Noir/ Rouge noir
diary indexpathos*


2007年08月12日(日) その1

「こんばんは」
私は暫く、その声に気付かなかったようだ。
「マドモワゼル、大丈夫ですか」
肩に手を置かれ、ようやく私は我に帰った。
振り返ると、全身をラバーで固めた男がいた。ラバーでできた神父服。
「…」
なんと言ったら良いのか解らず、暫く無言のまま神父を見つめた。
神父は全頭マスク越しに言った。
「今日、ここに赴任したばかりの新しい神父です」
「ああ…」
私は吐息とも返事ともつかない声を絞り出すのが精一杯だった。
私はようやく、涙に濡れた顔を見られているだろうことを思いついて、恥ずかしくなった。
私はバッグを探ってハンカチを取り出し、御化粧が崩れないようにそっと顔を押えた。
「もし良かったら、話していかれませんか」
「え…」
「私はここの神父です。話したら、すこしは気分が良くなるかもしれません」

私は絞り出すように、今まであったことを話した。
時折涙がこぼれて、私ははやる気持ちと裏腹に、なかなかきちんと話ができなかった。
それでも私は、大分気持ちがほぐれたのを感じた。
私は話し終えたあと、またすこし泣いた。

「神父様、ありがとうございました。完全に元気になるにはまだまだ時間が必要だと思いますが、取り敢えず今は大丈夫ですわ」
そう告げて、私はもういちどハンカチで顔を押えながら立ち上がった。
「そうですか」
全頭マスクに遮られて表情は見えないが、優しそうな人だと思った。
「わたしく、オーギュスティーヌ。オーギュスティーヌ・ド・ヴェルレエヌ。
 これでも名字にドがつくわ。没落貴族なの」
「ほう」
「シテールで客を取っています。
 もし良かったら、会いにいらして。そうだ、神父様の御名前は」
「私の名前はニュイ。ニュイ・ノワールといいます」
「ニュイ様ね。覚えておきますわ。そうそう、この顔を目当てにシテールにいらしても、
 きっと解らないわ。わたくし、シテールではマスクつけていますの。
 目だけ出たエナメルのマスク。それにシングルインレットのガスマスク。
 それが私のトレードマークですわ」
「解りました」
「マスクをつけた娼婦は、シテールに只一人です。覚えていらして」

この「架空の巴里」ではボンデージが目下大流行中。
誰もがボンデージファッションで街を歩く。
聖職者であってもラバーを着用するほど、ボンデージは普通の衣服だ。
「シテール」でマスクを着用したのは、私が初めてだった。
飾り窓の傍に座った私を、誰もが好奇心の眼差しで見つめた。
私が瞬きすると、どよめきが起こった。マスク好きの殿方たちを刺激したようだ。
平凡な娼婦だった私が、個性を持った一流の娼婦に生まれ変わった瞬間だった。

「伯爵様、大丈夫ですか」
私は常連客と過ごしていた。
伯爵はここでは「繭」と名乗っていた。
彼は全身をラバーで完全包囲し、ポンプをマスクにつないで呼吸を制御している。
私は、彼の細くしなやかな肢体と、
私のような者にも優しく普通に接して下さる伯爵が大好きだった。
伯爵は吐息を荒くして、悶えている。気持ち良いのだろう。
私は乗馬鞭で、彼の胸に触れてみた。
「ふふっ」
彼は余計に悶えた。
面白くなって、私は彼のマスクとポンプをつなぐチューブを、ハイヒールで踏んづけてみた。
一瞬、彼はものすごく苦しそうに肢体をくねらせた。
「伯爵様、すごく素敵ですわ」
私は口に出していうこともできないほどに興奮した。
理想通りの男性だった祖父の屍体を発見したのは、私だった。
朝、祖父を起こしに行ったとき、祖父は既に固くなっていた。
開かれた目蓋、硬直した身体を、私は忘れられない。
私は死にそうな男性が好きだった。
細い細い腕や、脚や、薄い胸板。自らの呼吸を制御して、
窒息状態を自らに強いる男性に強烈なフェティッシュがあった。
そういうことに説明をつけようとするなら、祖父の遺体しか思い当たることはなかった。
私は窒息寸前で悶える「繭」をじっと見つめた。神々しかった。神秘的だ、と思った。
私はずっと、自分の「宝石」に痺れを感じていたが、
そこに触れることは神を冒涜するような気がして、どうしてもできなかった。
私にはただ、苦しそうな「繭」を見つめ続けることしか許されない、と思った。
伯爵はようやく満足したのかポンプを外してくれと言った。
私は教えられた手順で、いつものように素早く彼の呼吸を自由にした。
「フー…」
放心したように寝台に四肢を投げ出す伯爵様も、素敵だった。
私は彼に抱きついて、
「伯爵様、今日もとても素敵でした」
と告げた。
伯爵様も、私を抱擁して下さった。
勿論、私はマスクもキャットスーツもちゃんと身につけている。
彼の細い身体に神性を感じて、聖なる存在に抱かれる幸福を味わった。

私の客は、性交を必要としない人が多かった。
なかには新規顧客が「ボンデージファッションのままコイトゥスしたい」と
申し出る場合があったので、マスクをつけるようになってからは新規は断るようにした。

「ニュイ様、すごいですね」
「気に入って戴けましたか」
「はい! とっても」
神父様は、今日も自作のイラストを見せて下さった。
「私、可愛いですね。こんなに綺麗に描いて戴いて、恐縮してしまいますわ」
「いつも、貴女は綺麗ですよ」
神父は初対面のあと、すぐにシテールに通って下さるようになった。
けれどコイトゥスも、なんのプレイもなく、
神父様は私にただ、自作のイラストを見せて下さるのだった。
私はそのイラストのなかで神父様に可愛がられている。
「ふたりの、秘密です」
神父様はそう言った。
「はい!」
私はそう言って、神父様に抱きつこうとしたけれど、神父様はいつも通りそれを優しく制した。
「意地悪なニュイ様。ハグくらい御赦しになっても良いかと思いますわ」
でも、私は解っていた。
ハグを御赦し戴ければ、次は神父様の首筋に接吻したくなるし、
その次には全頭マスク越しににキスしたくなるのは当然。
更には、マスクを外したくなる。
そしていつか私は自分のキャットスーツの股間のファスナーを、
神父様の為に下ろしたくなるのだ。
恋愛すると、酷い欲張りになるのは自分でよく解っていた。
だからこそ、このくらいで我慢しないといけない、と自分でもよく解っていた。
私は仕方なく、神父様に跪いて、ガスマスクを外して唇を晒した。
「これくらいのことは、赦して戴きたいわ」
そして勝手に、神父様の御靴に接吻をした。


荒井慶騎と世都セレナ