と罰、ここキスなんかも好き。
ベタだろうが、流行りすぎた感があろうが、好きなものは好き。全部好き。


Fayray の、 ”tears”という曲が好き。
彼女の曲はこれ以外知らない。
カラオケで必ず歌います。
彼女の容姿がまた何とも言えず好みなのです。



LOVE PSYCHEDELICO
歌うのは難しい(苦しい)けど好き。かっこいい。




私の中では、好きな音楽=カラオケで一人の世界に入って歌う曲
って感じなんですね。かなり。
だから、基本的に女、しかも暗め(笑)が多い。
あ、
でもそうでもないか。
今井美樹 ”PEACE OF MY WISH”
aiko ”カブトムシ”
女の人の声の方が、聴いていても安らぐっていうのもあるかな。
桜井さんは別格だけれども。



ミスチルはもう、全部好きです。中学生の頃から。
ギリギリガールズに走って奥さんと子供捨てた時はそれはもう大ショック
だったけれどもそれでもこの想いは永遠に変わりません。
ギリギリとの子供の名前、「海音」って付けたんだっけ?
どーでもいいや。まあ、桜井さんが幸せならばそれでいいさ。
ライブは1回しか行った事無いんだけどね。高2の時。
好きな曲名を「これ!」って挙げるのは難しいのだけれども
あえて挙げるなら
    ”Mirror”

人前で泣いたことのない そんな強気なあなたでも




基本的に、激しい音楽は嫌いです。ウルサイ、耳が痛〜くなる系の。
sexは激しい方が好きですけど。
いくら行為が激しかろうとも、そのBGMは穏やかであって欲しいのですよ。
ここまで読んでくれた人どうもありがとう。
こんなつまらない、女子大生の独り言。
人に読んで貰う為に書いているのではないにしろ、
読んでくれる人、気紛れで、投票ボタンを押してくれる人、
そういう人がいるとやっぱり嬉しいと最近思う。




2001年06月11日(月) ブルガリ☆ブルー の香り

ブルガリのブルーは去年の12月から愛用してます。
今日は書く事が無いので香水ネタです。
書く事無いのに日記書きたくなる時ってあるよね。
ちなみにこの半年、就活や、家にいる日が増えた事等の理由で
あんまり減っていません。
高校生の時からランコムのトレゾァが好きで、
(背伸びしたかったのね・・・・)
17歳のBirthdayに彼氏に買って貰ったのね。
今でもたま〜に付ける位好き。 甘くて女らしい香り。
高校生の頃といえば、ジバンシィのウルトラマリンが
流行ったな〜。私も買ったけど、やっぱりトレゾァの方が好きだった。
意外と一番付けてたのはボディショップのバニラのオードトワレだったかも。
あっま〜〜〜っい甘い甘いバニラの香り。
特に、高3になって、もう背伸びしなくても良くなってきた頃。
「お菓子みたい。食べちゃいたい。」と言われていたんだっけ。(激寒)
さすがにもうこの年になるとあれは付けられないよな・・・・。
青春の思い出。


大学に入ってからは、
シャネルのアリュール
グッチのエンヴィ&アチェンティー
ディオールのドルチェ・ヴィータ
買ってはみたものの長続きせず。
でも香水って瓶そのものがかわいくて大好きだ。並べて飾ってある。
余談だけどよく「男変えたら香水も変わる」って言うよね〜。
どーでもいいけど超定番香水ばっかでちょっと微妙だなぁ。
でも、香水に限っては、「人と一緒なんて嫌!!」とか思わない。
仲いい子と一緒だとさすがに嫌だけど。
香水って、人によって香り方が変わるから、
あんまり気にする事無いって思うの。
流行っているのだって、みんなが「いい香りだな」って思っているって
事でもあるし、それってつまり多くの人に好かれる香り・・・・
どうせ付けるなら、周りから、
隣にいる人から、「いい香りだな」って思ってもらいたいものね。
自己主張の激しい、人と違う香りを身に纏うのは、
もっと年取ってからで充分。
ブルー、かなり気に入ってるから当分浮気せずに使い続けそう。



しかし私は基本的に香水付けてるオトコは嫌いです。
いや、友達ならいいんですけどね。彼氏にするのは嫌です。
何かチャラチャラしていて。
「香水男=チャラ男」 ではないけれどね。
話してみればすぐにわかります。
あくまでも、第一印象、の話。
今時のオトコはみんな身嗜みとかとても気を使っていて、
それは良い事だとは思うけれど。
私はちょっと不器用で女の子の扱いもあまり慣れていないような、
男らしい人が好きなんですよ。

慣れてなさ過ぎるのも困るけど。


それと関係ないけど私はロン毛大嫌い。
これはもうず〜っと昔っから、変わってな〜い。
だから今までロン毛と付き合ったこと無いもん。
気持ち悪いんだもん。
生理的にダメなんだねきっと。
2〜3年前?街にロン毛&ヒゲ&ガングロ君達が溢れ返っていた頃、
もう見るだけで鬱陶しかった。
今でもたまにいるよね。まあどうでもいいけど。


