エンターテイメント日誌

2004年09月28日(火) ロボット三原則と<オレオレ映画>

映画「アイ、ロボット」は主演と製作総指揮を兼務したウィル・スミスのオレオレ映画である。まあ、その鬱陶しさは不問としよう。明らかに彼以外の役者、例えば同じアフリカ系アメリカ人ならばディンゼル・ワシントンとかローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じたほうがさらに良い映画になったであろう。しかしながら、ウィルが出演をO.K.したことでこの映画の企画が通ったわけだから、その功績は無視出来まい。これはラッセル・クロウが出演を承諾しなければ映画「マスター・アンド・コマンダー」が日の目を見ることは無かったという事実に良く似ている(これはラッセル自身がインタビューで語っているので間違いない)。

かの名作「ダークシティ」を撮った、アレックス・プロヤヌスは素晴らしい監督である。そして彼の最新作「アイ・ロボット」は地味ながら、極めて優れたSF映画である。本来ならその評価としてはBを献上したいところなのだが、以下に述べる理由によりランクを下げてC+とする。

本作の映画化に至る経緯はこうだ。まず20世紀フォックスからジェフ・ビンター(あの悪名高いCGアニメーション映画「ファイナル・ファンタジー」の脚本家)が書いたオリジナル脚本「ハードワイヤー」を監督しないかというオファーがプロヤヌスの元に届いた。彼はもともと大のSFファンだったので、この脚本をアイザック・アシモフの『われはロボット』の1エピソードのように映画化できないかと考え、シナリオを練り直すのに5年かけた。そして仕上げは「ビューティフル・マインド」のアキバ・ゴールズマンが参加した。

で筆者が想うに、このオリジナル脚本をSFオタクのプロヤヌスが無理やりアシモフの提唱するロボット三原則に結び付けようとしたことから、物語がおかしな方向にねじ曲がってしまったのではなかろうか?色々と複線が張られたアキバ・ゴールズマンの脚色は確かに見事なのだが、そもそもロボット三原則に関係のない物語を三原則に収束させることは結局出来ず仕舞いで、そこに齟齬を生じてしまったのだ(以下映画の内容に触れます。ネタバレ警報発令!)

アシモフにより提唱されたロボット三原則は以下の通り。
一.ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
二.ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
三.ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


で、映画「アイ、ロボット」の物語は端的に言えばマザー・コンピューターが狂う話である。つまり「2001年宇宙の旅」のHALと同じである。「アイ、ロボット」のマザー・コンピューターはこう考える。<人間という種を保存するためには、環境汚染など滅亡への道を突き進む人間の愚かな行動をロボットがコントロールしなくてはいけない。その目的を果たす手段として人間に危害を加えることはやむを得ない。>・・・って、そんな屁理屈あり!?完全に第一原則に抵触しているでしょうが!ルール違反して良いのだったらそもそも原則なんて無意味じゃないか、ロボット三原則を持ち出すのならそのルールの範囲内で物語を構築すべきだろうというというのが筆者の主張である。ゆえにアシモフへの敬意を欠いたこの映画のクリエイターたちの行為に対して断固として抗議を表明する。

本作で殺人の嫌疑をかけられるロボット<サニー>はデザインから言っても明らかにiMacだよな。勿論サニーが戦いを挑むマザー・コンピューターはWindowsの暗喩である。つまりこの映画はビル・ゲイツの陰謀によりWindowsの暴走で支配される近未来の恐怖と、モーゼ(=Mac)の出現によりその悪夢から開放される21世紀のイスラエルの民たち=ロボットの物語なのである。「アイ、ロボット」は新世紀の<出エジプト記>(←クリック)である。そういう仕掛けはなかなか面白い。

ともあれ今回の映画のヒットでもしも続編が出来るとしたら、それはそれで非常に愉しみである。でも次回は是非アシモフ抜きでヨ・ロ・シ・ク。



2004年09月22日(水) スイングしなくちゃ意味ないね

前回の日誌で「チルソクの夏」が期待したA級青春映画の殿堂入りを果たせず、何故駄目だったのかを解析したが、想いもかけぬ伏兵が綺羅星の如く突如として現れ、軽々とそのハードルをクリアした。監督・脚本:矢口史靖 の「スイングガールズ」である。これは掛け値なしの大傑作。いやはや、恐れ入りましたっ!

