unsteady diary
riko



 しあわせな家族

オフラインでの日記は何度か書いていたので、
目次をふと見て、1月はあまり書いていないことに驚く。
毎日書くことが必要な時期は過ぎたので、
必要なときに書く。
うん、それだけ。

Rが夜、散歩の途中でうちに来た。
正月のお土産に大っ好きな栗かのこをもらう。
芋とかでごまかしてない、100%日本の栗のかのこ。
濃厚な甘さで、ご馳走さま。
いつもありがとう。
栗まみれになるために、また長野に行きたいよ、ホント。

タム(猫)をはじめて見せた。
しばし遊ぶ。
っていうか、彼女に二人して遊ばれる。
かなり気の強いうちのタムが、Rには気迫負け。
おどおどして逃げるし、目をそらしてやんの。
そんなタムに勝てない私は、当然弱っちいわけよね。(笑)

RとSとで、すでにディズニーシー計画が発動してるんだけど、
もっとのんびり旅に行きたくなった。
あっちが忙しすぎて実現できそうにないけれど。
会えるうちに会っておきたいと思うわけ。
春からはもうメール交換しかできない状態になるわけだから。
まだ実感はないけれど、愚痴るときに誰に会いに行けばいいんだろう、とか考えているあたり、かなり情けない。
“親”離れしなければ、ね。


せっかく久しぶりにはしゃいで楽しかったのに、
そのあとタイフーンがあって、どっとめげた。
リビングには破片とか飛び散っているので、タムは私の部屋で寝かすことにした。母は生きるのに疲れた、とか言い出すし。壊れて置きっぱなしになっていたプラスチックの照明をバリバリに割られてしまったし。彼女は片付ける気力もないようなので、とりあえず少し私が片付けて、それから猫を引き取って、すさまじく怯えているのをどうにかなだめた。
抱っこに大嫌いなヤツが、必死にしがみついてくるんだもの、よほど怖かったのだろう。
この私が、大きな声や物音が嫌いな人間に育ったとおり、猫もこうして大きな声が嫌いになるのね。

話はまだ終わっていないらしく、母が謝るまで彼は明日も明後日も延々続けるつもりらしい。
可愛がっていたはずの猫も、死んだっていいと彼は言った。
口が滑ったのかもしれないけれど、実際怪我をしそうにはなったわけで。
明日の夜、家にいたくない。
けれど、けっきょくいなければ家がどうなっているのか心配でしょうがないし、深夜に他にいる場所もない。
抜き差しならぬ事態になった場合、止めるのは私しかいないのだし、やっぱりここにいるしかないんだろう。

体裁ってものは、難しい。
未来を考えるから、痣や傷跡をつくられたくないと思う自分。
生徒さんやお客さんの手前汚いのはまずいから、喧嘩になることを解っていても、玄関から父の荷物を無断で撤去してしまった母。
結婚しているという体裁は確かに必要かもしれないけれど、
同じ地獄を作りたいのかといえば、
やっぱりNOだ。

2002年01月29日(火)



 シンクロ


突然だけど、私は死刑廃止論賛成派。
「目には目を、歯には歯を」というのは嫌いじゃないけれど、
死には死を、とは思えない。
生きているほうがもっと残酷だと思うから。
まあ、本人にプライドやら良心やらがあれば、だろうけれど。


新潟の女性監禁事件、判決が出たそうで。
私は法律に無知なので(憲法レベルしか勉強してない)
その数字がどんなふうに導き出されたのかわからないけれど、
14年ってどんな長さなのかな。
9年はただの9年じゃない。
数字で割り切れない部分を、どうあってもなんらかの形で割り切っていかないといけないのが社会なんだなと思う。
法律を知ることは自分のみを守る上で大切だと思うけれども、
面白いというより反発を感じてしまうのは、たぶんそのあたりが原因。


つくづく感情で生きているんだよな、私は。
中学の弁論大会で、私ともう1人の代表の男の子の弁論を対比して、
「感情のrikoさん、理性の○○くん」って言った先生がいたな。
ちなみにもうひとりの彼は、終始学年トップ、来年は東大大学院生。(笑)
面白かったのは、「あなたの根源に流れているのは性善説ね」と指摘されたこと。
皆が同じように痛みを感じると思ってしまうこの性格は、たまには役立つけれど、障害になるほうが多い。
もう少し鈍感でもいいと思うくらいには。


