空色の明日
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2010年06月25日(金) あとがきのようなもの

つらつらと時系列に書いたので
あまり気持ちが入ってなくて
なんだか記録のようであまり気に入っていませんが
とりあえずこの2ヶ月のことを書きました。

本当はリアルタイムで書きたかったのだけど
とてもPCの前に座っている時間が作れなかったのと
そういう気持ちにもなれなかったのが
正直なところでした。

家族で流れ流れて放浪の旅をしているような
毎日でした。


それでも今は仕事があって、普段に引き戻されながら
なんとか毎日何もなかったかのように過ぎていきますが
今でもふとしたところですぐに涙が出てきてしまいます。
それも変なところで。
実家の近所の魚屋さんで買ってよく一緒に食べた
穴子寿司をパックからお皿にあけた時とか。
穴子寿司を見ながら泣いてる私って・・と思いながらも
おいおい泣きます。

「悲しみ」という言葉の本当の意味を
この歳でやっと知ったのだと思います。
こんな歳まで知らないでいられたのも
両親のおかげだったのだな、これが。

そんなことを考えながら
なんとなくやっぱりぼんやりと
なんだかまだこの状況に慣れないで
同じようにやっぱり1人に慣れないで
所在無い母に時々電話をかけては
様子をみている今日この頃です。


2010年06月23日(水) 葬儀

本当は私と弟の家族と母とで
まるで誰かのお誕生日かお盆か正月に
みんなでご飯を食べるように
葬儀をしたいくらいの気持ちでした。

それでも母方の祖母の面倒を
ずっと30年近く見てきた父のことを
母の兄弟が放っておくわけもなく
とにかく親戚と家族だけで葬儀をすることにしました。

通夜も表立ってはしませんでしたが
日曜日ということもあり
仕事のあるいとこたちはその日の夜に
挨拶に来てくれました。


みんなが次第に帰り
私と弟と母だけになりました。
弟が近くでビールを2本買ってきて
グラスを4つ持ってきました。
あぁ、4人か。
そうだったと思いました。
入院してから水さえ飲めなかった父を
思うと大好きなビールを前にして
とても悲しい気持ちになりましたが
「死んだらもう食べたり飲んだりすることは
私たちとは違うからもう気にしてはいけない」と
母が言いました。

ゆっくりと静かに夜が過ぎる中で小さく母が
「本当に心のきれいな人だった」と
お棺の中の父を見ながら言ったことが
ずっと心に残りました。


葬儀は花が大好きだった父の好きな色の花を
いっぱい飾って子供たちは近所で咲いていた
花を摘み取ってきてくれお棺に入れました。

お焼香をする人、神に祈る人、
みんなそれぞれ好きな形で別れを告げてもらいました。

焼き場でお別れをするときとてもつらい気持ちに
なるのではないかと思いましたが
最後の呼吸が終わったときから
なぜか、もうその体の中身はからっぽで
まるで脱皮したあとの抜け殻のように思えていて
あまり悲しい気持ちにはなりませんでした。


短いようで長い2ヶ月と10日の
父と私たちの最後の団欒が終わりました。


2010年06月22日(火) 臨終

日曜日の朝、6時過ぎでした。
「病院から急変したので来るようにと
連絡があったので来れる?」と
母から電話がありました。

自宅から病院まで電車で1時間半。
車でも通常ならば必ず渋滞するので
2時間近くかかるのでこのところいつも
具合が悪そうな日は実家に泊まっていたのですが
前日はなんだかとても良さそうで
母も早々に引き上げたほどでした。

日曜日の早朝でなかったら
とても1時間では到着できませんでした。
どの道もガラガラで夫が運転する
車の中から
「もし私が間に合わなくても
延命しないでと看護士さんに言ってね。
これ以上苦しませないであげてね。」
と母に電話していました。
でなければ、ひとしきり家族がそろうまで
酸素量を増やして引き伸ばすことが
ある程度可能なのだそうです。
それでももうこれ以上がんばれとは
とても言いたくありませんでした。