筆者は同じ矢口史靖監督・脚本による「ウォーターボーイズ」に関して、クライマックスのシンクロナイズド・スウィミングの場面だけ高く評価している。だってあの映画、それだけでしょ?

<男がシンクロ!?>というアイディアの一発勝負で、ストーリーは明らかにイギリス映画「フル・モンティ」の焼き直し。ギャグはベタで全く笑えないし、同性愛の男子生徒の描き方なんて気色悪いだけ。ホモセクシャルに対する作者の偏見だけが醜くクローズアップされる形になっていた。それから竹中直人の大仰な演技はわざとらしくて鬱陶しい。だから「ウォーターボーイズ」の評価はC-程度でしかない。

そういう訳で巷では女の子版「ウォーターボーイズ」と言われている「スイングガールズ」には余り期待していなかった。ところが、である。

こんなに軽妙で爽やかな青春群像劇になっているとは驚かされた。登場する女の子たち(and a boy)が実に瑞々しく活写され、観ていてなんだか元気を貰ったような気分になる。今回は劇中に散りばめられたギャグにも気持ちよく笑うことが出来た。コメディとしての面白さは本年屈指の快作「下妻物語」にも肉薄する出来と言ったら褒め過ぎだろうか?今回も竹中直人が登場するが、「ウォーターボーイズ」とは異なり抑えた演技で、目障りではなかった。

本作で何と言っても特筆すべきはヒロインの上野樹里だろう。素朴で、ちょっと意地悪な田舎の女子高生を実に好演している。その太陽のような笑顔がなんとも魅力的。彼女が喋る山形弁もとっても可愛らしい。もう全面降伏である(ただし今年筆者の選ぶ最優秀主演女優賞はセカチュウの長澤まさみであることは未だに揺るがないが)。

今年、上野樹里が出演する映画を観るのはこれで三本目だ。「ジョゼと虎と魚たち」では無神経で偽善者の女子大生として登場し、余りにその演技が上手いので、本人に罪はないのだが役柄のせいで実は彼女に対して反感を抱いていた。だって我らが池脇千鶴ちゃんの恋敵なんだぜ、悪印象でも仕方ないだろ?「チルソクの夏」で彼女は下関の高校生役である。「スイングガールズ」と似た役柄だが、脇役なので印象は薄かった。そこへきて「スイングガールズ」での魅力全開、大爆発である。筆者の不明を恥じると共にその秘められた資質を最大限に引き出した矢口史靖の力量を素直に褒め称えるしかあるまい。

本作は青春映画としてだけではなく音楽映画としても出色の出来である。サッチモ(ルイ・アームストロング)が、あの嗄れ声で唄う'What A Wonderful World'とか、エンディングでナット・キング・コールが唄う'L-O-V-E'の使い方なんて憎いねぇ、泣かせてくれる。直木賞を受賞した芦原すなおの小説「青春デンデケデケデケ」の中で主人公の友人の姉が、一番大好きなのはナット・キング・コールで、その歌声を聴いていると涙が出てくると言っていたのを想い出した(この台詞はデケデケの映画版にも登場する)。

<ハナ肇とクレイジー・キャッツ>の谷啓がトロンボーンを担いで登場するのも嬉しい。でも今の若い世代では、クレイジー・キャッツがジャズ・バンドだったという事実も知らない人が多いのではなかろうか・・・。クレイジーの面々が出演した「ニッポン無責任時代」(1962)は最高に可笑しい音楽映画の金字塔である(一応断っておくが、「ニッポン無責任時代」が公開された年、筆者はまだこの世に生を受けていない)。ちなみにクレイジー・キャッツのメンバー、安田伸(テナーサックス)は映画「青春デンデケデケデケ」に出演している。映画は繋がっている。



