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人一倍の喜び。

人が当たり前に出来る事が、出来た時。
感じる喜びは普通の人の何倍もの大きさ。
病気になって得たものは、こういう喜びを感じる心。
2004年11月09日(火)

逢いたくて逢いたくて・・・。

自分が大事にしているものほど、遠ざけてしまう事がある。
大事だから、無くしたくないから、近づかないという矛盾。
それには手を触れずに、そっとしておきたい。
手に入れてしまったら、いつか手放すときが来てしまう。
だったら見ているだけで、それだけで幸せ。

大切にしすぎて、実際に手に触れたらきっと嬉しくて、
テンションが上がりまくって、具合が悪くなってしまうかも。
逢いたい人がいても、一歩が踏み出せない自分への言い訳。

どうして素直になれないんだろう。
まっすぐ近づいていく事が出来ないんだろう。

木の陰に隠れて様子を見て、次の木まで走る。
またその影から周囲をうかがい、また次の木まで。
そうやってくねくねとした道をたどってしか、ゴールへ向かえない。
不器用すぎるね。
2004年11月07日(日)

変化の兆候。

今年の秋は、私にとって大転機の秋だった。
今まで自分が信じていた価値観が変わった。
自分にはないと思っていた感覚に気付いた。

最近友達に『変わってきたんじゃない?』と言われた。
そう言われて、いやその前から、
自分の変化に何となく気付いていた、と思う。

到底叶わない願いは、最初から願わなかった。
叶わないと分かった時の悲しみを避けたくて。
でも、その願いを叶わないと決めたのは誰だろう。
そう、それは私だったんだ。

この土地に暮らし、今の仕事を続け、今の日常を続ける。

それを変えることなど出来ないと思っていた。
『引っ越す』
『転職する』
『生活を変える』『生活が変わる』
足かせはたくさんある。

今のままこの都会で暮らしていく事は、
私たち夫婦には難しいのかもしれない。
そんな事をぼんやり考えるようになっていた。
でも、それはそれ。そのままに置いてあった。

『今の仕事を辞めて、もっとのんびり暮らす。』
『子供が出来たら、田舎に帰って育てたい。』
『時間を、毎日を味わいながら暮らしたい。』

夫婦2人で、そんな会話をするようになっている。
もちろん、今すぐにどうしようとか具体的な話をしているのではない。
でも、今までは見ない振りをして口にも出さなかった願い、
その願いの存在を『認めた』という事が大きいのだと思う。

その願いは、確かにそこに存在する。

これからどう状況が変化していくのか。
流れに任せてみよう。

『実家の両親に『田舎に帰って住む。』と言ったら、
怒りまくって大変な事になるだろうねぇ・・・。』
私が笑いながら言った言葉。

そしてこの言葉は、以前だったら決して許されないと思い、
最初から口にすることすら考えていなかった言葉。

でも今は、いつかこの言葉を口にする時が来るかもしれないなと思ってる。
そして、暴れる両親の姿を落ち着いて見守る事が出来るかもと。
また、もしかしたら両親が反対しないんじゃないかとまで、
今の私が思えているという事が、すごい事だと思ってる。

状況は変化していく、流れていく。
と思っている自分がいる。
2004年11月05日(金)

張り合う気持ち、受容、変化。(後編)

そうやって突っ走って来た結果、身体を壊してしまう事もある。
病気をして初めてそれに気付くきっかけを得るのだ。
その人にとっては、その病気は必要だったのだ。
病気は辛いけれども、すごく良いチャンスを与えられたのだ。
自分をいたわるのがいかに大切か、気付くチャンスなのだ。
中には、倒れてもまだ頑張り続けようとする人がいる。
こんなはずじゃなかったと、後悔と焦りの念に囚われて。
そういう人を見ていると、ほんとうに辛い。
でも、周囲がなんと言おうとも本人はそれに気付かない。
自分がどれだけ心身を痛め付けているかを。
でも、そうやって走り続けていなければ不安になってしまう原因が、
その人の中に癒されないまま、解決されないままある限りは、
それを続けてしまうのが当然だと思う。
それを止める事の方が、その人にとってとても辛いのだから。
止めることが、楽になることなんだと気付くまでは。


