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2006年02月26日(日) 深夜のタクシー

木曜日、自分の要領の悪さゆえ仕事が長引き、
上司と残業となった。日付も変わろうかと言う頃、
もう何度目かに提出した書類を見て、上司が一言、
「ここまでにしよう」。

仲良しの奥さんが待っていると言うのに、そして明日は
早朝から出張だと言うのに、自分のせいで遅くまで
付き合わせてしまったことを申し訳なく思いつつ、
帰り支度に取り掛かる。

「地下鉄の終電は何時だ?」
「12時8分です」
「もう疲れたからタクシーにしないか。俺が出すよ」

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札幌の街の南北に、豊平川という川が流れている。
この川の堤防沿いの道は、信号が少なく南北の移動に便利と
いうこともあって、札幌の街中から南方にある自宅へ帰るときは、
いつもここを通る。右手にホテルやビルが立ち並ぶすすきのの夜景や、
暗闇にぼんやりを浮かぶ藻岩山を眺めながら、
この道を飛ばすタクシーに揺られるのは、
なかなか悪いものでもなくて、残業をしたときの唯一の慰めともなる。

組織で働くと人間関係に苦労するよな。
そうですね、大変ですよね。

この上司でもそう感じることがあるのか、と少し意外だった。
そして、突然こんなことを言った。

「そういえば、お前ならわかるだろうけど、
「あの人」が上司のときは、仕事は大変だったけれど、
なんか楽しかったな」

「わかります」

「お前が札幌に来る前、「あの人」から電話が来たんだよ。
お前のことをよろしく、って。丁寧な人だよな」


「あの人」の名前を聞いて、仕事をする上で原点となった、
3年前の夏の日の出来事を思い出した。

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「あの人」は、数年前、札幌での今の僕の上司の、上司だった。
その後、当時、東京で僕がいた部署に異動してきて、
社会人2年目からの2年3ヶ月間、僕の上司となった。

「三度の飯より仕事好き」という仕事の鬼、
部下泣かせで有名な人だった。
部下だけじゃなく、上司も泣かせていた。
私利私欲がなくて、筋を通すことを重んじる人だった。
正しいと思ったことはたとえ相手が上司であろうと
新人であろうと、決して曲げなかった。
器用であるよりも愚直であろうとする人だった。
言葉ではなくて態度で示す人だった。
どんなに疲れていても、どんなに忙しくても妥協をしない人だった。
プライベートのときも仕事の話となると、途端に雄弁になった。

社会人2年目の夏、その上司に初めて仕事の説明をしたとき、
僕は、23年間生きてきた中で、
人間として最も恥ずかしく、悔しく、辛い思いをさせられた。

「これはおかしい」
「ここはどうしてこうなるのか」
「ここを教えて欲しい」

「ばかやろう」「しっかりやれ」一言そう言われた方が、
まだ良かった。理不尽な言葉を言われることのほうが
助かることもあるのだと、初めて知った。
10枚足らずの書類を4時間、夜の10時まで、文字通り詰め倒された。
会議室内は厳しい雰囲気だった。
周囲は、涙をこらえる僕に対して明らかに気を遣っていた。
震えていた声が、途中からかすれるようになった。
さすがに見かねたのか、普段決してフォローなどしない
厳しい先輩がこう訴えた。

「私が付き合って、彼も毎晩夜中まで精一杯やった結果です。
これが限界です」。

その後、その上司が会議室を出て行くとき発された言葉を、
僕は今でも鮮明に覚えている。

「いいから全部、今から明日の朝までに調べておきなさい。
一体、何を調べていたんだ」。

顔を上げることすら出来ず、日付が変わってもその場から
動けなかった。プライドも人間としての矜持も、何もなかった。
自分で、不十分ながらもそれなりに時間をかけて自信を持って
やってきたことを、ここまで否定されたのは初めての経験だった。