2004年09月18日(土) 青春映画の輝きと<チルソクの夏>

A級の青春映画として真っ先に想い出す日本映画を列挙してみよう。

今井正監督「青い山脈」
黒澤明監督「わが青春に悔いなし」「素晴らしき日曜日」
木下恵介監督「女の園」
増村保造監督「くちづけ」
鈴木清順監督「けんかえれじい」
大森一樹監督「ヒポクラテスたち」
今関あきよし監督「アイコ16歳」
澤井信一郎監督「Wの悲劇」
中原俊監督「桜の園」
岩井俊二監督「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」
行定勲監督「GO」
磯村一路監督「がんばっていきまっしょい」
曽利文彦監督「ピンポン」
古厩智之監督「ロボコン」
大林宣彦監督「転校生」「時をかける少女」「廃市」「さびしんぼう」「ふたり」「青春デンデケデケデケ」「なごり雪」

さて、「チルソクの夏」はきっとこれらA級の傑作群に入る作品に違いないと筆者は観る前に確信をしていた。が・・・結果は惨憺たるものであった。評価はDである。

このお話は監督の佐々部清オリジナル脚本で、佐々部の古里=下関を舞台としている。映画は冒頭が白黒の画面で、ヒロインの回想となりカラーである1970年代に遡るという構成。まあ「ジョニーは戦場に行った」「初恋のきた道」など、使い古された手法である。とにかくその冒頭の白黒映像が汚いのに閉口した。これ、もしかしたら白黒フィルム使ってないんじゃない?カラーフィルムを色彩調整して安易に撮っているに違いない。

カラーの場面になってもどうも佐々部の演出が凡庸すぎてときめかない。陸上競技の場面でやたらとスローモーションを使いたがる安易さにもうんざりした。物語の終盤、ヒロインが港に駆けつける場面でも、疾走感が全く感じられない。たとえば「がんばっていきまっしょい」の漕艇場面のスピード感溢れる演出と比較すると雲泥の差である。

脚本もダメダメ。4人の女子高生の友情が余りにも嘘っぽい。「がんばっていきまっしょい」も70年代の地方都市を舞台に運動部に情熱を傾ける女子高生たちの物語であったが、あの映画がきらきらと煌めいて、胸を締めつけられるような傑作になったのは実体験に基づく原作があったからだろう。だから登場する女の子たちの心情にリアリティがあるのである。佐々部はオリジナルシナリオを執筆するにあたり、女子高生の心情が全く判らないのであれば主人公を男にするべきだったのだ。下関に住む陸上部の男子校生が姉妹都市である韓国の釜山から親善の競技大会にやってきた女子高生に恋をするという物語でいいじゃないか。

ヒロインが恋に落ちて文通をはじめるその過程も余りにも唐突・無理矢理過ぎていただけない。いくら一目惚れにしたって相手の何処が良かったんだか全く説得力に欠ける。

「陽はまた昇る」「半落ち」「チルソクの夏」と佐々部の作品を観てきて漸く気が付いたのはこの人の作品ってみんな演歌の世界なんだよね。テンポが悪くて人情がベタベタしていて泥臭い。「チルソクの夏」に山本譲二が父親役で出演していることがそれを象徴している。僕には全く合わないや。今後、佐々部の映画を観ることは二度とないだろう。



2004年09月11日(土) <LOVERS>あるいは<続・初恋のきた道>

鈴木清順監督「オペレッタ狸御殿」のお姫様役に引き続き、「シカゴ」のロブ・マーシャル監督によるハリウッドのゲイシャ映画「さゆり」のヒロイン役を見事射止め、飛ぶ鳥を落とす勢いのチャン・ツィイーだが、彼女の映画デビュー作はチャン・イーモウ監督の「初恋のきた道」である。

