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夢の図書館新館

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-- 2008年04月21日(月) --

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『戦艦大和ノ最期』

大和が沈んだのは、桜の散る季節だったと知った。彼らがどこでいつ、どのようにして戦ったか、ほとんど知らないままに歳を重ね、今にして。ヒロシマやアウシュヴィッツの状況は幼少時から刷り込まれているというのにである。

本書を手にしたきっかけは、ある歴史研究家に教えられたエピソードによる。著者の吉田満は、大和の特攻作戦から生還した後、短い期間ではあったが、高知の須崎にあった回転特攻基地(レーダーも備えていた)の隊長を務めた。そこで終戦を迎えたとき、地元民は隊長(弱冠21歳)の身を案じて、戦犯裁判が落ち着くまで、もう少しだけここにいるように頼んだという。ちょうど先生がいない学校があるので、それを口実にと。大和で副電測士を務めた東大(旧帝大)出の海軍少尉(後に中尉)が、地元の人たちに厚く信頼されていたことをうかがわせる話である。

すでに起こってしまった歴史の事実に、「もし」は通じないとわかっていても、天命がなければ、この状況を生き残ることは難しい。『夜と霧』の著者フランクルがそうであったように。吉田満は大和に乗り組み、副電測士という、俯瞰するごとく全体が把握できる立場を与えられた。自身で詳細に記した戦闘の実録からも、いかに危機的な状況をかいくぐって命が守られたかが読み取れる。それはとうてい個人の技量や偶然とは思われない。彼の背後に連なる見えない力の加護、戦争の愚と戦場の真実を世に伝える天命を帯びた者への配慮。

それにしても、皆若い。「仮に」大和の軍団がアメリカをしのぐレーダーと武器を搭載していても、この士官たちの経験不足は補えない。現在の若者とは成熟度が違うといくら言っても、歴戦を戦ってきた幹部たちの目にどう映っただろうか。40才で老兵と言われる兵達の目に、どう映っただろうか。そして、護衛艦9隻の名前が、強さとは無縁の美しい言葉を充てられていること、米軍にも不可解ではなかったか。海軍には一等駆逐艦の名を天象気象用語から取るという基準があったおかげで、軽巡洋艦の矢矧(川の名)はともかく、冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、霞、初霜という命名は、あまりにも弱々しい。あの「イージス」が、戦いの女神アテナの楯によることを思わずにいられない。

ついつい話がそれてしまう。本土決戦の砦と言われた硫黄島は2月23日に陥落していた。しかし、まだ不沈戦艦大和は生き残っていた。そのような末期的状況で、桜咲く3月29日、大和と護衛艦は呉を出航する。4月7日、午後の2時間余りの戦闘で、大和撃沈。米軍機乗員の戦死は14名、負傷は4名であったと、『ドキュメント戦艦大和』(吉田満・原勝洋共著)に報告されている。

その大和に、曇らぬ目と抜群の記憶力で、打算なく状況を書き起こすことのできる人物が乗っていたこと。大和に従軍記者がいるはずはなかった。アメリカには作戦行動が筒抜けであったといっても、後世になって現場の詳細な記録を公開することは、当時誰も考えていなかったはずである。戦没者の鎮魂のみならず、日本の行く末を憂う、見えざる配剤と思わされる。吉田満が大和の闘いを記そうとしたとき、胸の内からわき出たのは文語体であったという。『戦艦大和ノ最期』は、このように結ばれている。

徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」撃沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

吉田満は復員後、日銀の重役となって戦後の日本経済を建て直す一助となった。1979年、56歳で病没。(マーズ)


『戦艦大和ノ最期』著者:吉田 満 / 出版社:講談社文芸文庫1994

2005年04月21日(木) 『SORTIE ソルティ』
2003年04月21日(月) 「児童文学最終講義」(その1)

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