エンターテイメント日誌

2003年05月31日(土) 誰も書かなかったマトリックス

「マトリックス」という映画はある意味で革新的な作品だった。空気の歪みで弾道を表現したり、人物の素早い動きを残像として見せたり、なかでも圧巻だったのが、被写体の周囲を瞬時にカメラが360度駈け抜ける<マシンガン撮影>。これは後の映画に多大な影響を与えた。「ソードフィッシュ」では完全に模倣され、「シュレック」ではパロディの素材となった。「マトリックス」が「スター・ウォーズ エピソード1」を押さえてアカデミー特殊視覚効果賞を授賞したのは当然の帰結だった。そしてそのVFX(以前はSFXと呼んだものだ。いつの間に変わってしまったのだろう)は今回の続編「マトリックス・リローデッド」で確実に進化している。またもや観たこともない映像であなたの度肝を抜くことは間違いない。ただし、唯一保留をつけるなら高速道路を逆走するド派手なカー・チェイスは、なにも「マトリックス・リローデッド」が初めてではなく、ジョン・フランケンハイマー監督の「RONIN」(1998)があったことをここで強調しておきたい。

しかしながら「マトリックス」のVFXは確かに凄いのだが、正直言って物語の方はしょーもないと想っている。所詮はバーチャル・リアリティのお話。こういう題材は例えば日本の小説では岡嶋二人が書いた名作「クラインの壺」(1989)があったし、ハリウッド映画では「トロン」(1982)を開祖として「未来世紀ブラジル」(1985)などがあり、最近では「ダークシティ」(1998)や「イグジステンズ」(1999)という作品もあった(「マトリックス」の公開は1999年)。だから結構使い古された素材なのである。

今回の新作では生き残った僅かの人間が棲む都市<ザイオン>が登場するのだが、もうまるで原始人のような生活を送り、愚鈍で粗野な踊りを皆が展開するのだから笑っちゃった。おいおい、こりゃ「死霊の盆踊り」か!?アクション・シーンは格好良くて素晴らしいのに、人間様の場面になると突如として稚拙な演出になってしまうんだもの。もう退屈。

で、そういうシナリオの致命的欠陥を誤魔化す為にウォシャウスキー兄弟が仕組んだのが聖書や神話、古典からの無節操な引用である。前作には<白兎を追え>という「不思議の国のアリス」からの引用があり、例えばモーフィアスという登場人物の名前はギリシャ神話からの引用である。眠りの神ヒュプノスの息子で、寝入った人間に悪夢への門と良い夢への門のどちらかを選ばせる。これが「マトリックス」ではモーフィアスがネオに青か赤のピルを選ばせるという形で登場した。「リローデッド」で初めて登場するパーセフォニーもギリシャ神話からの引用で、冥府の王ハデスの妻の名である。またザイオンは、旧約聖書に記された丘の名前でダビデ王がそこに宮殿を建設した…といった具合だ。で、そもそも<マトリックス>とは何かというと古代ローマ神話に出てくる<メルクリウスの井戸>のことで、女性性器と同一視され、<胎児の水>であり<羊水>なのだ。くわしくはこちらをご覧あれ。第一作を想い出してもらえば、このイメージが映画の中で再現されていることがお分かりいただけるだろう。

また、「リローデッド」にはグノーシス号というホバークラフトが登場するが、これはこの物語がグノーシス主義と深いかかわりがあることを示唆している。グノーシス主義とは紀元一世紀より、四世紀頃まで流布したキリスト教の異端であり、人間の存在は<偽の神>デーミウルゴスが創造したものであり、意図して<真の神>の存在等を隠蔽して人間を無知な状態<=悪の宇宙>においているのだと主張する。そして<救済の叡智の開示者=イエス>の手で<叡智(グノーシス)>を得て、その本来性を回復し<故郷なる真の世界>へと帰還できるのだと説く。詳しくはこちらをご覧あれ。これこそ正に「マトリックス」の世界観ではないか。

さて、長くなった。続きは後日にしよう。もし読みたいと想うのなら是非投票に協力して欲しい。右下ボタンをクリック。



2003年05月25日(日) <ダロウェイ夫人>から<めぐりあう時間たち>へ

実は先々行オールナイトで「マトリックス リローデッド」を既に観たのだが、それはまた、別の話。まあ、今回この日誌に投票してくれる人が多ければレビューを掲載してもいいけどなぁ(笑)・・・

さて、ヴァージニア・ウルフが書いた小説「ダロウェイ夫人」は1997年に映画化されている。原作者も脚本家、監督そして主演も全て女性という上品で香り高い映画だった。ダロウェイ夫人を演じる美しく年老いたヴァネッサ・レッドグレイヴが素晴らしい。親友との同性愛的な関係が描かれるという点では、やはりヴァネッサが演じた映画「ジュリア」を彷彿とさせた。あれも見事な女性映画であった。