到着すると、ここのところずっと目を閉じていた父が
ぱっちりと目を開いていました。
呼吸はゆっくり静かで手は温かく
弟と母が両手を握っていました。
「遅くなってごめんね。おとうさん、来たよ。」と
手を握り髪をなでました。
しっかりとこちらを見ていました。

「本当によくがんばってくれて
ありがとうね
一緒にいれて嬉しかったよ。
ありがとうね。」

そして頬に手をあてると
安心したような顔でゆっくり目を閉じ
2回呼吸をして3度目に息を吸いこんだら
もう息を吐くことはありませんでした。

到着してからたった10分のことでした。

待っていたんだ。
きっと私が会えないと悔やむと思って
最後の力で待っててくれたんだと思いました。
私が大人になっても
父は最期まで私の父でした。




お葬式で1人1曲ずつ父に贈りたい曲を選びました。
この曲を最後のお別れのときに流してもらいました。


2010年06月19日(土) 写真

もう余命が残りわずかと分かった時に
母が私と弟に告げました。

「気にかかっていることを先に片付けておきたいの」

それは葬儀の準備でした。
母方の祖母は健在で、祖父は若いときに
離れて別の場所で亡くなりました。

だから私たち3人は葬儀の準備の仕方を知りません。
父の最後の時を慌しく過ごしたくないという
気持ちは3人とも同じでした。

何から手をつけていいのか分からないときに
母の姉が葬儀についてサポートしてくれる
NPO法人があることを教えてくれ
そこに連絡をしたところ、本当に丁寧に
段取りや私たちの希望をかなえてくれそうな
葬儀社を紹介してくれました。

これといって宗教を信仰していない父だったので
できれば無宗教葬がいいというのが
本人と母の考えでした。

紹介された葬儀社の方は本当に丁寧で
コストもスマートで明確に見積もりをしてくれ
希望に沿うような提案をしてくれました。
入院から2週間の頃でした。

準備がおおまかに整い気がかりがなくなって
安心してそれからの日々を過ごせたのは
そのNPOの存在と葬儀社の方のおかげでした。
そして実際の葬儀までのすべてが求めていた通りに
進んだわけですがそれはまた後に。



90歳を超える祖母の遺影にと
何枚も写真を撮っていた父が、残した自分の写真は
本当に皮肉なぐらい素直にニコリとは笑えていない
恥ずかしそうなおかしな顔ばかりでした。

3人でかき集めた写真がどれも使えそうになく
どうしたものかと父の部屋へ行くと
趣味の旅行で撮ったたくさんの風景の写真の上に
なぜか1枚だけ父と母と姪が映った近所の浜辺での
写真が乗っかっていました。

それは散歩の途中で父のカメラを借りて
小学校3年生の甥が撮った写真でした。

甥の向けるカメラに映ったその顔は
素直で優しいまっすぐに幸せな笑顔でした。

その幸せの始まりを作ったのは
自分と母だったということに
その時の彼は気づいていたでのしょうか。


少し遠景気味だったので引き伸ばすとぼやけそうでしたが
この写真にしようとすぐに決まりました。


2010年06月14日(月) まばたき

入院する1ヶ月前ぐらいから
食べ物がのどを通らなくなり
飲み物さえも息が苦しくて飲めなかった父でしたが
入院して点滴から栄養をとるようになると
みるみる顔色がよくなりやつれた顔も
きれいになってきました。

けれど体に栄養を与えるということは
癌に栄養を与えることでもあり
点滴が入りにくくなるにつれ
濃度を下げなければならない理由もあり
脂肪分の少ない点滴に切り替わってから
どんどん父の手足は細くなっていきました。

2週間ならその姿を見ることも
我慢できたでしょうが、結局父は
全部で2ヶ月と10日命をつなぎました。
どんどん痩せていく姿を見ていることは
とてもつらいものでした。
癌以外どこも悪いところがなかったからでしょうか
体力があったのかもしれませんが
途中何度も手足が冷たくなり
血圧が下がったり血中酸素量が下がったりしながら
それでも命は続きました。


