エンターテイメント日誌

2001年12月27日(木) アトランティスと沈没するディズニー帝国

11月18日の日記で僕が予言したとおり、ディズニーの新作アニメーション「アトランティス」が正月映画の中で大苦戦を強いられている。公開3週目にしてなんと興行成績ランキングのベスト10から滑り落ちてしまった!ロングラン・ヒットの「千と千尋の神隠し」や「冷静と情熱のあいだ」が未だにランクインしているのにもかかわらずである。悲惨な結果としか言いようがない。

この作品は公開前から「ふしぎの海のナディア」や「天空の城ラピュタ」などの日本製アニメーションとの類似が指摘されていた。「ライオンキング」が「ジャングル大帝」のパクリであると大騒動になり、手塚プロダクションが訴訟するかどうかで世間が注目したあの時と同様である。結局こういうジャンルにおいて日本のアニメーションの水準は桁外れに高く、他の追随を許さないことは誰もが知っている不動の事実であるし、ディズニー如きにジャパニメーションが負けるはずがないのである。

「リトル・マーメイド」から始まり、「美女と野獣」「アラジン」「ノートルダムの鐘」などの傑作群を打ち出した新生ディズニーの栄光はジャパニメーションにない「ミュージカル・アニメーション」という昔からのディズニー固有の伝統を上手に継承し、深化させたからこそあり得たのだし、そしてその多くは作詞家のハワード・アシュマンや作曲家のアラン・メンケンなどの才能に負うところが大きかったのだと僕は考える。結局そのミュージカル・スタイルを捨ててしまったら現在のディズニーに生き残れる道は最早ないのである。

むしろディズニーのアイズナー会長と対立して、同社を追われたカッツェンバーグがスピルバ−グと組んで設立した、ドリーム・ワークスのアニメーション部門のほうが傑作「シュレック」を生み出すなど威勢がいい。「シュレック」には「白雪姫」「ピノキオ」「3匹のこぶた」など往年のディズニー・キャラクターをパロディにした面白い場面が登場し、カッツェンバーグのディズニー・プロに対する怨念が感じられてすこぶる面白い。特に「美女と野獣」の変身シーンをおちょくったクライマックスの一場面は、もう抱腹絶倒である。

CGアニメーションならディズニーにも「トイ・ストーリー」シリーズや「バグズライフ」みたいな傑作もあるじゃないかと仰る方もおられよう。しかし誤解のないよう言い足すなら、あれらはディズニーが配給しただけであって、ピクサー社が製作した作品なのであり、厳密な意味でのディズニー映画ではないのだ。配給しただけで「ディズニー映画」だというのならアメリカではディズニーが配給した「もののけ姫」もディズニー映画になってしまう。それじゃあおかしいでしょう?

それにしてもここ数年姿を見せないアラン・メンケンは一体全体どこでなにをしているのだろう・・・



2001年12月14日(金) 決定版!ハリー・ポッター狂想曲を総括する

映画「ハリー・ポッターと賢者の石」についての批評・感想文の類は最早出尽くした感がある。「エンピツ」のサイトをはじめ沢山の人々がこの映画について語り、喧しいがその論点を整理すると実はその大半が、異口同音のことを述べているに過ぎないことが分かるだろう。

賞賛派:原作を忠実に映画化しており、原作ファンの期待を裏切らない仕上がりになっている。子役が上手い。キャストを含め原作のイメージを見事にビジュアライズする事に成功している。音楽・美術・特撮などが素晴らしい。特にクイディッチの試合の場面がスピード感があり迫力満点だった。

否定派・保留派:単なる原作のダイジェストに過ぎない。クリス・コロンバス監督の個性が感じられない。つまり作家性が乏しい。それにしても上映時間2時間半は長すぎる。それから音楽が五月蠅(うるさ)い。

突き詰めれば以上のようなことに意見が集約されるだろう。僕自身はこの映画を面白く観た。確かにジョン・ウイリアムズの音楽は少々鳴らし過ぎかな?とも想ったが(笑)、大好きだ。6度目のオスカー、期待大である。

