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言葉について考えよう - 2003年04月13日(日)
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<今日の投書批判>
語学講座の目的は? 教育テレビの新年度の語学講座をひととおり見た。どの番組も、アシスタントとして新進の女優やモデルを起用し、目玉としているが、彼女たちの粗雑な日本語は聞くに堪えない。所かまわず「イエーイ」と叫んだり、「それでぇ、だからぁ」と語尾が伸びたり上がったり。30分聞いて神経がどっと疲れ、語学の学習どころではなかった。テレビだから見た目楽しくという趣旨なのかもしれないが、ショーアップよりも番組本来の目的を忘れないでほしい。そして、母国語も大切にしよう。 (東京都・斎藤すみこ・パート・38歳)
【朝日新聞、2003年4月17日 朝刊】 ++++++
まあ、いかにもありそうなヒハン投書です。 すみこちゃんの論点は2つですね。 1)アシスタントの若い娘たちの日本語が「粗雑で」「大切に」されていない。 2)語学講座が「本来の目的を忘れ」、「ショーアップ」に走っている。
まず第2点から考えてみましょう。 僕もフランス語とハングルの講座を見ていますが、 僕には、「番組本来の目的」=語学学習が忘れられているようには思えません。 どちらの番組も、必要なことはしっかり教えているし、 興味を失わせないようにその国の文化紹介をしたり、歌を入れたり、 講師におもろいキャラの人を選んだりと、いろいろ工夫がされています。 語学講座としては、教えるべきことはきちんと教えていると思います。
そもそもすみこちゃんのヒハンの前提には、 「ショーアップ」と「本来の目的」は両立しない、という考えがあるようですが、 そんなことは全くないんじゃないでしょうかね。 「ショーアップ」された番組の中で楽しく語学を勉強する、という行き方は絶対にあるはずです。 まあ、すみこちゃんには無いのかもしれないですけど。 だったらより硬派なラジオ講座をおすすめします。
こう考えてみると、今や、別々に思えたすみこちゃんの2つの論点が、1つに収斂するわけです。
3)語学講座を「ショーアップ」するためにアシスタントとして使われている「新進の女優やモデル」の「粗雑な日本語」が「聞くに堪えない」から気にくわない。あんな「母国語を大切にし」ない連中は追い出せ!
「乱れた日本語」論。 結局ここに行き着くというわけですね。 (すみこちゃんは「粗雑な日本語」と言ってますが、本質的な意味はそう違わないでしょう)
「乱れた日本語」論で僕が一番嫌いなのは、 「自分の耳に心地の良い、慣れた言葉」と一般的な「日本語」を区別しない、 あるいは意図的に両者を混同するという姿勢です。
「母国語を大切にしよう」というすみこちゃんの言葉は、この文章の文脈から判断すれば、 私の「神経がどっと疲れ」るような「聞くに堪えない」日本語を使わないでくれ、というのと同義になりましょう。 つまり、「私にとって心地の良い日本語でしゃべれ」という主観的な意見なわけです。 それを、「母国語を大切にしよう」などといういかにも普遍的で客観的な主張にすり替えている。 はっきり言って卑怯ですね。 あるいはすみこちゃんがこのすり替えを意図的にやっていないのだとしたら、見識を疑います。 言葉は常に生み出され、作り替えられていくものである、 「日本語」なるスタティックな存在は観念の世界にしか存在し得ない、という当たり前のことすら知らない38歳として。
「その言葉、好きじゃない」というのはフェアです。 それは自分の主観をストレイトに表現しているからです。 自分の主観を表現することは、自分の主観に責任を持つ(持たされる)ことに直結します。 それに対して、「その言葉は乱れた日本語だ」といって他人の言葉を排撃するのは本当に卑怯です。 自分の主観をあたかも客観的基準に照らして普遍のものであるかのように主張しているからです。 「日本語が乱れている」と人がいうとき、彼/彼女は「プチ権威者」となって、 「乱れた日本語」を使う人を見下ろし、審判をくだす気分になっています。 まったく厚顔無恥で恥ずかしいことです。 「乱れた」とはある望ましい状態からの逸脱を示す形容詞ですから、 そこにはかならず「正しい」=望ましい状態という基準点が存在します。 プチ権威者たちにとっての「正しい日本語」とは「自分が使っている、あるいは自分が正しいと思っている日本語」であり、 それは「権威」的でも普遍的でも客観的でもなんでもない。 あるのは主観的な判断だけなのです。 しかし「権威者」ぶって「日本語」なる幻想的な正統化概念を振りかざすことによって、 その背後にある主観的な好悪の感情が包み隠され、その人間の「主観の責任」が回避されてしまうのです。 本当に卑怯です。
それから、もう一つ気になるのはすみこちゃんがわざわざ「母国語」なる言葉を使っていること。 多分、語学講座の「外国語」との対照でなんとなく「母国語」って言ったんだろうけど、 実はこの「母国語」って、使い方を注意すべき言葉で、すみこちゃんはそのことを知らなかったのでしょう。
ある言語学者が、「母国語」と「母語」の混同に警告を発し、 前者を本来無関係のはずの言語と国家をあたかも密接に関係しているかのように見せるイカガワシイ言葉として批判しています。 母語とは、文字通り自分の母の言語で、幼少期の母との結びつきの中で獲得された言語のことです。 人間は誰でも母や、周りで生活している人々から言語を習得します。 そこには人間と人間の結びつきしかなく、「国家」なるものが介在する余地は全くありません。 その母語と「母国語」なる言葉が、いとも容易く混同されているのです。 この無神経さは、母国語と母語が一致して当然、という意識から生じてくるものに思われます。 実際、多くの日本人は、母国語と母語が何の疑問も葛藤もなく一致します。 そこに両者を厳密に区別しようとするインセンティヴは生まれようもないでしょう。
しかし。 自身のアイデンティティを日本人であるよりアイヌ人と捉えている人の母国語は? アイヌが日本に「併合」されている以上、日本語でしょう。 翻って、彼/彼女の母語は? おそらく「アイヌ語」なのです。
逆に、韓国語のできない在日韓国人2世の子供だったら? 母国語は韓国語なのに、母語は日本語でしょう。
母国語という言葉を安易に使い、それを母語と混同することは、 上に述べたような、国家の介在によって造り出された言語の「ねじれ」現象を無視し、 多くの場合、その「ねじれ」の中に落としこまれたマイノリティを無視することにつながるのです。
「母国語も大切にしよう」と結ぶすみこちゃんは、この意味でも見識が足りません。 (これはすみこちゃんに限らず、一般的に母国語と母語の決定的な違いについて多くの人は無神経すぎるように思えます)
後半は話がすみこちゃんの投書から随分と離れてしまいました。 しかし、以上の話を踏まえてまとめるならば、 本当の意味で「言葉を大切にする」ということは、 その多様性を大切にするということなのだと思います。 間違っても、言葉を一つの「正しい」方向に持っていくことではありませんし、 まして若いタレントの言葉が乱れているとヒハンすることではありません。
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