朝、病室に行くと手足が冷たく
紫色になっていることもありました。

それで私と母は、毎日洗面器にお湯を張り
手浴、足浴をしました。
なるべくゆっくりと手首や足首まで温められるように
赤ちゃんの沐浴のように小さなタオルをかけて
そこにお湯をかけるようにしました。
すると穏やかに眠れるようでした。

そうしてもすぐにまた手足が冷たくなってしまう日もありました。
こういう感じで人は死ぬのかなと思ったりしました。



まだ最初の頃は安定剤の切れ間に目を開けて
こちらの話に微笑んだり相槌をうったりしていたものですが
じきにそれもできなくなっていきました。
体調などのことを父に聞きたい時に
どうしたものかと思っていたら
看護士さんが「苦しかったらまばたきを2回してください」
と言われました。
なるほど、目を閉じていてもこれならまつげの動きでわかります。

答えることはできなくても聞こえているのでした。
「癌で死ぬ人にはお別れのための時間がある」
と言った人がいます。
何度も具合が悪くなるたびに
父に言っておきたかったことを思いつくまま話しかけました。
今までは面と向かってとても恥ずかしくて
言えなかったことも、そして父も恥ずかしがって
きちんと聞いてくれなかったことも
目を閉じて寝ているふりをしながら聞いてくれていました。

そうやって何度も何度も思いつくことを話していたら
本当に最後のお別れの時には言い残したことは何もありませんでした。


2ヶ月が近づいた頃、あまりに痩せた姿を見るのが
つらくなり、つい父にこう言いました。

「お父さん、人間ってなかなか簡単には死ねないものね。
こんなにしんどい思いをしても、まだ楽にはならないね。
それが寿命ってものなのかね。
苦しいけど、もう少し。
がんばって寿命を全うしようね。」

父は2回まばたきをしました。




緩和というだけで治るための治療はしなくなったので
検査も一切しなくなりました。
体の調子をみる手段は体につけたラインから出る
心拍数と血圧と血中酸素量の数値のみになり
この3つの数値に一喜一憂する毎日でした。


2010年06月13日(日) 死と向き合う準備

幸せなことに今までの私の人生の中で
身内の死に直面するということが
ありませんでした。

ですから予期せず父の最短余命2週間を告げられ
死に対してどう向き合えばいいのか
家族で大きく戸惑いました。

そんな時、初めて周りの人たちで
身近な人を癌で亡くした人の話を
聞いておきたくなり失礼を承知で
連絡しいろんな話を聞かせてもらいました。

他にも看護士をしていた友人たちにも
相談したり書物も読みました。

自分に関係のない時にはただ知識として
読んでいたそれらが、突然、そこに含まれた
「気持ち」の部分が読み取れるようになっていることに
ふいに気づかされ、文というものは
これほどに読み手の生き方によって解釈が違うものだと
驚かされました。

大好きな幸田文さんの「父、こんなこと」も
初めて読んだときにも感動しましたが
今回読み直して1行1行噛締めるように
言葉が立体的に立ち上がってくる感じでした。


死が近づくとどんな体調変化があらわれるかという
ことを書かれたブックレットを
緩和ケアの人のボランティアをしている叔母に
貸してもらって読んだときには
変な話だけど覚悟が出来たというか
わからないことだらけだった不安が
少し収まりました。
たぶん分からないままに突然死なれることが
一番怖かったのだと思います。
「あぁ、もうじきだな」と思いながら
看病に気持ちを入れていけるかもしれないと
思えると少し心が休まりました。

そうやって徐々にこの現実を受け入れる準備を
家族でしていったのでした。


2010年06月11日(金) 付き添い

家族の付き添いはどこまでするのか。
個室だったこともあり他の患者さんへの
遠慮というものはしないですんだのは
もう退院できないという状況を理解してくれての
配慮でもあったと思いますが。