新潟事件の判決は、ニュース+1(日テレの)で知った。
最近は木村優子アナがスタジオでメインキャスターをしていたけれど、
この件に関しては、彼女が現場から報告をしていた。
同じ女として、自分の身にも起きたかもしれない暴力と奪われたかもしれない時間の重さについて語る。
そういう意図だったのだと思う。


あの事件が明らかになってから、
下世話な想像はすまい、と思っていても、
自分がその身だったら…と考えてしまうんだよね。
気が狂う、と言ってしまえば簡単だけど、
ただ誘拐された恐怖とか、殺されるかもしれない恐怖とか、
そういうふうに想像できる瞬間ではなくて。
多感な時期を、例えば生理が始まるようなそんな時期さえ、
なにひとつ自分を守ることさえできずに、
男の視線と暴力にさらされ続けたということ、考えるだけで、痛くなる。
絶望とかそういう言葉で括られないものなんだろう。
そのなかでよく死なずに狂わずに生き抜いたなあ、と正直思う。
なんかコトバがすごく下世話でヤな感じだけど。
実感としてはそんな感じ。
「辱めを受けるくらいなら舌をかんで…」みたいなことにならなかったのが、なによりの強さ。
だからさ、死刑が嫌なのはね、たぶん死ぬほうが楽だからなんだってば。


卒論でレイプについても書いたのだけど、
フェミニズムの代表的な研究者のひとり江原由美子によれば、
性行為への意志を自立的に持つことができるのは男性であり、女性の意志は、男性への「同意・不同意」としてのみ存在してきたのだという。したがって、女性の性行為への意志は言語的に表明されなくても、抵抗しないことによって同意したとみなされてしまう論理が成立する。
ま、要するに、「男のひいたハンカチの上に座ったらもう和姦だよ」みたいな話ね。逃げなかった、抵抗しなかった、だから同意したんだって論理。


被害者の女性は、逃げる気力を奪われたと言っているそう。
当たり前だよね。
逃げるということは、強い意志が必要。
自分を守るためにも、強い自己愛が必要。
それをもつことが出来るのは、生きるということに主体的でいられる人間だけ。
たとえ鍵がかかっていなかったとしても、プライドとか意思とかそういう普通の人間としての尊厳を持って生きられる状況ではないのだから、どうやって逃げられるだろう。



彼女は、時間の止まった瞬間からただ過ぎた9年間を、
これから再構成してゆくんだろう。
普通に育っていれば感じただろう様々な感情を、
自分の身に起きたさまざまなことに対して、
思い出して、それから感じ直すんだろうと思う。
今の自分が、そのときの自分を見つめて、癒す作業。


願わずにはいられないの。
それが自分を責める作業にならないことを。
自己嫌悪とか恥とか罪悪感とか、そういうものに囚われなければいいな、と。
それとも、そんなふうに自分を責めたり恥じたりするベクトルを持ってしまうのは、私くらいなものなのかしらん。


久しぶりの日記は、やっぱりいつもの通りまとまりがないなー。

2002年01月23日(水)



 バーゲンだらだら記

近場の高島屋がバーゲン中。
しばらくは洋服や化粧品に近づかないつもりでいたが、
そういうモノを避けていることで、余計に何かがおかしくなってきた気がしたので、とりあえず足を運んでみた。

一斉バーゲンが始まって4日目。
日曜日とはいえ、もうセールも終盤という感じで、客足も多くない。
A/Tはもうほとんど冬物がなくて通り過ぎ、トゥモローランドでカーディガンを一枚、Jinesで柄スカートを購入。実は一目惚れした革バックがあったのだけど、通勤にアレを使ったらきっとダメなんだろうなと思って、自重。
さらにちょっと寄るだけのつもりだったアルカリで、商売上手な店員さんが選んでくれたカットソー。
なんたってフリルだよ…。(汗)
そもそも茶色の地味シャツに黒パンツの格好で行ったのに、なぜにフリルとかふんわり女の子系が似合いますね、と言われてしまうんだか。
それが似合えばともかく、似合っていないのが一層イタイ感じ。

一番の目的の「長く着られるコート(ベージュ)」は買えず仕舞い。23区やUNTITLEDとかに行けなかったので、もう少し探してみなくては。
結局、今日は、仕事着にできなさそうなものばかり買ってしまった。職場は私服なので、どんなものなら着られるのかわからなくて、途方にくれる。社風としては自由で派手めなほうだと思うけど、その限度がまるでわからない。



2002年01月13日(日)



