日記×エッセイ...みち

 

 

先週のACIM宿題 - 2018年03月05日(月)

先週の宿題はこういった内容でした。↓

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私たちが一緒に聖霊と取り組んでいく中で「証人たち」ってなんなのか。どういう風に見せてくれるのか。
証拠として証人たちがやってきてくれる。証人がいることで私たちはわかっていく。じゃあ「証人」とはなんなのか?
どういう風にして私たちはこれを証拠としてわかっていくのかな?

テキストP444の7の最初の部分も含めて宿題を行う。
「今年は喜びの年。あなたがもっとよく聞くようになり・・・(略)」(公式テキストP444より抜粋)
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この宿題とともに一週間を過ごしました。
そうした一週間が今のわたしにとってどんな経験になったかを書いてみます。

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくのかな?」
そう問いかけながら、人と話したり状況の中に入ったりしていたわけですが。それによって起こったことというのは、「わたしが作り出したもの、過去の経験からマインドで作り出したものから聞いたり見たりをしない」ということでした。わたしがそこから興味深く感じるのは、そうしようって思ってたわけじゃない、というところです。

これまでも「投影しないようにしよう」とワークしたことはあるのですけど、今回の場合は自動的に投影にならない感じがしました。
(自分では投影しないようにとか意識していないけど、結果というか現象的にはそうなっているという感じ)

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくんだろう?」
そうやって人や物事を見ていると、わたしのマインドで作り出したAさんとかBさんとかではなく相手の方に接するので、どこか常にワクワクしていました。Aさんどう見せてくれるのかな!みたいな。
(・・・ということは、わたしが作り出した「その人」として接することはワクワクしないということなんですよねえ。なんでわざわざそんな楽しくもないようにわざわざしてるのかという・・・。)

この宿題をしていたら、相手の行動に期待しなかったんですよね。Aさんはこうするに違いない、Bさんはいつもこうするから、みたいな期待が自分から出てきませんでした。たとえいつもよく見る行動を見せてくれたとしても、「いつも見る行動と同じ」とは受け取らないのも興味深い点です。なんでそう受け取らないのか、なにが違ってそうなのかはわからないのですけど、興味深いなと思いました。

「どういう風に見せてくれるか」と臨んでいると、固定した意味合いとして物事を受け取らなくなっていました。時々、宿題のことを忘れて固定した意味合いで受け取っていることもありましたけど、そうすると自分の中に自然にイライラした気持ちが出てきたりするので、おっと離れてるぜ、と気づけました。

「どういう風に見せてくれるんだろう?」「これでわたしは何をわかっていくんだろう?」
この姿勢は、自分の周りへの関係の仕方だけではなくて自分自身に対する接し方にも関わってきました。これも振り返るとそうだなという感じで、その時は気づきませんでしたしそうしようともしてませんでした。

わたしは以前から、わたしってこういう行動をするよなあ、こういう思考回路で動くパターンがあるなあ、とか自分自身を見つめることが多いのですけど。
今回、「わたしってそういう風にふるまうパターンがあるなあ」とパターンに気づいた後に、あれ?何かが違う・・・と感じました。何かの「感じ」が違う。

勉強会でのシェアの時にはこれもまた全く説明ができないものでしたけど、今振り返って感覚しなおしてみると少しずつわかってきます。
例えてみると、まるで「わたしってそういう風にふるまうパターンがあるなあ」と思った自分自身に、「パターンがあるなあって思った自分は、わたしに何をどういう風に見せてくれるんだろう?」「この自分から、わたしは何をわかっていくんだろう?」って関係していく感じ?

これまでは「自分のパターンに気づくわたし」が終着点でした。パターンに気づいてそこから学ぶ、みたいな。でも今回は、パターンに気づくわたしが見せてくれるものは何?と更に範囲が広くなっていました。

なので、何かがいつもと違う、と感じてもそれが何なのか全くわかりませんでした。「自分のパターンに気づくわたし」しか知らなかったからです。そこから見ても全く分からなかったんですよね。
数日経って今、ああ、そっか、そうだわ、、、みたいな感じで理解しています。

この宿題をしていたら、自分の経験が、見方がどこか変わる、これが「わかる」ってことか、「理解」ってこれか、という感覚もしてきました。ここももう少し詳しく書きたいものではあるのですけど、、、まだわからん!

それから、自分の行動から自分が学ぶ、ということも宿題期間には起こりました。
わたし自身の口から言ってるのに、自分が話している言葉を聞くわたしは「へえ〜、そういう風に話すのね。そういう風に聞くんだねえ。そうやるのかあ。」と他人事みたいに思うことがありました。わたし自身がやってみせてくれた(?)のだけど、同じようにできる気が今のところしないという、、、なにそれ?(^_^;)
あ、頭で考えて頭で理解して「こうすると良いから」とかそういう風にして同じようにはまだできないって意味です。そうでない意味でなら、またできる気はします(笑)
でもわたしは頭でも理解したいんですよねえー。こういうことが起こってるんだなあって、肌にもしっくりするものを。

宿題である「証人たちってなんなのか」というのはまだよくわかりませんけど、この宿題をしたことでこれまで感じたことがない感覚を経験できました。一週間のほとんどの時間その感覚はあって、それってなんかほんのり甘くて、でも決意してるみたいなぴしっとした感じもある、そういう感覚でした。今もそれはあります。

なので、この感覚はなんなのか?どういうことなのか?という疑問が出てきています。
投影をしない感覚がこの感覚なのか。
それとも、聖霊が私たちを通して教えてくれている時の感覚がこの感覚なのか。
それとも?

おしーえてーおじいーさんー



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