西方見聞録...マルコ

 

 

孤独に焦がれて - 2006年12月31日(日)

 さて、年末年始の顔見世興行中のはなし。
 今年は3泊4日あめでお実家に逗留させてもらった。別に何の不満があるわけではない。どちらかといえば毎食ごちそうを振舞ってもらって下にも置かぬ接待を受けている「お嫁さん」なわけだ。デモさ、やっぱ他人の家でにこにこ笑って基本的に異議を唱えずに(異議を唱える時は細心の注意を払って唱えて)いるとそれなりに疲れるのである。

 そんで毎年12月31日の午後はマルコはあめでお実家のある吉祥寺界隈にくらしているいとなんちゃんやニルスを呼び出してお茶することにしている。今年はあがささんやれいこなさんも召還して、その代わりニルスはセーシェル(別名熊本)に行ってて欠席だったけど、それなりににぎにぎしく大晦日お茶会は開催された。

 お茶会の参集時刻は午後2時だった。いつもあめでお実家近くのファミレスであめでお実家の人々とお昼ごはんを食べた後、マルコは一人集団を離脱して吉祥寺駅前の繁華街に繰り出す。この日はファミレスが混みだす前に食べちゃおうっと言うことで比較的早く12時半にマルコは駅前繁華街に降り立つことができた。

 お茶会まで1時間半、マルっと時間があいた。

 特にすることも無く、おしゃれな町でぽっかりあいた1時間半。これはなんだか眉毛逆立てて全力疾走をしているようなマルコの年末年始に神様がくれた恩寵のような時間だった。

「わ〜なにをしよう〜」と思うと何をしていいかわから無くなった。

 とりあえず本屋に行って新書を1冊かって、あと漫画のプルートウの4巻も買って、とりあえずどっかの喫茶店で本でも読もう、と思った。井の頭公園のほうに歩いていくとL.L.BEANの吉祥寺店があったので思わず入った。久しぶりのL.L.BEANは洋服購入意欲をそそりはしたが、なんだか値段設定が高くて手が出なかった。「そうだ駅ビルにユニクロがあったな。」と思って駅に引返した。ユニクロは激混みでいきなり購入意欲はそがれてしまった。

 駅ビルをぶらぶらした後、少し早かったけど待ち合わせの喫茶店に行って、ひとりで買って来た本を読んですごした。その後のお茶会はもちろん超ハイテンションでぎらぎらとたのしかったが、その前のこの空白の1時間半もしみじみとうれしかった。

 マルコはそういえば子どもを産む前はこういう一人で何もすることのない町歩きが大好きだった。時間があると、よく本屋で本を買って喫茶店でとにかく読んだり、実家の近くのセゾン美術館にふらっと入ったりした。
 1号さんがおなかにいたとき、産前休暇に突入すると同時にあめでおさんが海外出張に出たことがあった。この産前のあめでおさん不在の期間はマルコの人生前半の最後の孤独の時間だな、と思い切り孤独を堪能すべくマルコは巨大な腹を抱えて一人で鎌倉に行って日航ホテルかなんかに泊まって3日間ほど町歩きをした。ほんとに何をする予定も入れなかったので観光地や高校時代の友達と行ったレストランなんかに行ったりして、時間が空くと持って来た文庫本を読んでゴロゴロと過ごした。

 子どもを産むととにかくこういう「1人で何をすることも無い時間」と言うのは持ちにくい。基本的に「空いた時間」は子どもとべったりだし、保育園や誰かが預かってくれる場合もそれは仕事とか勉強とか何か理由があるから預かってくれるのだ。

 さて昨日関西が誇る人権派ライターのYokoさんが日記に岸恵子の孤独という道づれという番組で語った「親ほど孤独なものは無い」と言う言葉を紹介していた。Yokoサンはマルコとほぼ同い年なのにお嬢サンはすでに高校生で巣立つ寸前だ。

 今のマルコにとって子どもの巣立ちもその前後の孤独もそれと表裏一体の自由も何もかもが輝く恩寵にしか見えない。でもきっとその場に立ったら光だけでなくそれを際立たせるいろんな影も見えてくるのだろうな。

 でもやっぱり、影も光もなんだか楽しそうでわくわくする。人生は後半のほうが楽しそうに見えて仕方がない。


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年末出血家族サービス - 2006年12月27日(水)

 
 なんか忙しいと言いつつ、まあ年末ですし、保育所も学童保育所も子どもの数が減って来たので、今日は2児を休ませて、3人で午前中はマルコ書斎と1号勉強部屋(注1)を大掃除。おKさんはお絵かきをしながら母と姉の掃除ッぷりを応援。1号さんの大掃除はどこがどうきれいになったのかいまいちわかりませんでした。

 お昼から1号さんとおKさんの足りない文房具を補充しに3人で文具店に行きそのままバスに乗って王寺駅へ。王寺駅前の西友のマクドで昼ごはんを食べて、そんで西友で1号さんの靴を買い、TSUTAYAでお休み中の子ども向け視聴ビデオを借りて、そしてわたしたちが向かったのは王寺駅前の、、
 


 機関車の置いてある公園!