 雑記

東大病院で詳しい検査をした結果、どうやら猫は生きられるみたい。
はっきりとは言えないけれど、小脳形成不全ではないらしい。
それでもスコティッシュフォールドの劣性遺伝による骨の病気には違いなく、今は後足にだけあらわれている症状もいずれは手にあらわれて、手足が曲がり、かなり不自由になるとのこと。
痙攣も、おそらくは小脳のどこかの異常だから、他にどんな症状が出るかはわからない。
それでも、元気に生きていてくれるのなら、と思った。

山形の親戚は、同じ日にお葬式。
なんだか不思議な一致だったが、
死に顔が笑っていたのだと、母が少しほっとしていた。
壮絶な表情で亡くなった伯父のことを思い出していたらしい。

葬儀のために母と一緒に山形に行っていた祖父は、
私が正月にはじめて行かなかったことを、ずいぶん心配していたらしい。
夏に、胸が目立つ服装を選んでいる(違うのに!)お前は色ボケだ…みたいなことを祖母に言われて大喧嘩をして、泣いて祖父母の家を飛び出したことが原因で、正月にも来たがらなかったと思っていたらしい。

それが原因ではないが、似たような状況はずっとあった。
痴漢にあうのはお前が悪いから、だなんて言われ方はずっとしていた。
だから祖母には私がどれほど傷ついたか、なぜ泣いたのか、
いまさらわかってないだろう。
でも鈍くて男で、ときどき能天気すぎるくらいの祖父が、
きちんとわかっていたのは意外だった。

就職活動を機に、祖父と話すことが多くなって、
とても繊細な部分を持っていることを知った。
父も母も祖母も、ある意味とても子供な部分があって、
そのなかで一番多くは語らない祖父が、
「五木ひろし」を「ゴキヒロシ」と読んでまわりを爆笑させた彼が、
時々は古い考え方をして苦笑させられるような彼が、
とても大人だとわかった。
会社ではその人柄と交渉能力を見込まれ出世した彼だけど、
家ではただの能天気な居眠りおじいさん、だったので。

たったひとり、私に総合職を無理にすすめなかったひと。
活動してみて、自分が営業にはどうしても向いていないということを訴えたとき、「なんでも死に物狂いでやれば出来る」と叱咤激励して私を幻滅させた祖母や他の人たちをよそに、祖父だけは、「向き不向きはあるよ…」と言った。
総合職が向いていない自分を無能だと責めていた私に対して、
それは能力がないということではなくて、広報や企画には向いているし仕事はきっと出来るよ、と言ってくれた。
祖母や母の過剰な期待とは違う、きちんと見ていてくれる言葉に励まされた。

母は最近彼らが年をとったと嘆く。
生きているうちに、やっぱりもっと話しておきたい。
もちろん祖母とも、だけれども。
近いうちにまた美味しいものを持って、行こうかと思う。

2002年01月11日(金)



 安っぽいのは女ではなくて…


昨日の日記について補足。

「安っぽい女っぽさ」なんて書いたけど。
女が安っぽいというわけじゃないの。(むしろそんな言われ方したら怒るわ)
「女っぽさ」とか「女らしさ」って、女自身が定義したものじゃない。
では、誰のための、誰から見ての、らしさなのか。
それに気づかないと、ただ女らしさの否定をしても不毛なだけだと思う。
つまり、私が“安っぽい”と思ったのは、
世間という外側が括った「女性イメージ」について。

なにも、女の子の女の子っぽさが嫌いはわけじゃない。
髪振り乱して化粧もせず、それで男並みを目指して働くことだけが、
男と対等になることじゃないと、ずっと思ってる。
ウーマンリブだの女性の権利拡大だのを声高に叫んで、男を敵と見なす了見の狭い女性群には、引いてしまうことも確か。
(はっきり言って田嶋陽子さんの“男勝り”は苦手だし、千葉敦子さんや上野千鶴子さんはとても立派だと思うけれど、でも立派すぎて、甘ったれた自分が取り残されてしまう気がすることも確か。)

そもそも、男勝りに働くことがそれほど非人間的なことならば、
当の男たちは、ただ男であると言うだけでオーバーワークを逃れることのできず、人間ではなく機械として扱われているわけよね。
だから、男性にも一般職を、というのが私のひとつの主張だったりする。
仕事を生きがいにする生き方(男女含めて)は否定はしない。
でも、その選択を、性差で行うのはやめてほしい。
そういうこと。


受け入れる体でも、一般職でも、化粧品が好きでも、女を武器にしても、
けっきょくはそのひとらしさがすべて「女」に還元されなければ、
つまり、そのひとの一部としてただ「女」という属性があるだけならば、
女でいていいのだと思う。
自分にもそう言い聞かせている。

そもそも、既に「性別」という概念がある以上、「男女平等」なんてコトバは意味を成さない。人間を生殖機能によって2つに分けたとはいえ、そりゃあ違うところは違うのよ。文化的な伝統も含めて、性差はある。個体差があるのと同じくらいには。
なのに、違うということを無視して、
形だけ完全に同じに見なすことには無理があるでしょう?