まず喋ることができず、そして
癌の進行を遅らせるために栄養の点滴も最低限に減らし
筋肉がなくなり手も自分で上げられなくなってきた頃。
何か苦痛があったとしてもナースコールも自分で押せず
また、点滴が漏れていても眠っていて気付かない
そんな状況であるので、放っておくと
そのまま点滴が漏れ続けて手はパンパンにむくみ
何よりも安定剤と麻薬が切れると
自発呼吸がおきて人工呼吸とのバランスが
おかしくなりとても苦しむことになるのです。

それで、夜を除いてはずっと母か私が
そばについていてナースコールを押したり
手足をマッサージしたりする役割になりました。

看護士さんによってはそれを疎ましそうに
する人もあり「なんでそんなにずっといるの」と
あからさまに態度に出ている人もいたのは確かです。
もう一緒にいる時間は残りわずかなのだから
そばにいたいのは家族として当たり前だと思うし
その気持ちの大きさは人それぞれで
我が家は「一緒にいること」だけを
大事に過ごしてきた家族なので
それをわかってくれとは思わないけれど
そんな目線が悔しく悲しい気持ちになることも
ありました。

そんな中でも「私が今まで出会ったご家族の中で
おたくはベスト3に入りますよ!」と言ってくれる人や
「お父さんは本当に幸せね。
よかったね!みんながいつもそばにいてくれて」
と言ってくれる看護士さんももちろん大勢いました。
そういう言葉に支えられて、そして
私たち家族の体のことも気遣ってくれて
「今日は体調がよさそうなのであとは任せて
早めに帰って休んでください」という言葉に
張り詰めた心がほぐれていく思いでした。

夜、病院の前の道を歩くと
入院したときには枯れ木のようだった遊歩道が
満開の夜桜でした。
これから桜を見るたびにこのつらい気持ちを
思い出すのだろうかと思うと
胸の奥がきゅっと縮む感じがしました。


2010年06月08日(火) 看護士さんの力

寝たきりで意識もあったりなかったりの
状態に入り、私たちに出来ることは
あまりなくなりました。

看護士さんは2時間おきに体の向きを変え
1日1回体を拭いてくれ
食事の時間帯(父は食事はないですが)には
口の中をきれいに拭ってくれ
時には髪を洗ってくれたり
2日に1回は着替えもしてくれ
その合間に呼吸器のエラー音が鳴れば
痰の吸引をしてくれるという流れになりました。

はじめはよくわかってなかったのですが
管がとても長い父の場合は
右と左の肺のちょうど分かれ目に管の先があり
その位置がずれると途端に具合が悪くなります。
それをなかなか気づかず、酸素量や心拍数の
数値が悪くなるたび、もうだめなのかと
常に緊張が走りました。

そんなときに他の科でいろいろ学んでこられた
経験が豊かな看護士さんが
「これ、管の位置がずれてきてるわ」と気づき
管の位置を調整してくれました。
すると途端に調子がよくなって
先生が「あれ?調子がよくなってる」と驚いてる始末。

なんだか1日に1〜2分覗きに来る先生より
毎日をみてくれている看護士さんの力の大きさを
感じていました。

いろんな科を経験している人は
やはり知識も豊富なので具合が悪くなっても
かなり適切な判断で医師を呼ばなくても解決してくれます。
そういう看護士さんたちにずっと助けられてきた気がします。

それにしても2ヶ月余りの間、看護士さんが
ずっと体位を変えたりいろいろと工夫をしてくれたおかげで
本当にずっと入院していたとは思えないほど
体がきれいでお見舞いの人もびっくりしていました。

手や足など私たちでもできるところは
こまめに拭いたり温めたり、氷枕の氷を入れ替えたり
どんどんやらせてもらいました。
その代わりに私たちでは無理な点滴あたりの処置とか
着替えなど看護士さんにしか出来ないところに
できるだけ丁寧に時間を割いてもらえるように努めました。

