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ウルサス・バルバータ(3) - 2002年08月10日(土)
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(3)

私が最後に赤いウルサス・バルバータに会ったのは、台場だった。

あの時から、私は何をするあてもなく、
以前雇ってもらっていた塾で中学生に理科や数学やらを教えながら、食いつないでいた。
幸い、教えることが嫌いではなかったし、割と生徒の評判もよかった。
たまに授業の内容を変更して、ウルサス・バルバータについての講義をしてみようかとも考えたが、
そんなものは絶対に高校受験で問われるはずがないのだ。
私が出題者にならない限り、誰も正解を知らない。
・・・いや。私だってあらゆる正解を用意できるわけではない。

夏期講習の中日にようやく休みが取れた私は、電車を乗り継いで台場へ足を運んだ。
私はこの街が好きなのだが、昼間に一人で来るのは初めてだった。
昼前に着いて、あてもなくフラフラと歩いた。

大観覧車へと向かう大きな連絡橋から見下ろすと、
臨海副都心線の東京テレポート駅前の広場に、子供が集まっていた。
近づいてみると、どうやら、子供向け番組の公開録画らしかった。
その輪の中にいる生き物を見て、私は我が目を疑った。
赤いウルサス・バルバータが、子供に囲まれてはしゃいでいたのだ。

そうだ。
元はと言えば、私があの動物に興味を持ったのも、このキャラクターのせいなのだった。
子供番組など見なくなった私は、そのことをすっかり忘れていたし、
そもそも昔だって、あの中には当然人間が入っているのだと考えていた。
専門書とこのキャラクターを見比べて、興味を持ったときも、
なぜこんな誰も知らないようなクマ科の動物をモデルにするかなあ、
しかもどうして色変えるかなあ、やっぱり白じゃインパクト足りないのかなあ、くらいに思っていた。

しかし。
中国で四度までも赤いウルサス・バルバータを見てきた私には、確信があった。
あれには、人間なんて入っていない。ぬいぐるみなどではない。
あれは、まぎれもない、れっきとした、一匹の動物だ。
それも、言葉を話せる、動物なのだ。

私は橋の上から、その公開録画を眺めていた。
ウルサス・バルバータが、子供と一緒に飛び跳ね、歌い、笑っている。
そこには、あの森の中で見た格闘の影は微塵も感じられなかった。
しかし、あれとこれが別の動物だと考えるには、両者はあまりにも似すぎていた。

しばらくすると撮影が終わった。
私はウルサス・バルバータを目で追った。
どうやら収録はまだ終わっていないらしく、彼は物陰に休憩に行くようだった。
ひとだかりの中心には、今度は黄緑色ののっぺりとしたキャラクターが登場していた。
私は決心して橋を降り、赤い生き物に近づいていった。

もう気付いた方もいらっしゃるかもしれない。
その赤いウルサス・バルバータは、日本では「ムック」という愛称で呼ばれている。
あの、モップのお化けだのなんだのと小馬鹿にされていた、
毛むくじゃらの愛すべきキャラクターだ。

「初めまして」
・・・なんて言っていいか分からなかった。
彼はゆっくりと目を上げた。その目はとても優しかった。
「君は・・・君は、ウルサス・バルバータなんだな?」
彼は、とうとう来るべきものが来たという表情を浮かべ、頷いた。
「いかにも」
「なぜ?こんなところで、何をしている?」
「罪滅ぼし、かな」
彼は遠い目をした。
「罪?」
「お前は、知っているのだろう?私たちのことを。ヒトの肉を食み、ヒトの血を浴びなくては生きてゆけない、私たちのことを」
「・・・ああ。知っている。君の仲間を中国で見てきた」
「ならば話が早かろう。私は、キリスト教風に言えば、十字架を背負っている。だからこそ、身をなげうって、人間のために働くことに決めた。幸い、私は子供が好きだったし、番組のプロデューサーも話が分かる奴でな。私を気に入ってくれた」
「・・・ということは、みんな知っているのか?君が本物のクマだということを」
「いいや。プロデューサーと、テレビ局の幹部の数人だけだ。あとのスタッフは、決して人前で脱ぐところを見せようとしない着ぐるみだと思ってるさ」
信じられなかった。とても信じようがない。
私は彼が言語を使うという確信を持っていた。だからこそ、日本語で話しかけた。
そのはずなのに、いざ話してみると、その事実は容易には受け入れがたい。
あるいはこの中にはやっぱり日本語をしゃべれるヒトが入っていて、
私はすっかり騙されて、馬鹿にされているだけなのかもしれない。
しかしそれなら何故彼はあの「儀式」のことを知っているのだ?
とにかく私は真実が知りたかった。
とりあえず片手で持てるくらいのささやかな真実が欲しかった。