卒論を進めていてつくづく思ったのは、私自身も「らしさ」に囚われているということ。
男は男らしくあって欲しいと、やっぱり本音では思っちゃうのよ。

例えば、男の人でおしゃれにしか関心のない人は、きわめて苦手。
髪がむちゃくちゃ長くて、ブランドバック抱えて、化粧なんかされた日にゃ…。(同じことを女がすれば“普通の女の子らしい女の子”なのにね)
友達としては面白いけれど、恋愛対象にはならないと思う。
女の稼ぎをあてにしてヒモになるような人も好きじゃない。(きちんと家事をこなすような主夫は労働をしているわけだから、まったく別)
ああ、偏見だらけ。
まずはそれに気づくことが第一歩かな。

自戒:自分が押し付けられるのが嫌ならば、まず押し付けるのを止めないといけません。


2002年01月10日(木)



 “女だって泣かない”

卒論提出の帰り、私の定番エリザベスアーデンの「グリーンティ」の新作に惚れる。
「アイスグリーンティ」というらしい。
甘さがよりすっきりして、ラストにミントが香るのね。
冬にあえてひんやりしたのも贅沢でいい感じ。
下手すると元祖グリーンティより好みかもしれない。
午前中につけたい香りだった。
それにしても、相変わらずブルガリやランコムなんかよりはるかにお買い得なアーデン。(でも買わなかったさ)
ミラクやベビードールなんかと一緒に並んでいると、明らかに押されてる。
瓶だってすっきり涼しげで悪くないのに。

一緒に並んでいた「スパイスティー」のほうは、上級者向きだった。
これも、いかにも冬にあたたまりそうなスパイシーな香り。
インド料理が食べたくなった。
辛いだけじゃない美味しいカレーと、ふんわりナンが恋しい。



突然だけど、映画や舞台に対してぼろぼろ泣くということを、
なんであまり好きじゃないのかなって考えた。
ひとつは、ただ単にまともに(冷静に?)見られなくなるから。
もうひとつはね、たぶん女だから。
泣くことが恥ずかしいと思ってしまうのは、とても貧しいことだと思うけれども、その上で、男の人がそう感じるのと女の人がそう感じるのとは、少し違うんじゃないかな。

男の人が涙もろいのは、とても素直で好感が持てる。
それは、男らしさに囚われていないように思えるから。
でも。
女の人が盛大に泣くのって、いまいち好きじゃないのね。
映画でデートというと、男の人が寝ていて、女の人がしょうもない恋愛映画でハンカチで涙拭いているという描写があまりにも多い。
女は感情的ですぐに泣く、しかし男はそうではない。
実際は生物学的な根拠なんてないのに、そういう図式がある。
素直に泣けない男の人もかわいそうだと思う。
だからときどき男の人で涙もろいひとがいれば、それ自体が不思議なことに映る。
でも、女が泣いたらすごく嘘っぽくなってしまう気がする。
泣かないでしっかり見ることが、きちんと受け止める強さ、
安っぽい女っぽさに還元させない感動の仕方のような気がしてしまうのね。

女が感動しちゃいけないとか、そんなふうに片意地張ってるつもりはないのだけど、けっきょく同じことになるのかしら。

それに、ほろりときれいに流れる涙ならともかく、
堪えられなくてぼろぼろすごい形相で泣くという行為は、
いかにも弱さを垂れ流しにしている気分にさせられる。
その世界に陶酔するというよりは、化粧がはげてみじめになる気分に似てると思う。

そんなわけで、余程心を許せる人とでないと、えぐいものは見に行く気にならない。
もしくは、ひとりで行くか。
ひとりだと、あとで感想を言い合えないのがつまらないのだけど。



そうそう、卒論終了おめでとうコールありがとうございます。(笑)
細切れに、日記でも一部を書いていくかも。

2002年01月09日(水)



 脱稿

無事、脱稿!>卒論

けっきょく4万字でいいはずが、5万字を優に超えてしまった。
原稿用紙にすれば、150枚越えたか…。
自分でもびっくりするほど無駄に長く書いてしまった。
内容はたぶん、一言で済んでしまうことだけど。(笑)