1人で何人もの患者さんを担当されて
看護士さんが1人の患者にかけられる時間は限られています。
そばについている時は出来る限り手伝うようにしました。
積極的に何でも質問して
「これは私たちがやっても大丈夫ですか?」と
なるべく自分たちが参加できること、手伝えることを
見つけてやっていくようにしました。
そうすることで何か父にしてあげられることが
自分たちの救いになっていたとも思います。


2010年06月07日(月) 眠り

手術も中止に終わり
担当医師が呼吸器の先生から
消化器の先生に代わりました。

それにあわせて部屋も救急の大部屋から
本館の個室に変わりました。
たまたま人工呼吸器のシステムが
個室にしか付いていなかったため
加算料金なしに個室に入れてもらえたので
おかげで私たちの残された時間は
とても大切に守ってもらうことが出来ました。

そして医師から「長くて2ヶ月、短くて2週間」と
余命を宣告されました。
人工呼吸器をつけたときから
もう食事というものはとれなくなっていたので
栄養はすべて点滴からでした。
治療はもうできないため緩和ケアに重点をおき
安定剤に加え、麻薬も投与して
「苦しみの少ないように」ということを
第一にこれからの方針が決まりました。

不安感に負けそうになる父の性格を考え
できればなるべく眠るほうがいいのではと
私たち家族は考えました。
本人にもそれを確認すると少し考えて頷いたので
医師にそれを伝えると承諾され
今入れている安定剤と麻薬の量を増やすとのことでした。

これは今思うとそれが正しかったのかわかりません。
残された時間がとても短いと思っていたので
できるだけ苦しくないようにと選択したのですが
こんなにも長くなるのであれば
もう少しコミュニケーションがとれるようにして
一緒に過ごす時間をもう少し有意義にできたのではと
考えたりもします。
どちらにしてもその時は窒息して
苦しみながら死んでいく姿だけは見たくない気持ちで
そんな選択になりました。


眠りが深くなるとコミュニケーションが
だんだんとりづらくなっていくため
薬を増やす前に医師から本人に説明があり
しばらく家族でコミュニケーションをとる時間を
とってくださいました。
説明する医師に「お願いします」というように
父は握手するために笑顔で手を出しました。
そんなところが私たち家族の誇りだと思いました。

もう残り時間が少ないと思うとそばを離れがたく
薬の量が増えて父が眠りについてしばらく
みんな何も言えずにそばにいました。

呼吸器の管に痰が詰まり始めると
管から吸引します。
そのたびに苦しそうに目覚める姿が
ずっと胸をしめつけました。
これは呼吸器をつけた家族を持った人は
みんな感じることだと思います。

はじめに救急の大部屋にいたときに
周りの患者さんがほとんど同じように
吸引をしていたのを見て、私たち家族や
父も「あぁ、みんな我慢してるんだ」と思えたので
なんとか耐えることが出来たのでしょうが
個室で1人同じ事をしていたら
たとえ丁寧な看護士さんが吸引してくれていたとしても
「お願いだからやめてください」と
言ってしまいそうになったと思います。

父の場合は管が細く長さもとても長かったので
看護士さんも吸引にとても苦労されていました。
そんな時、やはり経験豊富な看護士さんの技術には
とても心が救われました。
何も出来ない家族は、ただ祈ることしかできないのですから。


2010年06月06日(日) 何もない

手術の前に
「この手術をしたらもう声が出なくなるから
何か言っておきたいことがあったら書いて」と
父に紙とペンを渡しました。

とても「成功率が低いので最後の言葉を」とは
言えなかったのですが
「何もない」と父はしぐさで話しました。

以前に敗血症で生死をさまよい
奇跡的に後遺症もなく退院できた時から
再び生き直せる時間を大切にしようと
旅をしたり好きなことをすることに
専念したこの数年だったので
もうやりたいことはみんなやったのかもしれません。