周囲が入れ替わり立ち替わり、慰めにきた。
それが逆に辛かった。その場には後輩の新人もいた。
いつも厳しいことばかりの先の厳しい先輩も、
そのときは何も言わず、席で待っていた。
席に戻ると、周りは無言で一緒に調べてくれた。
会社をあとにするとき、もう東の空は明るくなっていた。
夢であってほしいと思った。
でも、明け方の鳥のさえずる声が、無情にも僕に現実を
迫ってきて、やりきれなかった。

シャワーを浴び着替えだけをして会社に戻った。
先輩が付き添って上司の下へ行った。
情けなくも怖くて、自分の口からほとんど何も言えず、
先輩が説明をした。
終わり際、
「これからは、これとこれは、絶対に押さえておくんだぞ」。

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その夏の終わり、異動希望の申告をすることとなった。
今の部署から異動したいか否か、
異動するとしたらどの部署に行きたいか。

この組織は、新人は全員東京に配属となる。
そして、ほとんど例外なく2年目か3年目に
地方の支店に異動となる。
事実、1年目の終了した時点で半分近くの同期が、
全国各地に散っていった。

当時、僕は社会人2年目。
3年目を迎える次の春には間違えなく、異動となる。
希望など、叶うかどうかわからない。それでも
希望があるのなら、もちろん書いておくに
越したことはない。

僕のいる部署ではその時期、誰もがこう話していた。
「「あの人」が来年も上司だと思うと、他の部署に
異動するしかないな」。

僕は、そのときの思いをその紙に書いた。

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3年目の春、僕は変わらず「あの人」の下で仕事をしていた。
周囲はほとんど入れ替わった。
入社のときに同じ部署にいた先輩は1人を残して、皆異動した。

「だめだ、違うだろう」「それはおかしい」「もう一度考えて来い」

あの夏の日以来、何度も突き返された。
これじゃ、取引先との約束が守れない、間に合わない、
そんなときでも、不足があれば決して首を縦に振ることはなかった。
でも、順を追って、事実と考えを説明すれば、
駆け出しの僕の下手な説明でも、熱心に聞いて、議論をしてくれた。

「おい、どうしてこういうことを調べるかわかるか?」
「なあ、どうしてこういうことを僕が聞いているかわかるか?」

書類を作ることに懸命で何も考えていなかった僕に、
まるで家庭教師のように丁寧に付き合ってくれた。
一つとして無意味な質問はなかった。
そして決して判断はブレなかった。

「あの人」を、批判する人も多かった。
でも僕は、その上司と一緒に仕事が出来るのが楽しくなっていた。


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社会人3年目の冬、「あの人」にとある説明をすることとなった。
同じの部署の勤務は長くて長くても3年間。
そう考えると、今回の説明は、きっと「あの人」に対する
最後の説明となる。

場所は、あの会議室だった。あれから1年半、何度も説明を重ねた。

このときの説明は、時間にして1時間半。
単なる「仕事」を超えていた。
必死だった。

説明後、僕はまたあのときのように、
会議室から動くことが出来なくなってしまった。



「良い、仕事だったよ」。

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「地方に行ったら、少し体を休めてプライベートも
充実させてこいよ。そして、地方では、仕事は、
全部自分一人で考えなくちゃいけないぞ」。

次の春、そう言葉を残して「あの人」は僕の組織を去って行った。


「2年間ありがとうございました」

「あの時は、どうなることかと思ったけどな」

そう、笑って言った。

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札幌に来てまもなく、暑中見舞いが届いた。
ラベンダーの絵柄の、あの人らしい丁寧な暑中見舞いだった。


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今、札幌で抱えている仕事は判断に迷うことが多い。
この日の残業も、迷う中で何か根拠となる材料がないか、
上司と二人、頭を突き合わせて悩んでいた。

上司はこう言った。

「「あの人」だったら俺とお前が今やっている仕事に対して、
なんて言うだろうな。」


「まあ大変だけど、明日からまた頑張ろうな」
そう言って、上司は先にタクシーを降りていった。


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