この映画を観て仰天したのはイーモウは今までの作風を捨てて、完全なアイドル映画を撮ったということである。嘗めるようにカメラがツィイーに肉薄し、アップやスローモーションを多用したそのスタイルは、まるでアイドルのプロモーション・ビデオを観ているかのようであった。現代の場面を白黒にし、彼女が登場する過去の場面だけカラーにするという発想も、明らかにツィイーの可愛さを引き立たせるため以外の目的などあろう筈がない。

「初恋のきた道」を観て即座に連想するのは、先日女子中学生買春で逮捕された今関あきよし監督の「アイコ16歳」(富田靖子 主演)とか原将人監督の「20世紀ノスタルジア」(広末涼子 主演)などである。原監督は<広末涼子は女優菩薩である>なんて発言しているのだから凄まじい。イーモウがツィイーに注ぐ眼差しは正にこれに近い。

で今回の新作「LOVERS」なのだが、これは明らかに「初恋のきた道」の発想の延長線上にある。如何にしてツィイーを可愛らしく、奇麗に撮るか、イーモウにはそのことしか頭にない。ツィイーは劇中、何度も衣装を着替える。冒頭の舞の場面だけでも途中衣替えがあるのである。正に七変化。ワダエミの衣装が素晴らしい。今回は青や緑の色彩が濃厚なのだが、それだって「初恋のきた道」のツィイーの衣装はピンクや赤系統が中心だったから、今度は青を着せてやろうかなぁ〜という意図が透けて見える。おまけに今回はツィイーの麗しい男装姿や水浴み場面も拝められ、サービス満点。いやはや・・・

一方のアンディ・ラウは冒頭から最後まで衣装は一着のみ。おまけに映画のクライマックスでは背中に飛刀が刺さったままの間抜けな姿で戦うのである。実に情けない。観ていて気の毒である。香港の大スターがよくぞこんな仕事を引き受けたものだと感心するが、世界的巨匠だった(過去形)チャン・イーモウ監督の作品にどうしても出たかったんだろうね。でもラウのファンがこの映画を観て激怒する気持ちは良く理解できる。

「LOVERS」はある意味トンデモ映画である。映画に張られた伏線が結局最後まで放置され、であの話はどうなったの??という疑問符が炸裂する。まるで「新世紀エヴァンゲリオン」や「ツイン・ピークス」「マトリックス」状態である。たとえば物語の背景となる飛刀門と朝廷の討伐軍との戦闘の結末はどうなったのか?ツィイーが飛刀門に身を投じる切っ掛けとなった<恨み>とは一体なんだったのか?それらのことが全く描かれない。顔を隠した飛刀門の新頭目とは結局何者なのか?という疑問も解決されないまま。

実は新頭目には当初アニタ・ムイがキャスティングされていたそうである。しかし彼女が急死したとの訃報をロケ地で聞いたチャン・イーモウとスタッフは全員で黙祷をささげ、イーモウは代役をたてないことを言明し脚本を修正。そして<アニタ・ムイに捧ぐ>というクレジットを映画に挿入した。でもさ、そんな事情って映画の観客には全く関係ないことじゃない?特に日本人や欧米人にとってはアニタ・ムイって誰?って感じだし。代役を立てないというのは全く内輪だけの事情。それって<自主映画>の発想でしょ。これって世界のマーケットに出す<商業映画>じゃないの?

多分チャン・イーモウの心をよぎった気持ちは以下の通りである。
「ま、いいか。新頭目がだれかなんてツィイーとは関係ないし。飛刀門と朝廷の決戦まで描いていたら彼女の出番が減っちゃうからな。やめたやめた。」

映画のラスト、金城武とラウが決闘する場面でアクションの最中、それまで周囲は秋の紅葉だったのに何故かCGで描かれた雪が降り出して、突如として大雪が積もった光景に一変する。これ、実は可憐な白菊の咲き乱れる中で撮影される予定だったのに、ある日ウクライナのロケ現場に行ってみると季節はずれの大雪で雪野原に変貌していたのでスタッフ一同唖然。やむを得ず脚本を変更したそうである。でもさぁ、それって変じゃない?新たにロケ地を探せば問題解決でしょ。大作なんだから資金だってあるんだし。