残された者は亡くなった人が「やりたかったであろうこと」に
出会うたびに心が痛むのですが
「何もない」と言い切ってくれた父に
今の私たちの心が救われている気がします。



手術室に入る時、母、弟、私の3人で見送りました。
「また後でね。がんばってね。」と手術室に入って
ほんの15分ほどしたとき
担当医の先生から呼び出されました。
不安と共に別室へ入ると執刀医の耳鼻咽喉科の先生から
手術をできないということを聞かされました。

現在入っている管を抜いて新しい管をいれるという
手術の予定だったのですが
癌の進行が進みすぎていて
今の管を抜いたら次の管が入らない確率が高すぎるというのです。
その場で窒息につながるため、リスクが高すぎて
手術は中止といわれました。
優れた技術で執刀待ちの患者があふれている
名の知れた先生だそうで
その先生から言われては私たちもそれ以上を
お願いすることはできませんでした。


抜くことも出来ない管が入り
手を施すことはもうなくなってしまいました。
あとは癌で管が押しつぶされ窒息するか
管からの雑菌で肺炎になるか
そのどちらかを待つだけの日々が始まります。


麻酔から目覚めた父に
手術はできないことを告げました。
管を抜いてくれと手で引っ張ろうとする父に
「お願いだから七転八倒しながら窒息する姿を見せないで」
と私が言うとつらそうに眉間にしわを寄せながら
その手の力を止めたのでした。




2010年06月05日(土) 手術前夜

気管切開の手術の前に
レントゲンとCTの検査が再度行われました。

前回に検査してから1週間。
挿官しているチューブは気管が細くなっているため
通常より細いチューブでした。
そのチューブが1週間前よりあきらかに
押しつぶされ変形していることがわかりました。
それほどに癌が大きく気管へせり出していたのでした。

担当医は呼吸器科の先生で
「かなりリスクの高い手術ですので
覚悟をしてください」と言われました。
以前、足の静脈瘤の手術のときでさえ
不安でとても神経質になった父だったのと
もしかしたら今夜が最後になるかもしれない
という思いもあって弟と母と私と交代で
夜はずっとそばにいました。

まだベッドが空かないため救急部のままで
夜にもひっきりなしに新しい患者が
次々に運び込まれるフロアでした。
そんな激しい環境にもかかわらず
看護士の方々は誰もみな父だけでなく
私たち家族のメンタル面までとても気遣ってくれ
癌と告知されたときにも
ずっと温かく声をかけ見守ってくれていました。

生まれて初めて家族を失うということが
どういうことかということに直面した夜でした。
いろんな思いが溢れてくるのに
言葉にすると不安にさせると思い
何もいえませんでした。
けれど今までもそうでした。
言葉の少ない父だったけれど
いつも何も言わないでも必ず求めることを用意して
待っていてくれる人でした。
だからそばにいるだけで何もかも伝わるような気持ちでした。

そして夜があけました。


2010年06月04日(金) チューブ

医療とは人の生命を維持すること。
そして人工呼吸器とは、たとえ本人の意思が
どうであろうとも一度つけた限りは
その命が絶えるまではずすことは出来ないのが
今の医療の考えです。


口から挿官したチューブは大抵1週間〜2週間で
はずすものだそうです。
というのも、やはり雑菌が肺に入って
肺炎を併発する可能性があるからだそうです。

ようやく連休が開け癌の細胞検査が始まりました。
体の外から細胞を取って行う手術では
結果が陰性だったため、今度は内視鏡で
食道の細胞を採取して検査が行われました。

口にチューブが入っている状態は
非常に患者も苦痛を感じるため
安定剤が投与され半分は眠ったような
ぼんやりした状態にするのだそうです。
眠らせることも当然出来るわけですが
私たち家族がいることから、覚醒している状態で
しかも苦痛を感じない程度という微妙な状態を
維持するように医師は心がけてくれていました。

