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五十歩百歩の奪い合い - 2003年06月10日(火)
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絶え間なく啀み合ってみても僕等は五十歩百歩
幸せ示す道標はない いつの日にかその手で奪い取れ
          Mr.Children「傘の下の君に告ぐ」
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思えばこの曲を聴くときはいつもなにがしかの問題を抱えている。

ココロが弱っている時は、紙一重で自分のココロの中の一番凶暴な部分が現れてくる。
その時たいていBGMで流れるのがこの曲のこの部分と中間の乱暴なソプラノサックスのソロ。

表には「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物」(「名もなき詩」)
っていうキモチがあるんだけど、
その薄い表皮をめくると剥き出しになるのがこのフレイズなのだ。

こういう状態の時には「与える」ような優しい自分なんていないし、
そもそもここは愛が「気が付けばそこにある」ようなユートピアでもない。
あるのは<五十歩百歩の奪い合い>だけ。

でも僕はこのフレイズが意外と、いや、相当好きである。
「諦観→停止」じゃなくて「諦観→前進」だから。
どうしようもない日々かもしれないけど、
あてもない日々かもしれないけど、
それでもがむしゃらに突き進んで、
(おそらくいくばくかの何かを傷つけて)
そして「幸せ」をこの手で奪い取る。

もちろんちょっと悲しい気もする。
幸せを奪い取るものと考えていること。
つまり、ここでは幸せはゼロサムなのだ。
そんなことはないじゃないか、とも思う。
幸せはむしろ僕らが創り出せるもので、プラスサムなんじゃないかと。

それは確かにそうかもしれなくて、
というよりそうであるべきなのかもしれないと思うんだけど、
でもやっぱりゼロサムの幸せがこの世には結構たくさんあって、
そんな種類の(つまり人を傷つけてまで奪い取らねばならない種類の)幸せなんていらないよ、
としらっと言い切ることが僕にはできない。

嫉妬、ねたみ、ひがみ、劣等感。
こういう種類の感情っていうのはおそらくゼロサムゲームの中から生まれてくるもので、
神妙に告白するまでもなく僕はそういう感情と縁を切れない、
というかそういう感情のカタマリである。

そこで、ただの開き直りになってしまうんだけど、
「幸せ示す道標はない いつの日にかその手で奪い取れ」っていうフレイズは、
欠陥だらけの自分を肯定しつつ前進することを認めてくれるという意味で、
僕にとっては<生きることの宣言>みたいに思えるのである。

僕は欠陥だらけで相当ダメな人間だけど、
それでもなんとか精一杯生ききりたいわけであって、
やはり前に進むことを止めるわけには行かないのだ。


 「それにもかかわらず!」と言い切ることのできる人間。
          マックス・ウェーバー『職業としての政治』

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 マエ    ツギ    モクジ



∴オキニイリニツイカ∵
























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