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サスケについて考えよう - 2003年04月15日(火)
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<今日の覆面レスラー>
みちのくプロレス主宰の覆面レスラー、グレート・サスケが、 岩手県議会議員選挙でトップ当選し、議会にマスクを着けたまま出るか否かでもめています。 はっきり言ってクダラナイです。 けれど、少し面白いことに気付いたので書こうと思います。
サスケが覆面をつけたまま議会に出ることに批判的な人々にその理由を聞いてみると、 だいたい以下の3通りに分かれるようです。
1) 「有権者に表情が見せられないようではいけない」 (岩手県知事ほか)
これが、3タイプの中では相対的に最もマシな理由です。 まあ、あくまでも「相対的に」であって、ほとんど説得力ゼロですけど。
かつて、議場での政治家の表情を注視することでその政治家の仕事を評価する人が、どれだけいる(た)でしょうか? 覆面をかぶっていないのに、あたかもかぶっているように表情一つ変えずウソをつけるような政治家もいらっしゃいます。
知事様は、政治家が行う苦渋の決断や喜びの表現が覆面によって隠される、 というような意味のことを仰っていました。 彼はどうやら総合的判断・認識・認知の能力が少し欠落しておられるようです。 それらのことを表現するシグナルは、顔の表情以外にもいくらでもございます。
あたりまえですが、覆面だけでウソや不正が暴かれるのを防ぐことはできません。 覆面をしていなければウソをついたり不正を行うことができないとも言えません。
覆面で「表情が見えない」ことによって、果たして有権者にどれだけのデメリットがあるのでしょうか?
2) 「神聖な議場に覆面をつけて入るとは」 「議会の品位がおとしめられる」 (自民党岩手県連ほか)
これは、僕の大嫌いな理由です。 こういうことを平気でのたまわれる政治家諸賢殿の良識を疑います。 特に前者。 どうして議会が「神聖」な場なんですかね? くだらない連想かもしれませんが、大日本帝国憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を思い出してしまいます。 議場は庶民や女子供が近づける場所ではない。 (特に月経という血の穢れがある女は入ることを許されない!) 「品位」ある選ばれた一握りの者だけの「聖域」なのである、ってことですかね?
議会は、議場は、断じて特別な場ではありません。あるべきではありません。
僕はわりかし本気で、議場を、 議会で使っていないときは住民が会議室として利用したり、 近所の子供たちがかくれんぼや鬼ごっこのフィールドにしたりするような、 物理的に「開かれた」場にするのがいいと思っています。 政治は何かいかがわしく、密室で行われるもので、我々には関係がない、 という政治に対する心理的な距離は、物理的距離を縮めることから、徐々に縮めていけるのではないかと思うからです。 それなのに、当の議員様が「議場は神聖な場」などとのたまうのは非常に残念です。 閉ざされた神聖な場で隠密に政治を行う方が都合のよい方々が沢山いらっしゃるのでしょう。
仮に、「神聖」なることばを上に述べたような意味で使ったわけではない、というのであれば、 一体どのような意味で使われたのか、きちんと説明していただきたいものです。 無意識に「神聖」なんて言葉を振りかざされることほど危険なことはありませんから。
後者の「品位」云々の方には、今さら言う言葉もありません。 背広とネクタイを着用した「品位」の無い方々がどれだけはびこっていることか! 「服装」は品位の一つの決定要因かもしれませんが、全てではありません。 そして、それよりももっと重要な決定要因がいくらでもあるはずです。
3) 「覆面で議会に出席するなんて考えられない」 「なんかイヤ」 (街の年寄りほか)
こういう意見を出す人を、僕は理解できませんし、その気持ちも分かりません。 しかし、仕方ないだろうな、とは思います。 それは、こういう意見があくまで主観的で、自分の好き嫌いの感情に根ざしているからです。
実は、1や2の意見をタテマエとして出している連中も、 腹の中にあるホンネの理由は、3なのではないかと思います。
と、ここで、僕は興味深いことに気付きました。 1や2の理由を掲げる連中というのは、実は、 13日付の日記「言葉について考えよう」の中で述べた、 「乱れた日本語」論を振りかざす人間と、構造が同じなのです。 つまり、自分の主観的意見にすぎないものを、客観的・普遍的な概念・価値によって粉飾し、 「主観の責任」から逃れようとする卑怯さが、彼らにも同じように見られるのです。
人が「覆面で議会に出席するなんて常識的に考えられない!」と言った場合、 その「常識」に納得できない人たちが、どうして考えられないのか、その理由はどこにあるのかを問い、 両者が話し合う中で、「常識」と「常識」がぶつかり合い、新たな「常識」が弁証法的に創造される可能性があります。
しかし、「神聖な議場」「議会の品位」などというもっともらしい言葉が発せられたとき、 そこにそれ以上の議論の発展は望めません。 なにしろ、それを発した人間は、それらのもっともらしい言葉を普遍的なものとして、 そこで自分の思考を停止させてしまっているのです。 おそらくこういう言葉の裏に逃げ込んだ連中に対して「神聖」「品位」なる言葉の意味を聞いても、 返ってくるのは「神聖なんだから神聖なんだ」「品位ってのは品位だよ」といった感じの 「竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたのだ」的なトートロジーだけでしょう。 それもそのはず、彼らは深く考えるために理由を挙げたのではなく、 考えない、議論しないでよくするために、逃げ出すために理由を挙げているからです。 (しかも質が悪いのは、ここには「逃げ出しながら攻撃する」という卑怯さがあることです) ここには水掛け論以上のものは生まれません。
自分の主観以外の客観的・普遍的価値にすがることは容易です。 そしてそれは、自分をその価値と同一化させることによって、自分が「大きくなった」という妄想をも抱かせるため、 しばしば心地の良い選択肢となりがちです。
しかし、本当にそれでよいのでしょうか? 我々は、自分の主観をもっと大切にし、当然それに責任を持ち、 自分の主観を他の人々の主観とぶつけることで、新しく何かを創造し続けなければならないのではないでしょうか。
まして、「政治家」というのはそれが強く求められる職業のはずです。 そういう人たちが「主観の責任」を放棄することほどナサケナイものはなく、 人々を不幸にすることはありません。
++++++ おまけ:サスケが示した妥協案 より露出度の高いマスクを新調、そして、おでこの部分に品位の「品」と入れる。
これ最高。 「品位品位」ぬかすオッサンたちをちょっと小馬鹿にしすぎだけどね(笑)。 ++++++
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