当然声もだせないため、話をすることができません。
50音字をならべたボードを作ったり
筆談なども試みましたが
老眼のためメガネ無しでそれらを見ることもできず
また安定剤のためすぐに眠気が訪れて
意識を長時間維持することが難しく
結局思いが伝わらない苛立ちを与えてしまうだけで終わりました。

そうこうしながら1週間ほどたって検査結果がでました。
やはり陽性。
末期の食道癌と診断されました。
末期になると患部を治療しても食道をつなげることが
できないため結局手の施しようがないことだけが
告げられました。

私たち家族は
「たとえ命が短くなったとしてもいいから
とにかく苦痛を少しでも感じないようにしてやってください」
とそれだけを医師に願い出ました。

そこで今、口に入っているチューブをはずして
気管切開しのどからチューブを入れるようにすれば
口の不快感がなくなり、声は出なくなるけれど
今よりはコミュニケーションもとりやすくなるだろう
ということになり、その手術をしてもらうことになりました。

月は3月から4月に変わるところでした。
公立のその病院でも人事異動の季節でした。
交代で入ってくる新しい先生に異動早々の
過密なスケジュールを無理にさいてもらい
手術してもらえることになりました。


2010年06月02日(水) 食道癌という病気

私の血族で癌で亡くなった人がいないので
「うちは癌家系じゃないね」なんて話していました。

実はそれは大きな間違いで
単に癌になる前に他の病気にかかって
若くに亡くなっていたというだけのことでした。

老衰で亡くなる人の率がどのくらいかしりませんが
大抵は何かの病気が死因になります。
癌にかかる人は2人に1人という現代。
2人いる親の1人が癌になるのも当たり前といえば
当たり前だったのかもしれません。

けれどそんな誤解が
父が昨年秋ごろからなんとなく
食事が通りにくいとか息が切れると
感じ始めたときに病院で「喘息」と診断されても
疑わなかった原因だったのかもしれません。

食道癌という病気は胃カメラでも発見することは
非常に困難な病気だということも後から知りました。
レントゲンでも胃カメラでもまったく異常なしと診断され
喘息といわれればそうだと思うしかなかったかもしれません。


けれど3月に入りあまりに呼吸ができなくなり
春分の日の連休に「これはとても家で見ていられない」と
母が近くの市民病院の夜間救急に連れて行きました。
連休の救急窓口は普段とても混雑しているものですが
その時に限って誰も患者がおらず
比較的余裕があったことが幸いし
はじめはやはり喘息だろうといわれたのですが
その時の看護士の方が「これは絶対喘息じゃない」と
言い切ってくださったおかげであらゆる検査をしてもらい
最後にCTをとった時、初めて食道に大きな腫瘍があり
それが気管を圧迫していたのだということが判明しました。

そこからさらに市内で最も設備の整った病院に
移送され緊急入院しましたが
連休のため癌かどうかの検査ができぬままに3日。
その間に気管はさらに細くなり呼吸困難が続くため
癌の細胞検査も診断もできないまま
口からの挿官によって人工呼吸器がつけられました。

ここから大きく運命が変わっていくことになるとは
思いもしないままあっという間に挿官の処置が終わりました。


2010年06月01日(火) お別れ

5月30日に父が食道癌で他界しました。

3月に緊急入院してから2ヶ月と10日間。
ずっと神戸の病院と会社と家のトライアングルを
何十回もぐるぐると回り続けていたので
ずっとこちらをお休みしていました。

途中にいろいろな思いがあり、
そして癌という病気についてや
死について、初めて正面から考えることになり
いろんな人の文を読んだり
お話を聞いたりしたことが
とても心の支えになったので
これから落ち着いていくごとに
しばらくこの2ヶ月余りの生活のことを
ここに記していこうと思います。
いつかそれが後の自分や誰かの気持ちに
少し役立てばと思います。

ともかく今日は愛する父にこの曲を贈ります。


安藤みかげ