 この公園はプールもあるしなかなか素敵な場所なんですがアプローチが激難しいっす。

 なにせ近鉄田原本線とJRの線路と線路の間という凄いロケーションにあるのです。JRと近鉄の上を通過する自動車道路の高架路から階段で降りてくるとこの公園に到着します。最初このアプローチが発見できずにずいぶん王寺駅周辺を2児連れてぐるぐるしちゃったものです。そんなわけでたいていガラすきです。でもまえ自転車でこの公園に来ている人を見かけたので私の知らない出入り口があるのかも、プールの奥のほうに。

 しばらく機関士さんになりきって遊んだ後、王寺駅前に戻ってミスドでお茶して帰宅しました。

 ああ、家族サービスしちゃったわ、わたしってば。原稿は白く輝いてるのに。


(注1)ちなみに1号勉強部屋はほとんど使われていません。1号さん怖くて1人では2階にいけないのがその理由。学用品とか教科書とかすべて1階の居間の1号さんスペース<衣装ケースを一箱1号の物置ように与えて居間の片隅においている>にもちこんでそこで生息しています。



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セイレーンの寝息 - 2006年12月26日(火)



さて年末年始。子どもたちは保育園やら学童保育所から家庭に帰ってくる予定だが、マルコの書き物系仕事はなんだか佳境を迎えて、わけのわからんことになっている。
この週末も日中は子どもとすごしても(図書館に行ったり、法隆寺に遊びに行ったり、大掃除をしたり、法隆寺門前の柿の葉寿司屋サンでお年賀品の手配をしていたり)、午後9時、2児が寝入ったのを見届けてからごそごそと起きだし、居間のテーブルにパソコンをもってきてなんだかごそごそ仕事をする。

ときどきおKさんが寝言だったり、本起きに起きてマルコを呼ばわるので様子を見に行く。

我が家は6畳間の寝室に4人分の布団を引いてみんなでごろごろ寝ているのだが、その布団の海から聞こえる幼児と学童の安らかな寝息にマルコの脳内でドーパミンがプチプチはじける音がする。ああ、もう地位も名誉も社会変革もなんもどうでもいい。わたしゃひとときこの幼児と学童の柔肌におぼれたい。そんなものぐるおしい思いに駆られてたいてい、書き物のノルマの達成しないうちに布団の海に身を投げて、思わず朝までぐっすりしちゃうので、ぜんぜん仕事は進まず徒労感ばかりが蓄積されるのであった。


そういうわけで関係者の皆さん、原稿遅れてます。申し訳ない。(ココ読んでるのか?関係者?)



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なんのために勝つのか - 2006年12月06日(水)

 伊吹文科相から[いじめはやめよう]という大変皮相で読んでて情けなくなるような薄い内容の手紙を小学生の1号さんが学校でもらってきた。全国の小中学生に配られたらしい。以下はそれを読んでの感想。




 グローバル化の進展の中、競争領域は拡大の一途をたどり何が何でも勝たないと負け組になってひゅうるりら〜という強迫観念がすご〜く世の中を蔓延しているように思う。

 
 勝った者は勝ちおごり、ゲームのルールをより勝ち組に有利なように組み替えて格差は拡大する。格差社会の問題点として負け組をクローズアップするのは間違いで勝ち組の貪欲こそが問題の本質と指摘したのはロナルド・ドーアの働くということだったか。

 教室の中でも、本来自分と向かい合う機会のはずの学習において勝ってぶいぶい負けてひゅうるりら〜という空気がしみこんでいる。

 勉強が将来の進路選択と密接に結びつきそこに競争があるのであれば[勝負]は必要なのかもしれないが、強いものは勝ち奢り、弱いものを虐げるという社会的な哲学が蔓延している中では、勝負は容易に敗者へのいじめへと結びついていくように思う。

 ここで大切なのは「何のために勝つのか」という哲学であるように思う。

 昔、タイの東北地方(イサーン地方)の中学生の就学支援を仕事にしていたとき、グローバル経済の番外地のイサーン地方のその中でもさらに最貧1%に含まれる家庭の中学生女子に[どうして勉強するの?]と聞いたことがある。私たちの団体の出してる奨学金がなければたぶん彼女はすぐにでも性産業に従事しなければならないそんな13歳の女の子の発言だ。

「勉強をしてお医者さんになって困ってる人を助けてあげる人になりたい。」

 その子以外にも聞いた。中学生にもなれば放課後は夜がくれるまで朝は日が明けぬうちから膨大な家事労働に従事しなければならない子どもたちが睡眠を削って月明かりで必死に勉強をする。どうして勉強するの?と月明かりの中で聞いてみるとみんな決まって答えた。

「困ってる人を助けてあげられるようになりたいから。」

 弱者を助けられるようになるために人は強者を目指すのだ。

 わたしがタイの東北地方で学んだそれが勝利の哲学だ。

 それはきっと教室のなかだけでは体現できない哲学だ。
すぐに政府は累進課税と企業課税を強化し、人は弱者に手を差し伸べるために強者を目指すのだ、という哲学を社会全体で体現するべきだ。それをなくして口先で「いじめをなくそう」と文科大臣が子どもたちに手紙を書くことに何の意味があるのか。

 ドーア本にもある。

「われわれは忘れているのか?社会という名称そのものに、それが単に競争ではなく、強者の力を抑制し、弱者の寄る辺なさを保護することによって、すべてのものの公益を推進するという意味が含まれていることを」




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