この映画の成立の過程はどこか「風と共に去りぬ」を想い出す。原作が超ベストセラーで原作ファンの期待を裏切らないよう、入念なキャスティングと忠実な映像化がなされた。スカーレット、レット、メラニー、アシュレー、いずれもこの人達以外では現在は考えられない位、正にはまり役と言えよう。付け加えるなら、原作者が女性と言うことも両者の共通項である。「風と共に去りぬ」の上映時間は3時間半もある。それはあの膨大な原作を忠実に映像化するにはそれだけの時間が必要とされたのだ。誰もそれが「長すぎる」と非難する者などいない。

「風と共に去りぬ」に携わった脚本家は総勢20名余りと言われている。そのリストの中には「グレート・ギャツビー」の著者、スコット・フィッツジェラルドもいた。監督は最初ジョージ・キューカー(「ガス燈」「マイ・フェア・レディ」)で撮り始められた。しかし女優達ばかりに構っているとクラーク・ゲーブルからクレームが付いてキューカーは途中解雇。ビクター・フレミングが後を継いだ。それに女優達が反発し、特にビビアン・リーの反抗的態度に手を焼いたフレミングはとうとう体調を崩しこれまた降板してしまい、結局サム・ウッド(「誰が為に鐘は鳴る」)が映画を仕上げた。つまり「風と共に去りぬ」にはその成立過程からして「作家性」などあろう筈もないのである。だからこの作品は信じがたいことだが公開当時、映画評論家の評価は総じて低かった。アカデミ−賞こそ、プロデューサーのセルズニックが大金を投じた大キャンペーンを展開したお陰で受賞できたが、批評家協会賞などで高く評価されたののは「駅馬車」や「嵐が丘」など作家性の高い作品であった。

つまり「ハリー・ポッターと賢者の石」は英国を舞台に、英国俳優のみで撮影された作品であるが、その内実はまさしく伝統的な「ハリウッド大作文芸映画」のシステムで製作された映画なのである。自分を殺してひたすら原作者とそのファンに奉仕したクリス・コロンバスの方法論は潔く、あっぱれである。作家性が皆無である「風と共に去りぬ」がハリウッド映画の金字塔になった如く、「ハリポタ」シリーズも、21世紀を代表する作品として長く人々の心に刻まれることであろう。



2001年12月04日(火) ハリポタ旋風と松竹の逆襲

映画「ハリー・ポッターと賢者の石」(通称ハリポタ)が歴代の興行記録を塗り替えながらヒット街道を驀進中である。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことを言うのだろう。この猛烈な人気で配給をしている松竹の株価もうなぎ上りだとか。社員の鼻息も荒いだろう。

松竹は気の毒な会社である。自社製作の映画が長年の低迷。ドル箱だった「寅さん」シリーズも渥美清の突然の死去で打ち切りを余儀なくされた。大船撮影所も閉鎖された。それに追い討ちをかけたのが「ホーホケキョ となりの山田君」配給である。スタジオジブリの作品だったら絶対に当たる!という過信が致命傷になった。実は世間から絶大なる信頼感があり、着実ななヒットを飛ばしてきたのはジブリ作品ではなく、宮崎駿監督作品だったのである。同じジブリ作品でも宮崎アニメと高畑勲監督作品では全く質が異なる。高畑作品「となりの山田君」にしたところで、宮崎さんご自身が「何でこんな題材をアニメにしたがるのか僕にはさっぱり理解できない。」と公言して憚らなかった。そこに大いなる松竹の誤算があった。結局「となりの山田君」は制作費の約半分しか資金を回収できないという体たらく。「となりの山田君」の前後にジブリが製作した「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」は空前の大ヒットになったのに、それを配給したのは東宝だったのである。松竹は貧乏くじ(=高畑作品)を引かされたのだ。確かにその原因は会社自身がマーケティングの的確な分析能力と先見性に欠けていたことにあり、自業自得ではあるのだが。ちなみに筆者も宮崎さんには私淑しているが高畑アニメは大嫌いである。いつも「そんなちんけな物語は実写ですればいいじゃないか。アニメーションでリアリズムを追及してどうする。」と想ってしまうのだ。

「ハリー・ポッター」のヒットは既に「タイタニック」の記録を射程圏とし、「千と千尋の神隠し」の興行成績まで窺おうという位置にまで来ている。松竹の逆襲はこれから始まる。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]