「ダロウェイ夫人」は主人公が自宅で催す夜会の為に、花を買いに朝出かける場面から始まり、宴の終わりとともに物語の幕を閉じる。その一日の間に彼女は過去を振り返り、どうしようもない後悔の念に捉えられて死を憧れ、そして最後に諦念を抱く。彼女が死を思い止まったのは、全く見知らぬ戦争帰りで心を病んだ青年、セプティマスの死の噂を聞いたからであった。

映画「めぐりあう時間たち」は「ダロウェイ夫人」を踏襲する形で物語が展開する。そして一体誰が<セプティマス>の役回りになるのかというのが重大な要となる。だからそういう意味では「めぐりあう時間たち」を観る前に予備知識として「ダロウェイ夫人」の小説か映画に触れておく方が理解の助けにはなるだろう。

「めぐりあう時間たち」は3大女優の共演というのも華やかだし、文芸作品ととして芳純な作品だとは想ったが僕は正直余り好きにはなれなかった。物語に救いがなさ過ぎる。ヴァージニア・ウルフはセプティマスという物語の本筋から離れた登場人物を設定することにより、主人公を死から救いはするのだが、結局作者本人は59歳で自殺してしまう。そういう生き方を決して否定はしない、いや、むしろ肯定している「めぐりあう時間たち」の作り手達の姿勢に僕はどうしても共鳴出来なかった。

僕はチャップリンが「ライムライト」の中で語った台詞を今でも信じたい。

ー人生には、死よりも苦しいことがある。それは生きつづけることだ。でもね、人が生きるためには少しばかりの勇気と、少しばかりのお金があればいいんだよ。ー

ロベルト・ベニーニはホロコーストの悲劇を描く自作の中でこう語る

ーそれでも人生は美しい。ー

そう僕たちに信じさせてくれる力こそ、映画を観る歓びなのではなかろうか?

追伸:短いメロディが永続的に反復し、重なり、暫時変化しながら音楽が進められていくミニマル・ミュージックの旗手、フィリップ・グラスの音楽が的確に映画に寄り添い、非常に印象的だったことを特記しておきたい。



2003年05月17日(土) ミュータントの渡り鳥、ウルヴァリン

ドキュメンタリー映画「WATARIDORI」は息を呑むほど映像の美しい映画である。ジャイロコプターから捉えた超低空飛行による、羽ばたく鳥達の雄姿が素晴らしい・・・しかし、である。僕はこの映画の構成に疑問を感じた。何だか脈絡がないのでだんだんとその映像に退屈してくるのである。たとえば春夏秋冬の移り変わりにあわせて編集するとか、北極から南極へと南下する順序に編集するとか、もっと見せ方の工夫の仕方があったのではなかろうか。

さて、本題にはいる。「X-MEN 2」である。僕は基本的にアメコミ(アメリカン・コミックス)を原作とする映画は単純過ぎて退屈だと想っている。フラッシュ・ゴードンやスーパーマン然り、スパイダーマン然り。最近ではデアデビルにしても非常に安っぽい印象はぬぐい去れない。今度「いつか晴れた日に」「グリーン・デスティニー」を撮った台湾の巨匠、アン・リー監督が「超人ハルク」に挑んだのだが、予告編(←クリック)を観る限りどう考えても<トンデモ映画>に仕上がっているとしか想えない。

手塚治虫以降の日本の漫画は飛躍的な進歩を遂げ、いまや世界に比類の無い先進国である。対してアメリカのそれは、もう余りにも低次元であり、比較の対象にもならない。だからアメコミの映画版もろくな作品が出来る筈がそもそもないのである。

しかしその中では比較的「X-MEN」は面白かった。「ユージュアル・サスペクト」を撮ったインディペンデンス系のくせ者、ブライアン・シンガーが監督に起用されたことに加え、ミュータントと人間の対立に<異文化の衝突>という寓意を盛り込んだ物語展開がなかなかスリリングだった。ところが今回の続編はいまひとつ平板で退屈した。それぞれのどうでもいいような恋愛模様が強調され、それが物語の焦点をぼかし、間延びするのである。

ヒュー・ジャックマンやオスカーを受賞したハル・ベリーなど前作以降大スターになった役者もいて、さらにアラン・カミングの参入など俳優陣は実に豪華だ。しかし、これだけスターをそろえておきながらその個性を十分に活かし切れていないという憾みもある。特にハル・ベリーはあのゴージャスな肉体をもっと晒さなくっちゃ出演する意味がないとさえいえるだろう。

しかし、「シカゴ」出演以前のゼタ=ジョーンズ同様、ヒュー・ジャックマンが唄えるスターだということを知らない人が多いのは真に残念だ。彼には「オクラホマ!」などミュージカルの舞台経験があり、なかなか美声の持ち主なのだが、それを活かせる場が映画にないのが勿体ない。現在プロジェクトが進行中のミュージカル映画版「オペラ座の怪人」で、ファントム役にジャックマンの名が有力候補として挙がっていると聞く。是非実現することを期待したい。



2003年05月10日(土) Destination; Chicago !

