エンターテイメント日誌

2001年04月28日(土) <チキンラン>と粘土仕掛けの落とし穴

「チキンラン」は「ウォレスとグルミット」で名高いアードマン・スタジオ(ニック・パーク監督)がスピルバーグ率いる映画会社ドリームワークスとタッグを組んだ超大作(!?)クレイ(粘土)アニメである。

僕は短編シリーズ「ウォレスとグルミット」はイギリスらしい皮肉とユーモアが効いた非常に優れた作品だと想う。3度米アカデミー短編アニメーション賞を受賞したのも納得だ。特に「危機一髪!」は傑作中の傑作。しかしながら「チキンラン」は所詮、いつものアードマン作品を単に上映時間84分という長尺に延長しただけに過ぎず、この長さでさえ多少退屈してしまった。だって要領よくまとめれば、30分で済むお話なんだもん。

最大の問題はシナリオの凡庸さだと想う。長時間観客を惹きつけるにはひねりが足りないのだ。映画「大脱走」や「第十七捕虜収容所」のパロディはなかなか愉しい。しかし、この作品を観るどれくらいの観客がそれらの作品を観ていて、面白がれるか甚だ疑問である。そして、それ以上のアイディアが欠如しているのが致命的と言えよう。

1800円もつぎ込んでこの映画を連休中に観るよりは、レンタル店で「ウォレスとグルミット」シリーズを借りてきて自宅でご覧になることをお勧めする。

余談 その1
田中康夫、長野知事がいつも胸に付けているぬいぐるみは「ウォレスとグルミット」のキャラクターである。「チキンラン」キャンペーンのため来日したニック・パーク監督は長野県の知事室までわざわざ表敬訪問したとか。田中知事は大喜びだったそうである(^^;。

余談 その2
「ウォレスとグルミット」DVDは、時間的に3話全てを1枚で収録できるのに、わざわざ1話ずつ1枚3300円で売っている。これを暴利と呼ばずして何と呼ぼう?大体以前は1枚4800円で売っていたんだなんて信じられる!?絶対に3話が1枚に収録されるまで購入しないぞ(^^;。




2001年04月21日(土) <地獄の黙示録>特別編とコッポラの誤算

今年のカンヌ映画祭でオリジナルより53分も長い「地獄の黙示録」(1979)特別編が上映され、順次世界で公開されるそうである。53分とコッポラの「誤算」。語呂が良いではないか(笑)。

「ゴッド・ファーザー」(PART1、2でいずれもアカデミー賞受賞)と「地獄の黙示録」(カンヌ映画祭グランプリ)で世界の頂点に立ったコッポラは、しかしその後、階段を転げ落ちるように低迷、迷走してゆく。全てスタジオで撮影する、夢のようなミュージカルを目指した意欲作「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)を僕は愛すべき小品だと想うのだが、興行的に惨敗。破格の制作費は勿論回収できるわけもなく、コッポラが新しく設立したゾーエトロープ・スタジオはあっけなく倒産する(コッポラは生涯3度破産しているそうである)。

その後の若者受けを狙った「アウトサイダー」は凡作。「コットン・クラブ」「ペギー・スーの結婚」「友よ、風に抱かれて」「ジャック」「レイン・メーカー」等、もう見る影もない無惨さであった。起死回生を賭けた「ゴッド・ファーザーPART3」は前2作の足元にも及ばない駄作で、こんな3作目ならかえってこの世に存在しない方が作品にとって幸せだったろうと想う。この時期の敢えて秀作と呼べるのは「ドラキュラ」(1992)くらいか。しかしこれにしたところで往年の才気と比較すべくもない。

そんなコッポラが久々(20年ぶり)に脚光を浴びたのが過去の作品の焼き直しだというのが情けない。ご冥福をお祈りする。合掌(あ、別にコッポラ監督は亡くなったわけではありませんよ。念のため(^^;)。

追伸:コッポラはカリフォルニア(ナパバレー)にワイナリーを経営していて、そこの生産する「フランシス・コッポラ ロッソ」「ニーボム・コッポラ クラレット」はなかなか美味しい。筆者愛飲のワインである(^^;。



2001年04月14日(土) <ハンニバル>

リドリー・スコット監督は「エイリアン」「ブレードランナー」「デュエリスト -決闘者-」を代表とする、スタイリッシュで確固たる絵作りで知られている。「ブラック・レイン」はありきたりの刑事物だが、見慣れた筈の大阪の風景がまるで未知のミステリアスな近未来都市のように見えたのはスコットの力量だろう。
「ハンニバル」も街そのものが美術品といえるフィレンツェを舞台に、スコットの美意識が画面の隅々にまで行き渡り、張り詰めたような緊張感が漲っている。光と影、そしてスモークを自在に操る彼のマジックを堪能できるだろう。オペラの場面の挿入も効果的で、荘厳なピカレスク・ロマンに花を添えている。最後、闇に包まれた湖に佇むクラリスを捉えた場面がワーグナーの楽劇「ローエングリーン」を彷彿とさせたのは偶然ではあるまい。ここにルッキノ・ビスコンティ監督の映画(「ルードウィヒ」「ベニスに死す」「地獄に落ちた勇者ども」)に近いものを感じた。

