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「時間」について - 2003年04月12日(土)
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時間は流れている。
その「時間」なるものが一体なんなのかは
考えれば考えるほどよくわからなくなるけれど、
それでも時間は流れている。

例えば今これを書いているパソコンのデスクトップの右上には時計が付いていて秒単位で時間を前へ前へと絶え間なく流している。
地球が1回自転するに要する時間を24分割したものをさらに60分割してもう60分割した長さ。
いや現在ではセシウム133の基底近くの或る2準位間の放射の9,192,631,770倍の長さ。
自分で書いていても意味が分からない。
僕はこんな単位で「時間が流れている」と感じる。

あるいは、僕の髪の毛は少しづつ伸びている。
3月の中旬に切ったからそろそろ1ヶ月になる。
(「3月」も「1ヶ月」もヒトが決めた時間を切り取る目安)
かなり色を明るくしてもらったので、その時から伸びた黒髪が目立つ。
この黒髪分だけ時間が流れたことになる。
例えば1cm伸びていたとすれば、髪を染めた瞬間から今現在までの時間tは

 t=髪1cm

と表すことができる。
今仮に美容院に行った日からちょうど28日だとすれば、

 t=28日=髪1cm

となり、時間と長さが等式で結ばれる。とても面白い。
(ただしこの「1cm」なるものもヒトが恣意的に決めた長さを決める目安。1cmとは1mの100分の1であるが、現在1mとは・・・めんどくさいから言わない。)

面白いのだが、じゃあ時間とは何か、時間の本質とは?と考え出すと上手くいかない。

よく言われることだけど、楽しい時間は早く過ぎる。苦痛な時間は遅く過ぎる。
あるいは何かに集中していると時間は早く過ぎ、ぼーっとしている時間は遅く過ぎる。
この時の時間経過の「早い」「遅い」というのは、
主観的な時間経過感覚と、機械的・恣意的な時間の経過のズレのことを意味している。

時間が二つに分かれてしまった。
「セシウム時間」と「自分時間」。
そして厄介なことに、上で言った「髪の毛時間」というのは
このどちらにも属していないのでは無かろうか、
つまり時間というのは三種類に分かれてしまうのではないかという考えまで頭をよぎる。
自分時間というのは自分の主観によって生み出されるものだからして、
そこには必ず「意識」なるものが介在しているはずである。
しかし、セシウム時間と髪の毛時間には「意識」が介在していない。
意識しなくても秒針は回るし、意識しなくても髪は伸びる。
(髪が無い人でもきっと髭やすね毛は伸びる)
どちらも、自分の意識とは全く無関係に表現される時間だと言える。
ということは、やはり時間は大まかには二つに分かれ、
その内の片方がさらに二つに分かれると言ってよいだろうか。
ただし、さっきも言ったように、意識介在型の時間は、
意識非介在型の時間との対照の中において初めて存在するものだと言える。
その意味で果たして両者が全く独立の二つのものとしてとらえられるかどうか。
ひとまず図式化。


    意識介在(自分時間)

 時間 
          有機的(髪の毛時間)
    意識非介在  
          無機的(セシウム時間)


こういうふうに概念を弄んで類型を作ったところで、
やっぱり時間とは何か、時間の本質とは?という問いに上手く答えた気にはならない。

考えの方向性を変えてみよう。

「時間がない」という表現がある。
これはどういうことだろうか。
おそらく時間はある。時間はあって、流れている。
省略されている部分を補って考えてみると、
 (大学を卒業するまでにたくさん遊んでおきたいのに十分に遊ぶ)時間がない
 (余命半年と宣告されたので残された)時間がない
 (もう少し考えれば答えが出そうなのにもう試験)時間がない
こうしてみると、「時間がない」という認識は、
何らかの制約が時間にはめられたことによって生ずることが分かる。
「何らかの制約」は非常に小さいこともあるし(クイズタイムショックの60秒)、
大きいこともある(大学生活のモラトリアム的な4年間)。

しかし、もっともっと大きく考えてみた場合、
いつも時間は本質的に「ない」のではないだろうか。
なぜなら、ヒトはやがて死ぬという制約をはめられているからだ。

その意味で、すでに時間は「切り取られている」。
僕の生と死という生理現象によって不可避に制約されているのである。
理論上は、僕が生まれるより前の時間(謙信が信玄に塩を送った)や、
僕が死んだ後の時間(猫型ロボットが生まれた)を想定することはできる。
しかしそれはあくまで想定で、僕とその時間は完全に切り離されている。
僕がその時間の中に在ることはできない。

時間は不可避に限定的なものとして僕を捕らえている。
自分で言っていても混乱しそうなフレーズだ。
とにかく、ここでは時間とはそこから逃げられない何かとして、
僕を限界づけるものとして想定される。

死は僕の時間を終わらせる。
その死とはあくまでも僕の死であり、他人が僕の死を体験したり、肩代わりしたりすることはできない。
死は僕固有の体験である。
それならば、その死によって制限された「僕の時間」とは
僕と切り離して存在し得ない「時間」である。
それ故に、他の誰とも決して共有することのできない時間である。

こういうふうに考えていくと、
「時間が流れる」というのは、死という限界に近づくということと同義になる。
そう考えるとデスクトップの右上の数字が動いていくのが少し恐ろしくなる。

こんな文章を書いている場合ではない。

変な着地の仕方だな。

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 マエ    ツギ    モクジ



∴オキニイリニツイカ∵
























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