私は質問を続ける。
「生まれは?どうして日本に?」
「タジキスタン。中央アジアだ。日本に来た経緯、あまり詳しくは覚えていない。ヒトを3度目に食べた日の次の朝、人間に麻酔銃で撃たれた。目覚めたらどこかの檻の中にいた。それから4回ほどトラックに乗せられ・・・」
「今、3度目と言ったか?」
「ああ。・・・なんだ。知らないのか。一度でもヒトの肉を食べた私たちの仲間は、一年に一度、生まれ故郷に帰って、ヒトの肉を食べなければ、生きていけなくなるのだ。それが、赤いウルサス・バルバータの宿命なのだ」
そうか・・・毎年、か。
もしかすると私が中国の森で見たあの赤いウルサス・バルバータは、もしかしたら同じ個体だったのかもしれない。
オマエニ、ワタシノクルシミガワカルカ?
毎年、一人の人間の命を奪わなくてはならない、苦しみを。

「日本語は?」
「簡単なもんだ。2ヶ月で覚えた」
「普段はどこで暮らしてる?」
「あそこ」
彼はそう言って四角くそびえ立つテレビ局の建物を指さした。
「あの建物の地下3階に一部屋もらってる。2DK。冷暖房完備。風呂トイレ別。ウォークインクローゼットも付いてる。当然使わないがね」
「ガチャピンは・・・ガチャピンには人が入ってるのか?」
私はなんたってこんなことを聞いているんだ。馬鹿らしい。
案の定彼は呆れたような顔をしていた。
「ああ。あれは私と違って仮想の生き物だ。その度にいろいろな人が入ってる。『ガチャピン、サーフィンに挑戦』の時にはプロサーファーが入ってたし、『ガチャピン、体操に挑戦』の時には池谷直樹が入ってたな」
池谷直樹?・・・ああ、あの池谷の弟だ。
・・・だからそんなことはどうでもいい。

「私ばかりが質問責めにあうのは不公平だ。私にも質問させてくれ」
私は頷いた。
「お前は、どこまで何を知っているんだ」
私は今までの5年間で調べ上げてきたことを順を追って説明した。
ウルサス・バルバータが通常5、6匹のオスと十数匹のメスで群れをなして生活していること。
群れの序列の話、食性、繁殖行動、子育て、他の群れとの抗争・・・
そしてオスの中で一番下位にある個体(あくまで仮説として)が、晩秋の月夜の晩に行う儀式のこと。
さらにその「儀式」を終えた個体に、私が襲われたこと。
その個体が私に向かって中国語を喋ったこと・・・

「よく調べたな」
一通り聞き終えると、彼はそうつぶやいた。
「私たちのことなど、人間は誰も興味を持っていないと思っていた」
「そんなことはない。誰かしらが何かしらに興味を持ってる。それが人間のいいところだ」
そうか、と彼は自分一人に聞かせるように言った。
「混乱している。正直言って。・・・君は、ただのウルサス・バルバータではない。それくらいは分かる。そして、それがあの儀式と関係していることも分かる。」
「いかにも」
彼は私に対する第一声を繰り返した。
「私は、お前の言う『儀式』を通過してきたウルサス・バルバータだ」
彼は間をおいた。テレビ番組なら、ここでCMだ。
「お前の見事な推測の通り、儀式を許されるのは群れの中で最下位にあるオスだけ。それも冬ごもりの直前だ。ところで、お前は、儀式の終わった私たちを追いかけたことがなかったのだな?」
私は頷いた。
「初めて儀式を終えたウルサス・バルバータは、次の新月の夜までに、知性を獲得する」
・・・おおかた想像は付いていたが、まだ信じられない話だった。
しかし、目の前には「知性を獲得」した本物のウルサス・バルバータがいて、私と話をしている。
それはまぎれもない事実なのだ。
「蛇足だが、そのウルサス・バルバータは、平均的な人間よりはだいぶ高度な知性を持つことになる。しかし、知性を獲得した個体は、群れを追放され、森をさまようことになるのだ。ただ、不思議なことにその個体は何も食べる必要がない。さっきも言ったように、一年に一度、ヒトの肉を食べるだけでいい。一年に一度、最初に儀式を行ったのと同じ場所に行くと、ヒトの死体がころがっているのだ。それは、元いた群れの連中が用意している。そもそも最初の儀式で使う人間も、群れの連中が用意するのだ。・・・なんでそんなことをするのか?今、お前はそう思っただろう。それはこっちが聞きたいくらいだよ」
私は黙って聞く以外なかった。
「つまり、我々赤いウルサス・バルバータは、群れに生殺与奪の権限を握られていることになる。群れがヒトを用意しなければ、我々はそこで飢え死ぬしかない。幸い私はかれこれ十年近く、安定したヒトの供給にあずかっているというわけだ」
安定したヒトの供給・・・
「赤いウルサス・バルバータの中には、もちろん森の中でその一生を終えるものもいる。しかし中には、その知性を生かして、町に出て人間に使われる者もいる。サーカスとか、動物園のショーとか、そういうのだ。言葉を使う奴は少ない。いや、いないかもしれないな。そんなことをしたら面倒なことになるだけだ。だから彼らは言葉が使えない振りをしている。少なくとも人間よりも知性が低い振りをしている」
「しかし、君はそのタブーを犯した」
「タブーじゃない。そんなルールはないんだ。私は、ただ自由になりたかっただけだ。4回目のトラックに乗せられてたどり着いたのが、今いるところだった。そして私は決意したのだ。今度私を使おうとする人間には、人間の言葉で話しかけよう、と。それで私が史上空前の見せ物にされたり、実験のために殺されたりするならばそれもいい。それは私が選び取った自由だ、と思っていた」
「それで、今の番組のプロデューサーに話しかけた」
「そう。今でもはっきり覚えてるよ。あの時の彼の顔。ありとあらゆる、多分25500くらいの人間の感情が顔中を出鱈目にいじくり回したような表情をした。でも、それはたった5秒間だけだった。すごい人だね。彼は。彼はその5秒ですべてを整理し、言った。『明日から、子供たちのために働いてくれるか?』」
「彼は、頭を整理したけど、理解しようとはしなかった」
「そうだろうな。目の前の現実は理解を越えていた。でもそこで彼がすごいのは、理解を越えるものを排除しようとはせず、理解せずとも受け入れようとしたことにあると思う。彼に出会えた私は全くツイていた。彼の問いかけに二つ返事で答えて、次の日から子供番組のマスコットキャラクターになった」
「彼は、プロデューサーは知っているのか?君が年に一度行う儀式のことを」
「いいや。知らない。それだけは言えないさ。年に一度だけ、里帰りしたいと言って、タジキスタンに輸送してもらっている。結構面倒な手続きらしいが、文句一つ言わずにやってくれる」