それでもなんだか妙にいとおしい文章。
手抜きしたわりには、自分らしさがすごく詰まっていると思う。
JUNE論や摂食障害とジェンダーの関係なんかも、散々迷ったあげく、
開き直って少しは書いた。
いわゆる“恥ずかしさ”はかなぐり捨てたよ。
アレを私、発表するのね。(卒論発表会があるので)
発情だのポルノだの性転換手術だのと、興味本位に読むならいくらでも読めてしまうものに仕上がったけど、ある意味自分のまとめだから、仕方がない。
ゼミでの中間発表のときも、皆妙ににやにやしていて、ヤな感じだったけど、言いたければ勝手に言って。
興味あるくせに真面目に考えられないほうがもっとバカじゃない。

これでしばらくは、「それってジェンダーじゃん」とか「セクシュアリティは○○なのに誤解を生むような表現をやめてくれー」とか、メディアに向かって叫ばなくていいのね。
お化粧したりもの食べたりするとき、自分のジェンダー化された身体を感じて、ため息ついたりしないで…すまないか。
これはどうせもともとだわ。

このおかげで面白い本にも出会えた。
悔しいけれどやっぱり上野千鶴子はむちゃくちゃ面白い!
反論もあるけど、全部著作読みたいひとり。
「発情の装置」(筑摩書房1998)なんか、すごく引き込まれて読んでしまった。
読み返すべき本もいろいろ読み返すきっかけになったし、
いい映画にも出会えた。
男性フェミニスト(フェミニズム研究者って意味ね)たちの
光と影もかなり見えた。

これから綴じます。
これがけっこう地道な作業なんだ。
高校時代の文学部(部活)での冊子の手折り作業を思い出すわ。

明日、電車事故など起きませんように。

2002年01月07日(月)



 ひとりで過ごす


明けましたね。
新しいのがおめでたいかどうかは人それぞれだと思うので、
「おめでとうございます」とは言いませんが。
たったひとり暦に逆らっては生きてゆけないので、
とりあえず私も、世間と一緒に元旦を迎えました。
本当は数週間分、どうにか巻き戻したい気分なんですが。

何年ぶりかもわからないほど、めったにない自宅で迎えるお正月です。
御節もなく、門松もなく。
除夜の鐘は、たぶん夢うつつで聞きました。
卒論を理由に、(ほんとうにやばいんだけど)
祖父母の家へ行くのをボイコットしたので。
猫まで連れて行かれたので、少しさびしい。

年末は、NHKのアラビアンナイトを見ただけで、(案外よかった)
海の上のピアニストは、ビデオにおさめるて我慢したので、
これは卒論が終わってから見る予定。

元旦、のそのそと昼過ぎに起きて最初に食べたのは、おせんべいでした。
あとはお好み焼きの残り。
夕食は少し美味しいものを、と思って、ルッコラをのせたトマトとガーリックのパスタで済ませたけど、明日はさすがに買出ししないと食料が尽きてしまう。


ついさっき「透きとおる骨」を見終わったところ。
いい加減何度目になるんだかわかんないんだから、
今度こそ泣かずに見られるだろうと思ってたんだけど、
無理でした。
ああ。
カスパーより雪の女王さまより、私には伽耶がいちばん食い込んでくる。
卒論が終わって、しばらくジェンダーやらセクシュアリティやらの字は見たくもなくなったときに、友人Rにこれを押し付けてやろう。
伽耶の、自分をありのままで愛そうとする意地っ張りにも近い執念は、どうも彼女を髣髴とさせるので。(あくまで誉めている)

でも今日は、見終わって、むしろ力が湧いた感じ。
泣いたといっても、後味が悪くない。
最初に見たときより少しだけ知恵がついて、
肯定的に見られるようになったのかな。
しんどい思いをするからって、耳をふさいでも仕方がないので。


伽耶の生き方に感情移入をしすぎるのか、すすんでジェンダーに囚われようとする性同一性障害というものに対して、より一層懐疑的になってしまうこのごろ。
よりどころのない身体なり心をそのままに生きるなんてことは難しいだろうし、だからそれは、ジェンダーフリーに憧れる単なる私のエゴなんだけど。

文化とか社会っていうような化け物に食い付かれ、
本来の身体でいることを否定され、結果的に手術を望むように仕向けられたという意味で、身体を奪われた被害者という気がしてならない。
それもまた、切実な現実を否定することになってしまうのかな。


2002年01月01日(火)
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