それは仕方がない。
『気付き』はその人に一番いいタイミングで起きる。
その人には、まだそのタイミングが来ていないのだろう。
本当に今までの信念を根底からくつがえされるほどの事が起きない限り、
その人は今までの思考のパターンから抜け出す事は出来ない。
一度、自分の価値観をひっくり返されなければ変わらないだろう。
今まで自分のやっていた事が間違ってたんだ!と。
それに気付いた時のショックは並々ならぬものだし、
今まで信じて来たアイデンティティも危うくなるかもしれない。
でも、そこまで行ってやっと変われる。
それまでは、辛いながらも自分はなんとかやれているという幻想に、
支配されたまま同じ生活を繰り返していく。
頭では変わらなくちゃと思っているけれども、
その変わらなくちゃは文字面だけのことであり感情は伴っていない。

先日学園物のドラマを見ていて思った。
どうしようもなくバラバラですさんでいたクラスが、
学園祭の出し物をやり遂げた事で変わって行くという話。
その中で、クラスで最も反抗的で問題がありそうな生徒が、
学園祭終了後に泣いていた。素直な感情をあらわにしていた。
ドラマだから大げさに描かれている部分もあるかもしれない。
しかし、私は有り得ない話ではないと思った。

彼は、今までに体験した事のないような経験をしたのだ。
必死に練習して、力いっぱい踊り、やり遂げて、成果も感じられた。
彼にとっては、今まで自分が生きてきた世界観が変わるほどの出来事だったのかもしれない。
そんな経験をしたなら、人間はいとも容易く変われるのだと思う。

それまでのその生徒のキャラクターが、強烈に生意気だったため、
その生徒の変化を好意的に見れない雰囲気があるのかもしれない。
でもその彼もまた、仕事が忙しくてまったく子供に目を向けない、
そんな親に育てられた、寂しい子供なのだ。
その寂しさや虚しさの裏返しが、あの反抗的な態度になっていたのだろう。
相変わらず、とてもよく考えられた脚本だと思った。

人は持っている傷のパターンで、現れてくる性格や行動は驚くほど似通ってくる。
そういう事もちゃんと分かった上での脚本なのではないだろうか。

私は、自分自身が今感じている事を大事にしたい。
今、これをやっている事が楽しいのか、嬉しいのか。
自分は幸せを感じているのか。
幸せの判断基準は自分の中にある。
『年収1000万円以上が幸せだ。』と聞かされても、
年収300万円の自分が幸せならそれで良い。
都心に1軒家を持ってなくても、田舎暮らしがしたいならそれでいい。
表面からしか見えない他人の幸せをねたんで、
目の前にある幸せに気付かないなんて悲しい。
自分が良いと思えればそれでいい。他人の評価なんて関係ない。

人と張り合う事で満足できるような幸せはいらない。
夫婦間の関係でも同じことが言える。
夫婦がお互いにライバルになってしまうとうまく行かない。
相手を尊重しつつ、自分の事も大切にする。
自分が出来ない事をひがまない、ねたまない。
人間関係は、どっちが偉いかどうかで決まるものではない。

自分とまったく違う境遇にいても友達。相手が社長で自分が無職でも友達。
違うからこそ面白いんじゃないかとも思う。
でも、そう考えられるようになるためには、
そう思えない自分の心の問題を片付けなくてはいけない。
人を認められないということは、そこに自分の傷がある。
痛いから触りたくない、見たくないという事なのだ。

たとえばある相手を嫌いだとか腹が立つと思った時。
そう思う原因は相手にあるのではなく、自分の中の傷にある。
その傷がなんであるかに気付き、ちゃんと癒せていれば、
その相手を見ても腹が立ったりしないのだ。
だから私は、自分の感情をかき乱す相手に会うとチャンスだと思う。
それを見つめる事で自分の中の問題点がまた一つ明らかになるかもしれないと。


私は既婚、パニック障害。友人は未婚、健康。
お互いそれぞれ忙しいし、境遇も違うけれど10年来の友人だ。
会いたいと思えばどうにでもなるし、たとえ会えなくても友情は続く。
うまくいかなくなった時もあった。
でも友人の存在を大切だと感じているから続いて来たのではないかと思う。
2004年11月03日(水)

