2008年07月13日(日)
ぎゅ〜。。。。の記憶


思い出そうとしても思い出せないことがある。
はっきりとした記憶として残っているわけではないから、思い出せなくても当たり前かもしれないけど。

もうあとちょっとで満2歳になるクロワさん。
もう、近頃ときたら、ありとあらゆる要求を2〜3語文で達者に伝えられるようになったものだから、
一気に進化してしまった感じ(笑)。
最近の語彙で、微笑ましかったものといえば、コレ。

「もうちょっとだけぎゅうにゅう・・・・」

もうちょっとだけ牛乳をくれということなのだけど、
「もうちょっとぎゅうにゅう」 と 「ぎゅうにゅう、ちょうだ〜い」 を言えるのに、合体バージョンである
「もうちょっと牛乳ちょうだい。」 は、まだ上手に言えない、この不思議!!
何度か導いて言わせようとしてみたんだけど、どうしても難しい様子。
大人には、これのどこらへんが難しいのかよくわかんないんだけど、きっと彼女には高くて大きなハードルなんだろう。
こんな感じで、すっかり風体もろとも幼児の仲間入りなわけなのですが、
まだ寝入る時のおっぱいはどうしてもやめられないので、事実上、幼児と乳児の間でふらふらふわふわしている。

まだ次のができそうな予感はしないので、彼女は何もかもを独り占めにできる。
とおともかあかも、全部あたしのものですわよっ( ̄^ ̄) そんなノリで膝によじのぼってきたり
抱きついてきたり、この暑いのに首にまとわりついたりなんてのも日常茶飯事なのである。
迷惑・・・・と思うことも少なからずともあり(苦笑)、だけど、彼女の素直な欲求は害がなく、
本当に可愛いと思う。


あたくしが同じくらいの年の頃、すでにサヨコの腹の中には弟がいて、大妊婦であった。
あたくしが2歳3か月の頃に生まれたので、ちょうど今のクロワさんと同じ時期、同じようなことができなかった。
それ以後も、母の膝にはいつも弟がいたし、そうじゃなくても母は働いていたので家にいなかった。
それに加えて、弟は生まれてすぐに大きな病気であることがわかったから、
親の心配は全て彼に注ぎ込まれていた。
それはそうあるべきことだし、きっと幼いあたくしの心にもそれが不自然なことには映らなかった。
だけど、どうにも釈然としないことが近頃あたくしの心に芽生えてきた。


母に抱かれていた心地よい記憶というのがもう少し蘇ってきてもよさそうなのに、
そういうのがちっともない。。。
弟が生まれる前は、あたくしもクロワさんよろしく、母親を独占していたはずなのに、
そして、しっかりとした記憶として残っていなくても、娘を抱き締めれば思い出せそうなものなのに、
何だかよくわからないまま、わが子を抱きしめていたりすることもあって、
少し不思議な気持ちになるのだ。


あれ・・・・?
あたくしって、こうされたことってあったのかなぁ?って。
あったとしたら、それっていつごろまでなのかなぁ?って。


まぁ、普通は、思い出せなかったとしても大して不便な思いもしないし、
別に、何か恐ろしい影響があるわけでもないんだけど。
何が釈然としないかというと、「優しかった母親の思い出」というのが、あたくしにはあんまりない。
何ていうんだろ。。。肌と肌の密着するような、物理的な熱を感じるみたいな甘い感覚っていうの?
物心がついてからもそういうのっていうのがあんまりなく、それ以前のもう、無意識下への呼びかけレベルでも
おそらくあたくしの肉体にそういう記憶はどうやらインプットされていないっぽい。
恐らく、根掘り葉掘りすればあるんだろうけど、日常茶飯事になっててもおかしくない事柄を
根掘り葉掘りしないとダメな時点で、その記憶の「薄さ」みたいなものをひしひしと感じてしまう。