「・・・この先、一体君はどうするんだ?」
「私は、死ぬまでこの仕事を続ける。続けたい。少なくともあのプロデューサーがここにいる限りは」
「死ぬまで、ヒトを食べ続けて、か」
彼の目が、一瞬怒りの火を浮かべた。しかし、それは本当に一瞬のことだった。
それがあまりに一瞬のことだったので、私はそんなことを言った自分が情けなくなってしまった。
「そうだ。私にも、生きる権利がある。健康で文化的な最低限度の生活だ」
私は目の前のクマ科の動物が日本国憲法を引用したことに、猛烈なおかしみを感じたが、
笑い出すには、場はシリアスすぎた。
「なあ、お前は、動物の肉を食べないのか?」
私は首を横に振った。焼肉が、私の大好物だ。
「だろう。だから、同じなんだ。私は、私に飛びついてきてくれる子供たちや、その親たちを食べないし、ここで働かせてもらっているスタッフたちも食べない。台場にデートに来ているカップルも食べなければ、今こうして目の前で話しているお前も食べない」
「僕たちも、ペットの犬や、街をうろついている猫は食べない。それ用に捕獲あるいは飼育された動物しか食べない。だから、同じ、か」
「そうだ。人間には知性がある、他の動物とは違う、だから人間が他の動物を食べることは許されるが、逆は許されない、などと考えている愚かな人間がいたら、そいつに教えてやれ。ここにこうして、人間並みの、いや、平均的な人間よりはだいぶ知性が発達したクマがいる」

私は、中国の森で見た、あの悲しい目を思い出していた。
彼らは、ヒト一人を食べることに、あれだけの深い悲しみを覚えていたのだった。
翻って、人間はどうだ。
いいや、人間全体なんてどうでもいい。私は?
私が、好物のカルビやタン塩を網の上で焼いて口の中へと運ぶ時。
私はあれほどの深い悲しみを感じているか?
目の前の肉片が確かに生存していた一つの命を奪うことでのみ存在しうるものであるということを
心にしかと刻み込んだことがあるか?
私は自分を恥じた。

「すまない」
「・・・なぜ私に謝る?」
「誰に謝っていいか分からない」
「・・・・・いいんだ」
彼は笑った。
「いいんだよ。お前みたいな人間がいることが、嬉しい。だから私は人間のために働き続けるのかもしれない。・・・だが、そのために私は人間の命を奪わなくてはならない。・・・パラドックスだな」
「君は、人間を赦すのか?」
彼は少しだけ考えていた。自分がヒトを食べる瞬間のことを考えていたのかもしれない。
「私にそんな権利はない。しかし、私は、少なくとも、お前のことを赦す。そして私は、お前に赦される存在であり続けたいと思う。どうだ。お前は、私を赦すのか?」
私は黙って頷いた。
彼は心の底から嬉しいという顔をした。
その表情がまた私の心のどこかを強烈に締め付けた。
それは、辛くて、でも優しい痛みだった。
これが、私たちを本当に生かす痛みなのだ。そう確信した。
心はいつまでも痛んでいた。
きっと、これから私が死ぬまで、ずっと痛み続けるのだろう。
生きるとは、痛みを忘れないことなのだ。

「楽しかった」
彼はそう言うと、私に背を向けて、歩き出した。
まだ仕事が残っているのだろう。
「ありがとう」
私は彼に、そして彼の向こうにいる、すべての生き物に叫んだ。
振り返らずに、右手をあげる彼の後ろ姿が、ぼやけて見えた。

(了)

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 マエ    ツギ    モクジ



∴オキニイリニツイカ∵
























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