押尾学、かっこいいか??
去年、幾つかドラマに出てた時、友達が「超かっこいいよ!」とか言ってて、
私もなんとなく、背も高いし、寡黙そうな感じで、
ああ、これから人気出るだろうな、という感じで、
まあモー娘なっちとの記事出ても、
まあかっこ良さげだしね〜とか思ってたんだけど、
今日まじまじとドラマ見て思ったんだけど、(暇人)
顔、たいしたことないぞ???
よく見ると変な顔だぞ???
あと、奥菜恵の写真見たけど、胸の形悪いし、腹の肉凄い・・・(弛み過ぎ)。
数年前の写真だから、きっと今よりかなり太ってたんだろうけど
あれはやばいでしょ!って言うか本人かわっかんないみたいだけどね。
まあ仮に本人だとして、
撮る方も撮る方だけど、撮られる方もどうかしてると思うよ???
一応、既にアイドル(?)だったわけだしさぁ・・・・。
まあ、若気の至り、ってやつですか?
最近、奥菜=ヤリマン だって噂とか良く聞いてたから(あくまでよくある芸能ネタの噂だけど。)
あんまり驚かなかったけど、これが2年前とかだったらびっくりだね。
さすがに女として、少し可哀相だな〜って思う。
って言うか、奥菜自身も、どうせヌード写真公開するなら、
今の方が少しは痩せて綺麗になってる筈だから、
どうせならそっちにしてくれよ、とか思わないのかな〜。
思い切ってヌード写真集でも出しちゃえばいいのに。
とりあえず、私の中では、
sex中、あるいはその前後に写真を撮る奴=変態
という認識があるので、
今回の事で、
 押尾&奥菜=変態
という図式が出来上がった事になります。
どうでもいいです。はい。
裸で写真撮るやつの気持ちがわかんねぇ。
見せたがり?
自分好き?
今日も寝るの午前7時かぁ・・・・。


2001年06月10日(日) ドンタコス(たっぷりチーズ味) 一気に貪り食う。

現在午前6時を少し過ぎたところでございます。

こんな時間に・・・・・。


肌が荒れるぞ。


折角、1ヶ月かけて、以前の
『昼夜完全逆転生活』
を 直した所だったのに
(少なくとも、3時〜4時の間には寝付けるようになってきていた)


”ものもらい”で昨日一日寝て過ごしたせいで・・・・。

「午前7時に寝る生活」 再開。
このまま秋まで突っ走る勢い。


*******************************************************


この数日間、ずっと考えていた事。

本当なら、あの大阪の事件について
自分の中で色々と思い、ここに書きたい事が
たくさんあったのだけれど
いくら私がここで叫んでいても、何を書き撲っても


死んだ子供達が 生き返るわけじゃない。

だから、やめておこうと思った。





でも

事件を目の当たりにした子供達にマイクを突きつけた
子供達の心の傷への配慮のひとかけらも無い

マスコミが

許せない。





2001年06月09日(土) ☆シックスナインの日☆

または

☆ロックの日☆

☆ムックの日☆

☆この日記のカウンタもようやく1000を超えました☆

さて、そんな日に私は何をしていたかと言いますとね、
いつもの如く昼過ぎに起きたらですね、
右目が”ものもらい”になっていたんですね。
いや、どうも昨日から右目が痛かったのさ、
でも放っておいたんですね、
そしたら悪化してましたとさ。


目が半分しかあかないの。
瞼が腫れぼったくて、少し熱い。
醜いなぁ〜〜こんな顔に生まれていたら死んでいたわ、とか
思いながら鏡を見つめ、
外にも出られないし、テレビ見るのも辛いので、
そのまま夜までふて寝。
そうしたらだいぶ回復した。良かった良かった。
夕飯はスパゲッティーミートソース2人前(ほうれん草入り)


そんなわけで平凡ないちにち。


大学の友人から、「就職決まった」とのTEL。
しかし、生保の営業職だそうで・・・・。
所謂、”生保レディ”。 
就活が始まった頃は、皆が口を揃えて「あれだけは嫌」と言っていた。
勿論私も。しかし私も、現時点で何処からも内定を取っていなかったならば
もしかしたら、受けていたのかもしれない、と思う。
「おめでとう」と言っていいのかどうか。一応言ったけど。
彼女の志望業界は全く違っていた事を知っているから。微妙な空気。
みんなそうやって妥協して生きていくのだ。
(無名)四大卒、女性、の就職はやはり厳しい。


しかし、決まる人は決まる。いくつもいくつも内定を取れる。
就職活動中、そういう子に出会った。
素直に、うらやましいって思ったよ。




「数じゃない。」




わかってはいても。


yuri |MAIL

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