そういう感覚が、生活の中になかったかというと、それは違うのだ。
そういうのを代行して与えていてくれたのは、あたくしの祖母なのだ。
ばあちゃんとの関係性を思い出すと、日常生活の些細なこととか、
それこそ、あたくしの物心がつく以前の記憶すらも体が覚えているような感覚がきちんと蘇る。
彼女が作ったものを食べながら大きくなって、彼女の話す声を聞きながら大きくなって、
と、結構事細かにさまざまな事象が蘇る。
あたくしが今、愛娘に対して施している様々な「新しいこと」は、
ほとんど祖母があたくしにしてくれていた気がする。
おぼろげだけど、やっぱりやってもらったことだもの、きちんと思い出せるのだ。
(不思議よね)


母親は・・・・そうだなぁ。
優しくて、とか、あったかくて、とか、そういう形容のものではなかった気がする。
うちの家には、父親が二人いた。
もはや、そんな感じだったし。
日本も経済成長期だったし、男も女もよく働いている時代だったから、こういうのって当たり前だったかもしれないけど。
今でこそ、この日記に登場する彼女は、あんなキャラクターで、お茶目で憎めない天然さんだけど
幼き日々のあたくしにとっては、脅威であった。
父親と同じように働いている人がもう一人いた我が家の中で、母親業は祖母がすべて肩代わり。
だけど、子供にかまえなかった母親のことを、別段、恨みがましく思ってもいないし、
ごくごく当然に受け止めている。


昔、オーアエによく

「あなたには母親像がない!!」

と、えらっそうに言われたけど(笑)、まんざらそれもハズレてはいなかったんだよな。
おっしゃるとおりですよ、って反抗する気すら起きなかった。
母親像が確立されていなくとも、母親にはなれるわけで、
それはあたくしには祖母がいてくれたというのがやっぱり大きいのかもな。



クロワさんが喋り出してしばらく経った頃。
あたくしのことを「か〜か♪」と呼び、ぷよ2のことを「と〜と♪」と呼んでいたので、
ためしに母親に、あたくしがちょうどこの頃、自分の親たちのことを何て呼んでいたかというのを尋ねてみた。
たまさか、山賊もそこに同席していたんだけど、まぁ、父親たるもの、そんなことを覚えているはずねぇし、と
はなっから期待していなかった・・・・これは予想の範囲内で、やっぱり覚えていなかった。

が。

母親までもが、「さぁ、どうだったかしら」と、本気で首をかしげた時には、
さすがに少し悲しい気がした。言い知れない寂しさと言おうか。
嗚呼。
ばあちゃんが生きていたら、きっとこの曾孫の顔を思い切り目を細めながら覗き込んで、
「あんたの時はあぁだった、こうだった・・・・」と、聞きもしないのに、次々思い出話が飛び出しただろう。
自分が育児していくにあたって、やっぱりそういうのってきちんと聞いてみたい。
祖母はわりと短命で、あたくしが12の頃に他界したから、
今となっては、叶わぬ願いなわけだけど。。。

それにしても、忘れちゃうものなのかなぁ・・・・。
初めて自分の子が、自分のことを呼んでくれた時のことって、そんなに記憶として、薄いものなのかなぁ。
少なくとも、あたくしにとっては違ったけど。
これもまた、人それぞれなのかな。

ほんと、つくづく思う。

あたくしと、あたくしの母親は、とことんまでパーソナルカラーというか、個性というか、
もって生まれたものが違うんだなぁって事。
親子なんだから、もう少し互いに影響を与えあっていてもよさそうなものの、
その接点すらあやしいよ、うちら二人は(笑)。


今でこそ、専業主婦だけど、あたくしに母親が生命維持活動上必要だったころの母親は、
やっぱり、父親と同じような役割を担っていた。
だから、あたくしが彼女を眺めるとき、それは父親を眺めるような感覚であったことも今思い出している。

↑不思議、不思議


ばあちゃんも、生きていたらもうあと少しで90になっているはず。
(生まれたのが、確か「ベルサイユ条約締結」の年と同じだったから(笑))
(歴史の年号と並列して覚えていた。( ̄▽ ̄;))
大正生まれの彼女が、平成生まれの曾孫を見た時に、何て言ったかって、それを想像するのはまた楽しかったりするんだが。


あさみ


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