張り合う気持ち、受容、変化。(前編)

仕事とか収入とか家柄とか家庭環境とか。
人は、様々な事に関してどちらが上か下かを決めたがる。
自分が相手より上だと分かるとホッとして、その逆だと焦る。

私には上昇志向がない。
出世したいとか、お金持ちになりたいとか。
そりゃあ、貧乏よりはお金があった方がいいよなぁと思うことはあるけど、
だからと言って、身を粉にして働いたり他人を蹴落としてやろうとか、
そういう社会の競争には、とんと縁のない人間だ。
だから今、こんなにちゃらんぽらんな生活を送っているのだろう。

大体、自分が幸せになるという事に関して他人に基準を置いていない。
誰かの幸せが、そのまま別の誰かの幸せと一致するとも思っていない。

自分が今幸せかという事を考える時、その基準は自分自身の中にある。
自分が幸せなのか、いい仕事を出来ているのか、楽しく過ごせているのか。

例えばメディアが、
『夫の年収1000万円以上で、都心にマイホームを持ち、
子供は2人いて私立の学校に通っている。
妻は習い事をして趣味を楽しみ、月に1回はホームパーティー。
こんな家庭を『幸せな家庭』と呼ぶ。』
なんて書いていたとする。

人の心というのは弱いもので、『これが絵に描いたような幸せだ!!』
とバーンと突きつけられてしまうと、ついそれを信じてしまう。
そして、この条件を満たしていない事に対して焦りを覚える。
必死になってこの幸せの図を自分の家庭にも作り上げようとする。
収入の少ない夫にイライラしたり、自分の思うようにならない子供に腹を立てたり、
毎日忙しく余裕のない生活を送っている自分自身に嫌気が差してしまったり。
基準を自分の外に置くと、それに振り回され現実が見えなくなってしまうものだ。
こんなメディアの文章を読む前までは、
平穏でそれなりに幸せに過ごせていたのかもしれないのに


私もいわゆる『世間一般』というものに振り回されそうな時が確かにある。
この歳で子供もいないなんてとか、貯金もなくて貧乏とか。
これでいいのかなぁと心配になったりする。
普通はOLの頃から貯金して、20代で結婚して子供を産んで、
30代で家を買って・・・。
そういうラインから完全に脱線している自分。大丈夫なのだろうか、と。

でも今それを考えたって、もう20代には戻れない。
第一、もし万が一戻れたとしてもきっと、
私はこんなモデルケースとは違う生き方をしているだろう。
だってそれが私なのだから。
その時その時の自分と相談して、出した結論を元に生きてきたんだから。
あの時ああしていればよかったなんて考えてもしょうがない。
あの時の私は、ああ選択するしかなかったんだ。
過去の自分、自分なりに一生懸命やってきた私を否定するのは止めよう。
そう思えてきた頃から、少しずつ生きるのが楽になった。


友人の職場での話を聞いた。その友人は、電話受付の仕事をしている。
顧客の問い合わせに答える仕事。
売り上げのノルマとか、アポを取るとかいう事はない。
必要なのは、しっかりした知識を持って、顧客の質問に的確に答える事だ。
かなり専門的な知識も要求される。

そういった仕事での喜びや充実感の感じ方について、
社員のタイプがけっこうはっきりと分かれるらしい。
友人は、『顧客とのコミュニケーションがうまく取れた。』とか、
『必要としている情報をちゃんと与えられて、顧客が満足してくれた。』
と感じた時に、喜びや充実感を感じるという。

ところがまた別のタイプの人は、
『短時間で必要な情報を提供できた。』とか、
『1日に、何本電話をさばくことが出来たか。』
という事に喜びや達成感を感じているらしい。

前者の喜びは、心では感じるが目には見えないもの。
後者の喜びは、目に見える形で、他人からの評価も受けやすいもの。
両者には大きな違いがあるように思える。

後者のような人でも、本当に心からノルマ達成が嬉しくて、
それを楽しみながら出来ている人なら、
それはその人なりの楽しみ方なんだから良いと思う。
きっと、そういう人がノルマ達成をして喜んでいる姿は、
傍から見ていても、気持ちの良いものに違いない。

