日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM勉強会の宿題をするの巻 - 2017年12月11日(月)

ACIM勉強会での前回、前々回の宿題は、次のようなものでした。

・1日の中で何回「今」という瞬間を思い出せるでしょう?
・聖なる瞬間を取り出す際にあなたが担う小さな役割を今から練習し始める。そして具体的な指示を受け取ることをしてみる。


まずひとつ目の宿題。
今という瞬間を思い出すためには体を使います。今の体の感覚は、今にしかないから。
わたしはこの期間、胃腸に違和感があったのでそれを利用しました。何気に今という瞬間を思い出すことはしやすかった気がします。

今、胃腸にあるどんな感覚をわたしは「違和感」と認識してるのか。
「ええと、なんか動かない感じがあって・・・お腹の表面のほうが固い感じで覆われてる感覚がしてるなあ・・・」とか。

そういうことを2週間ほどしていたら、過去の記憶がどんどん出てきました。
そしてその時にわたしがしていた思考の仕方をばっちり見ることができました。ああ、だからストレスにしていたんだな、だからお腹が緊張していたんだな、と腑に落ちる感じ。
その思考パターンは今もすごくわかるもので、よく使うわーと思うのですけれど、一旦「こういう思考パターンが作動してるんだな」と見えると、それが起こってる時に気づきやすくなるし選択しないという選択肢が表れてくれるので、よっしゃーという感じです。
種がわかってしまったら後戻りはできないー。

わたしは夜ぐっすりと眠れるほうですが(むしろ寝すぎてしまうほうですが)、今回そういうことをしてたせいなのか、一度頭がぐるぐると回って眠るモードにならないということが出ました。
その頭ぐるぐるのネタはかなり前の過去にあった出来事のことで、今のわたしには恐れる必要もないことに関してでした。
頭がぐるぐると回り、そうすると頭のぐるぐると伴うようにお腹が緊張していきました。
そういえば20代の頃、こういう頭ぐるぐるをさせてたなと思い出しました。(今もしてるのかとは思いますが、その頃ほどの高速回転ではないのです)

頭ぐるぐるのネタが今のわたしにあまり恐れを引き出さないものだというのがあるからか、わたしはその反応を「これはすごいぞ」と他人事のように見ていて、お腹に手を当てて感覚して(手を当てるとお腹が感覚しやすくなるから)、そうして眠りに落ちました。

興味深いことは、そうして体の感覚を感覚するだけで「理解すること」がぽろぽろと出てきていたことです。
物語としてはおもしろいですけど、わたしは理解すると興味を失うっぽくて、だから書きません。



ふたつめの宿題。
具体的な指示を受け取ることをしてみる、という宿題のほうは、まあ、宿題を受け取ったものの「小さな役割」が何なのかもよくわからないし、具体的な指示がどう来るのかもわからないなと思っていて。
まあ、前回の宿題の続きで体の感覚を使って「今」を意識してれば小さな役割ができやすいかも?と思ったので、指示が来てるか来てないかわからないまま体の感覚を意識していました。
聖霊さんは、わたしをすごく頑張らせようともしないだろうから、自分が自然にすることに意識を向けていよう、と思いました。

で、1週間過ごしてみたのですが、「これだ!これが具体的な指示だ!」みたいな感覚は起こりませんでした。
(そんな反応をする自分は電波っぽくて嫌だ、と思ってるからかもしれません)

だけど、あれ?と思うことは何回かありました。

自分が「今」にいて、相手の言葉に素直にその「今」の価値観から反応して、そうしたときの相手の反応の変化だったりとか。

約束をした際の相手の反応が思い出されて、約束をした時の想定した今と「今」の状況が違うので電話をかけて伝えたら、わたしはそんなつもりじゃないと思う程度に相手の方が喜んでくれたりとか。

相手の方の反応から気づけるものを贈ってもらった、って感じです。
相手の方が鏡になって映し出してくれるから、初めて見ることができるもの。

勉強会でシェアしたら、「わたしはそんなつもりじゃない」という感情について、罪悪感の要素を見ることもできました。

わたしはよくやるのですよ。相手が喜んでいるのに「わたしはそういうつもりでやったのではなくて・・・」とか余計な説明をすること。
今回はそれをしなくて、ただ相手の方の感謝を受け取りました(自分の顔の左横辺りに自分の罪悪感を見ながら)。そうしたら、なんか不思議な感じがしました。悪くない感じでした。

・・・ああ!

書いていて今気づいたのですが、わたしが「そういうつもりでやったのではなくて」と説明をしたくなるのって、そこに「何かをしたから喜ばれる・感謝される」という信念が見える・・・。
「そういうつもりでしたのではないから、次もそれが提供できるかわからない、期待されても困る」みたいなものとか。
勝手に相手の人を、「期待する人」と見ている(笑)

勉強会で言っていただいたのは、「自分がその人の存在自体を感謝するような人にそれを表現できますか?」という問いでした。
時々言うといえば言っていると思うんです。相手の存在を感謝するような言葉。
ですが、改めて問われたときに瞬間的に出てきたわたしの反応は「難しい」でした。

そういうのともつながっているよなあ、と思うんです。



いきなり話を変えますけれど。
わたしは足が小さくて薄いので、靴を買うときは昔からどこか諦めていました。
靴は痛いものだ、中で滑ってしまうものだ、ちょうどいいものはないものだ、何かを、どこかを我慢するものだ、そういう思いを持っていました。

で、naotの靴に出会って。
それらが一新されているんですね。今、わたしの中では。

歩ける!歩ける!わたしの足!のびのびといられる指!支えてくれるぴったりとした靴!痛くない!むしろ、らくちん!

naotの靴は現在2足持っているんですが、また欲しいなーと思っています。

足というベースになる体の部分でそういう感覚になるということは、わたしの中では「存在に感謝する」ということとも繋がっているように感じていて、「ああ、ずっと諦めていたもんなあ」ってしみじみと思うのです。
そして、もう諦めなくていいんだという喜び。

ということで。
わたし自身の存在に感謝して、naotの靴を新たに買うことになるような気がしてなりません。
(なんちて。でもある部分では本当。)


...




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