(これは前回の日誌よりの続きである。)

そして遂に映画「シカゴ」を観た。想像を超える映画の出来の素晴らしさに感嘆した。

まず、ロブ・マーシャルの演出である。リメイク/テレビ版「アニー」で見込んだ男だけのことはあった。ミュージカル・シーンをロキシーの空想の産物としてステージに封じ込む作戦も違和感なく見事だったし、現実とイマジネーションの世界を巧みに切れ味鋭く切り返す編集の妙が極めて効果的。ダンス・シーン演出の基本はMGMミュージカルにおけるアステアやケリーの作品を観れば分かるが、なるべく編集で繋がず、またクローズ・アップなどは避けて常にカメラがダンサーの全身を映すことにある。この法則を無視して革命をもたらしたのが「ウエストサイド物語」であり、そのことは斬新であったとともに、ミュージカル映画の<死>を宣告するものとなった。マーシャルはダンス・シーンを細切れのカットで繋いでいるのだが、それが決してダンスの流れや醍醐味を失うことなく、むしろ畳みかけるスピード感が出ているのだから大したものだ。やはり自ら振り付け師であり、ミュージカルへの真摯な愛があるからこそ可能な技なのだろう。そういう意味ではボブ・フォッシーに似ていると言えるだろう。

しかし、マーシャルの振り付けは決して、あの独特な<フォッシー・ダンス>に似てはいない。くっきりと独自色を出しつつ、それでいて全体としてはちゃんとオリジナルのフォッシーへのオマージュになっているのだから恐れ入る。特にセクシーでダイナミックな「セル・ブロック・タンゴ」やシルク・ド・ソレイユを彷彿とさせるサーカス風「ラズル・ダズル(裁判所のナンバー)」、また操り人形に見立てた「私達はどちらも銃に手が届いた」の斬新な振り付けには瞠目した。

役者についてだが、まずこれでオスカーを受賞したキャサリン・ゼタ=ジョーンズの唄と踊りは圧巻だった。僕は彼女がキャスティングされた時点で調べてみたのだが彼女は10代の頃「アニー」の主役や42ND STREETの主役(ペギー・ソーヤ役)に抜擢されるなどウエストエンドでの立派なキャリアがあり、「マスク・オブ・ゾロ」で共演して撮影中にゼタの唄を聴いたというレクター博士ことアンソニー・ホプキンスはインタビューで「彼女の唄声はそれは美しい!映画で彼女の唄が聴けないのが大変残念だ。」とコメントしており、期待していた。しかし実際はもう想像をはるかに上回るパフォーマンスで、「姉御、恐れ入りましたっ!」とひれ伏すしかなかった。

レニー・ゼルウィガーはマリリン・モンロー風にイメージ・チェンジして可愛らしく、また唄に踊りに非常に頑張ってはいるのだが、何分ゼタと違って舞台経験がないだけに、分が悪く気の毒だった。「ブリジット・ジョーンズの日記」の彼女の方がはるかに魅力的。これでは今回オスカーを逃したのも仕方ないかなという気がした。まあ、まだまだ若いんだから幾らでもチャンスはあるよ。

しかし、彼女達にもまして今回一番魅力的だったのは意外なことにリチャード・ギアだった。今までのギアはハンサムでお洒落なナイス・ガイ、でもそれだけという印象でしかなかったのだが、今回は金にしか価値を見いださない悪徳弁護士役を何だかとっても愉しそうに、生き生きと演じていて観ているこちらまで嬉しくなってしまった。ギアといえばチベットを愛しダライ・ラマに私淑している真面目な人というイメージが覆され、こんな遊び心のある一面もあったんだという新鮮な驚きがあった。彼は若い頃、舞台でミュージカル「グリース」の主役(映画版ではトラボルタの役)を演じたキャリアがあるのだが、正直ガラガラ声で唄は余り巧くない。しかし映画で彼のパフォーマンスを観るとその欠点が余り気にならないのだから不思議なものである。