ところが、友人いわく、そして私もそう感じるのだが、
後者のタイプの人には、余裕のない人が多い。
ノルマを達成しても、満足感を感じているようには見えない。
いつも不安で、焦っているように見える。
いくらノルマを達成しても、その事で周囲から認められようとも、
その人は安心感を得る事は出来ない。
一つの目標を達成したら、もう次の目標を探して、
またそれに向かってひたすら突っ走っていくだけ。
見ていてとても辛い光景だ。

自分が満足をしたと心から思えていないから。
自分の幸せが何かを感じられていないから。
だからいくら他者からほめられても、不安なまま。
これでいいのか分からなくて、どこまでやればいいのか分からなくて、
いつも何かを渇望している、カツカツ生きている。
そしてある時燃え尽きて、身体を壊してから気付く。
自分がどれだけ無理をしていたかを。
心と身体に鞭打って、働いてきたかを。

・・・後編へ続く・・・
2004年11月02日(火)

1人で戦う。でも1人じゃない。

パニック障害の発作が起きた時。

その真っ只中にいる時、
話し掛けられたり、心配されたり。
こうしたら良くなるんじゃないかとアドバイスを受けたり。
それはとてもありがたい事だけど、実はかえって辛い。

発作が起きている時には、しゃべる事は出来ない。
息をするのも苦しい。苦しいから呼吸する。過呼吸になる。
話し掛けられても、答えるのは無理。
しゃべろうとすると、余計にひどくなる事もある。

横になってみたらとか、飲み物を飲んでみたらとか。
音楽を聞いて気を紛らわせてみたらとか、
しゃべってたら気分が変わるかもしれないとか。
そういう事を言われても、その通りには出来ない。
自分が『これなら大丈夫かも。』と思えること意外は受け入れられない。

発作の最中は、頭の中に不安感が渦を巻いている。
その渦の中に巻き込まれまいと、必死で戦っている。
今にも死んでしまいそうな、どうにかなってしまいそうな気持ち。

薬を飲んでも、病院へ行っても、点滴をしても、
何をやっても治らないんじゃないかと思えてくる。
この先どうなってしまうんだろうという恐怖感も襲う。
とても疲れて、だるくて、気力が奪われ、
生きていく事がかったるく、うんざりとした気分になる。

不安の波を、なんとかやりすごそうと必死なこの時、
何も言わず、何も聞かず、ただ放っておいてもらいたい。
でも、1人っきりでは耐えられない。
だから、側にいて欲しい。

10年位前、2泊3日の旅行の1日目に発作を起こした。
それから旅行の間ずっと、発作続いていた。
当時は病院にも行っておらず、薬も持っていなかった。
帰りの新幹線の中で、発作はピークになってしまった。

怖くて苦しくて仕方がない。
でもしゃべる事は出来ない。でも黙っているのも辛い。
私は旦那(当時は彼)に頼んだ。
『返事は出来ないけど、何かしゃべってて欲しい。』
旦那は、私の負担にならないようなたわいもない話をずーっとしてくれていた。

この時の旦那は、話し相手ではなかった。
私は、ラジオや音楽のような役割を旦那に求めた。
ほんとに申し訳なかったな〜と思うけど、
その時はそうしてもらう事が、一番のヘルプだった。
PDになった事のない人にとっては、きっと理解しがたい要求だったろう。
何のために?これが何になるの?と。
でも詳しい事は何も聞かず、
そんな頼みを引き受けてくれた旦那に感謝している。

何とか家までたどり着いて、それまでは家に帰ればほっとして治っていたけど、
その時は発作がひどく、継続時間も長かったのですぐには復活できなかった。

発作との戦いは、とても孤独。結局は自分との戦いになる。
でもその辛い戦いを続けられるのも、側にいてくれる人がいるから。
その存在はとても大きい。
何もしてくれなくてもいい、ただ見守ってくれていればいい。

だから、1人であって1人じゃない。
孤独じゃないから、孤独な戦いを続けられる。
矛盾しているように思えるけど、そういうことだと思う。
2004年11月01日(月)



ひとりぶつぶつ。 / quartz うぃんちゃんのぺーじ
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