しかしイーモウの頭にはそんな発想の転換はなかったんだろう。きっと彼はこう考えたに違いない。
「ま、いいか。どうせツィイーの見せ場じゃないんだし。とっとと撮影済ませて次いこう。」


まぁ、「幻の湖」みたいなトンデモ映画としてみれば腹も立たない。撮影・美術・衣装の美しさは傑出しているし、ツィイーの魅力炸裂なので全体の評価としてはC+くらいが妥当かな。



2004年09月04日(土) Shame on you, Mr.Bush ! <華氏911>

「ボーリング・フォー・コロンバイン」が最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞したとき、マイケル・ムーア監督はアカデミー賞授賞式の壇上で「ブッシュよ恥を知れ!」と雄叫びを上げ、大ブーイングを喰らった。合衆国がイラク侵略を開始した直後の出来事であった。今から想えば、あのときからムーアの「華氏911」(=自由が燃え尽きる温度)は始まっていたのである。

「華氏911」は極めて優れたプロパガンダ映画である。しかし残念ながらこれはドキュメンタリー映画ではない。何故ならドキュメンタリーとはその作家がいかに描く対象に肉薄できるかを問われるのであるが、この作品の主役であるブッシュが登場する映像の殆どがテレビ・ニュースの流用であり、マイケル・ムーアとブッシュが直接対決をする映像はなんと一分にも満たないのである(しかも両者の間には相当な距離がある)。主役を間接的にしか描写できなかったという点がこの作品の最大の弱点である。だからムーアとその取材班が実際に撮った映像は全編の半分余りに過ぎず、これでムーアの作品と呼べるのだろうか?とも想うし、画質の粗いテレビ映像を映画館の大画面で見る意義がどこにあるのだろう?という疑念もふつふつと湧いてくる。

そういうわけで緩急を使い分けた編集も見事だし、大変分かりやすい構成で2時間という上映時間が全く退屈する瞬間もなく過ぎていったことを高く評価しつつ、前述した理由によりこの映画の評価はB+とする。この作品でムーアが来年再びアカデミー賞を受賞することについては熱烈に応援したいが、カンヌのパルムドール受賞については首を捻らざるを得ない。

しかしまあ、それでも自らの命を賭してこの映画を撮ったムーアは偉いし、親会社ディズニーの意向を無視してその製作にGOサインを出したミラマックスのハーベイとボブ・ワインスタイン兄弟の功績も讃えねばなるまい。

「華氏911」で感心したのは確かに直球のプロパガンダなのだが、ムーアがブッシュを憎むのは決してムーアが反共和党で民主党支持者だからとか、共産主義者であるとかといった思想的理由ではなく、地位を利用して私腹を肥やし、アホで間抜けなアメリカ国民たちを騙し恐怖感を煽って、低所得者層の若者を戦場に追い立てるブッシュとその取り巻き達や、軍事ビジネスに投資して甘い汁を吸うカーライル・グループなどの多国籍複合企業の経営者たちが許せないという個人的理由=独裁者への怒りから本作を制作したのだという意図が良く分かったからだ。ムーアにとっては、ブッシュでさえなければ誰が大統領になってもちっとも構わないのだ。

それにしても、この映画を観て単純に大統領選でケリー支持に転向するアメリカ人たちもみっともないよなぁ。イラク侵略当初はアメリカ国民の実に90%以上がブッシュ支持であったことを我々は忘れてはいけないだろう。すべての罪をブッシュひとりに押し付けるのは簡単だが、悪魔(evil)は自分自身の心の中に棲んでいることを自覚してもらいたいものだ。あのヒトラー率いるナチスだって選挙で正式に選ばれたのだ。ホロコーストに対して当時ナチス党に投票した全ドイツ国民に責任があるように、現在イラクの置かれた状況に対してアメリカ国民は責任を負わねばならない。知らなかったでは済まされない。無知であるということの罪もある。そしてそのことはアメリカを支持した日本にも当てはまるのである。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]