物語そのものは「レクター博士の優雅な生活」と評するのが適当だろう(笑)。知的なゲームを愉しむ感覚か。前作ほどの恐怖は無い。
話題のカニバリズムの場面も、「気持ち悪い」というよりは、むしろ表現が直截的で滑稽というか笑っちゃう。品が無いと言い換えても良いかもしれない。此処がこの作品の評価の分かれ目になるだろう。僕はこれはこれとして優れた映像作品として大いに愉しめたが。少なくともスコットの前作、知性を全く感じさせないマッチョマンの映画「グラディエーター」よりはよっぽど面白かった。



2001年04月06日(金) <初恋のきた道>

原題は「我的父親母親」。中国映画である。

大林宣彦監督は映画を撮るとき、ヒロインの少女に監督自らが恋することが出来るかどうかが、映画の成功にとって非常に重要な鍵を握っていると語っておられる。そしてそういう時には必ず少女が監督の夢の中に登場するそうだ。この映画を撮影中に、チャン・イーモウ監督の夢の中にもヒロインのチャン・ツィイーが夜毎に出てきたに違いない。

物語は極めて単純なメロドラマである。父親が死に、山村の郷里に帰郷した息子が昔の母と父の出会いとその恋愛の過程を辿るという、ただそれだけである。しかしまさかこの映画であれだけ魂が揺さぶられ、涙を搾り取られるとは想ってもみなかった。余りに感動したので翌日また観に行ったのだが、前日以上にまたボロボロに泣いてしまった。隣に座っていた男の人も3回ティッシュを出して涙を拭っていたのを僕は見逃しはしなかった(笑)。劇場が涙で包まれたのは決して悲しいからではない。余りにもツィイーが可憐で、その笑顔が切ないまでに愛おしいからだ。そしてお下げ髪を揺らしながらちょこちょこ走る姿の可愛らしさときたら、もう堪らない。この映画ではスローモーションが多用され、そしてなんとツィイーのクローズ・アップ・ショットが多いことだろう!まるで彼女の為のプロモーション・ビデオである。しかしそれも無理もない、いや、必然であった と納得せざるを得ない。彼女がこの世に生を受けたというのは20世紀の奇跡と讃えても言い過ぎではないだろう。その存在そのものがミロのビーナスに匹敵する芸術作品であると評したら、ツィイーに対して失礼だろうか?(これは決して「ビーナスに対して失礼だろうか」の書き間違いではない)

映画は「タイタニック」のポスターが貼られた現代から始まり40年前の過去に遡る。現在の場面がモノクロームで過去がカラーという手法は「ジョニーは戦場へ行った」でも見られた。しかし、「ジョニー…」の場合、想い出こそが現実よりも輝いているというコンセプトでそうなったのとは異なり、本作の場合、全てチャン・ツィイーの魅力をより引き立たせるためだけに奉仕されているに過ぎない(笑)。映画は後半、またモノクロームの現代に戻るのだが、それからの場面が長いのだ。しかし、それを観ながら僕は「だが必ず、映画のラスト・カットは再びカラーになってチャン・ツィイーを捉えたショットで終わる筈だ。いやそうならねばならない。」と心の中で確信した。その僕の予感が的中したのかどうかは、これを読まれている貴方ご自身が劇場でご確認下さい。

また、撮影の美しさも特記せねばなるまい。黄金色に輝く麦畑、紅葉の白樺の林、丘陵に続く一本道。その自然描写が素晴らしい。そしてそれはヒロインの心象風景ともなり、彼女の心に不安が横切ると、突然冷たい風が吹き、林が騒ぎ、燦々と照っていた筈の太陽光が翳るという具合である。イーモウ監督のデビュ−作「紅いコーリャン」でも赤が鮮烈な印象を残したが、ヒロインの服の赤、そして彼女が織る布の赤がこの映画を観た全ての観客の心に永遠に深く刻み込まれることであろう。それにしても機織り機の無数の赤い糸を透かして捉えたツィイーのショットの、息を飲むばかりに何と美しいことであろうか!


 < 過去の日誌  総目次  未来 >


↑エンピツ投票ボタン
押せばコメントの続きが読めます

My追加
雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]