西方見聞録...マルコ

 

 

アクトオブキリングス全長編からのルックオブサイレンス - 2015年10月05日(月)

1965年のインドネシア軍政が行った犠牲者100万人を超える大虐殺事件をまなざす加害者側と被害者側の視覚が交錯する、
ルックオブサイレンスみてきました。

前作アクトオブキリングの全長版を観た後、続けて観ましたよ。かなりハードでしたが、しかし行ってきてよかった。

ルックオブサイレンスはアクトオブキリングの全体像を理解するためにも、 重要な映画です。

アンワルとヘルマンというちょっとイかれた1965年の事件の虐殺実行者側から世界を見るというあんまり普通の人ができない経験を前作アクトオブキリング(AOK)で、したわけですが、今作ルックオブサイレンス(LOS)では虐殺加害者側からの世界を見る視点が結構インドネシアでは普通の見方であることが示されます。

前作、AOKもまた、共産革命から国を守った英雄とされている加害者世界観でを見つめています。しかし虐殺実行者に映画を撮らせてみるという中で、アンワルとヘルマン(特にアンワル)は被害者の親族から見た世界観に触れ、ジャカルタから来たアディ(2作目の主人公と同じ名前ですが違う人です)から自らの行為を相対化され(このアディが一番早く監督のジョシュアの意図を見抜いていたように思うんですが、どうでしょ?)、そして被害者を演じることで「尊厳を踏みにじられる経験」を自分のこととして経験し、「被害者は人間であった」ということにアンワルが行きついた、と描いて見せたわけですよね(実際行きついてるかどうかは謎ですが)。ここまで加害者と一緒に視聴者は加害者視野を共有しなけりゃならんので、この映画どこへ行く気だ!というものすごい視点のジェットコースターを経験するわけです。

そこへ行くと、被害者家族を主人公に加害者家族と出会い、対話を重ねていく今作「LOS」は、もうちょっとわかりやすい。被害者に「愛するものを奪われた」ストーリーがあるように、加害者には「国を守った」ストーリーがありその国を守ったストーリーの成立のためには被虐殺者は「共産主義者で、神を信じず、スワッピングして、残虐で、イスラムの教えるところの人間ではなく敵である」という徹底的な<非人間化>が行われるわけです、学校の教育でさえもそうした視点が示されます。

しかし被害者を(多くのものが実際は共産主義者じゃなくて普通の隣人だったんですが)非人間化することによって成立する加害者の世界観は被害者を非難し、現在に続くセカンドレイプを行わなければ、成立しないわけです。

2作目「LOS」の主人公アディの加害者との対話の目的は「殺された兄を<人間>と認めて罪を悔いてほしい、そうすれば家族も癒されるから」という一点なんですが、加害者側から出てくる言葉は「共産主義者は人間ではなかった」という非人間化と「知らなかった」「まだ小さかった」という遁走ばかり。今ここにある加害者世界の成立のために、非人間化され、二重三重に傷つけられる被害者の状況には誰も思いが至らない。何人かの加害者がアディに「なんでそんなに政治の話をしたがる」と問いますがアディは政治の話なんかしていなくてただ「兄」の話を人間の話として加害者の口から聞きたかっただけなのだと思います。

この被害と加害の間の亀裂の大本である、被害者を非人間化することで加害者のゆがんだ世界観を成立させようという動きは日本の右派(今政権についたり大阪で市長したりしていますが)が語る日本軍「慰安婦」を映す鏡であるなあ、と思ってみました。数の問題にしたり、「朝鮮半島からは」無理やり連れてきたのではなくて、だまして連れてきたのだというような連行時の状況のみにこだわり続けたり(そのこだわりなんか意味がありますか?無理やり連れてきた証拠もインドネシアやフィリピンではばっちり残ってますよね。)、高給(終戦と同時に使えなくなった軍票による支払)をもらった売春婦だったので告発する資格はないと「非人間化」する。

アディが加害者に望んだように、私たちは被害者を人間とみなし、そこから見えた世界がどんなだったか、視点をずらし想像し、被害者と被害者を奪われた人々の思いに寄り添うことから始めねばならないのではないか、と、すっかり歪んでしまったこの社会で立ちすくみながら、この映画を観ました。



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