このビリー・フリン役は当初ジョン・トラボルタがオファーされており、プロデューサーや監督が三顧の礼を尽くしたにもかかわらず断られたそうだ。出来上がったフィルムを観てトラボルタは出演しておくべきだったと地団駄を踏んだという。そりゃあ、そうだろう。ギアはこれで大いに株をあげ、ゴールデン・グローブ賞まで授賞したのだから。



2003年05月03日(土) シカゴへの道

僕がミュージカル「シカゴ」を知ったのは今から5年前の春のことだった。ロンドンに行くことになり、その際是非、ウエストエンドでミュージカルを何本か観たいと想った。「オペラ座の怪人」はもう最初から決めていたのだが、他に何が良いか、当時参加していたミュージカル系のメーリングリストで尋ねてみた。すると海外在住の人が「今一番ホットなミュージカル」として「シカゴ」を勧めてくれた。

舞台のシカゴはモノトーンでシンプルな舞台装置で展開される、セクシーで粋なダンスに溢れたボードビル・ショーである。当時ウエストエンドで出演していたのは、ミュージカル・スターのルーシー・ヘイシャルと、クルト・ワイルのアルバムなどで名高い歌姫、ウテ・レンパーだった。残念ながら僕が観劇した日はルーシーが休演日でアンダースタディ(代役)だったのだが、それでもウテの卓越した唄と格好良いダンスにたちまち魅了された。ウテは「シカゴ」の演技が高く評価され、イギリス演劇界最高の名誉であるオリビエ賞をその年授賞した。

その後僕はブロードウェイからのツアー・カンパニーの東京公演も観る機会を得た。しかしこのカンパニーではヒロインを黒人の女優が演じていたので若干違和感があった。舞台設定は1920年代のシカゴである。当時、黒人は白人と一緒に舞台に立つことさえままならなかった。例えば伝説的黒人タップ・スター、ビル・"ボージャングル"・ロビンソンやニコラス・ブラザースらは白人の名手、フレッド・アステアと共演することは一度も出来なかった。そんな時代だから黒人のヒロインというのはどうしてもリアリティを感じられなかったのだ。

「シカゴ」はアモラル(超道徳的)な作品である。殺人犯が悪徳弁護士の力を借りて無罪を勝ち取り、スターとなるお話なのだから。ボブ・フォッシーが「シカゴ」を初演したのが1975年。当時としては余りにも早過ぎた傑作だったのだろう。トニー賞でも完全に無視されてしまった。しかし1996年にはフォッシーの元愛人アン・ラインキングによってリバイバル上演され、今度はトニー賞主要6部門を受賞する栄誉に輝いた。OJ.シンプソン事件などを経て、時代がようやく追いついたということだ。おまけにこの度映画化されてアカデミー作品賞を授賞したのだから、世の中何が起こるか分からない。

映画「シカゴ」の監督、ロブ・マーシャルは元々、フォッシー同様振り付け師である。「キャバレー」のブロードウェイ・リバイバルに際し、振り付けと共同演出を担当した。このときマーシャルとともに演出にあたったのがサム・メンデス。後に映画に進出し「アメリカン・ビューティ」でアカデミー監督賞を獲得し、「ロード・トゥ・パーディション」ではキネマ旬報ベストワンに輝いた。この舞台「キャバレー」も僕はブロードウェイ(ヒロインはあのブルック・シールズ!)とツアー・カンパニーの東京来日公演で観劇した。シニカルで頽廃美と悪意に満ちた、フォッシーの映画版とは全く違った魅力のある素晴らしい舞台だった。いつの日かミュージカル「キャバレー」がマーシャルかメンデスの手で再映画化されることを切望する。勿論M.C.はこの役でトニー賞を受賞したアラン・カミング(X-メン2、スパイ・キッズ)で。

ロブ・マーシャルは「シカゴ」を撮る前にまずディズニーが多国籍キャストでTV放送用に製作したミュージカル映画「シンデレラ」(1997)の振り付けを担当し、引き続きTV放送用に製作されたミュージカル映画「アニー」のリメイク(1999)で振り付けに加え監督にも進出した。このふたつは日本ではDVDはおろかビデオも発売されていないが、WOWOWで観る機会を得た僕はたちまち魅了された。特に「アニー」の出来は素晴らしく、ジョン・ヒューストン監督の映画版が霞んでしまった。リメイク版に惚れ込んだ揚げ句の果てに、わざわざ北米版DVDを海外から取り寄せたくらいである。そのあたりの感想はこちら(←クリック)に詳しく書いているので参照して頂ければ幸いである。だからマーシャルが「シカゴ」を映画化したと聞いて、大傑作に仕上がったに違いないと端から確信を持っていた。

To Be Continued...


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]