日記×エッセイ...みち

 

 

「流動体について」について。 - 2017年03月02日(木)

今回の小沢健二さんの新曲に関して、および発言等に関して書かれているブログをいくつか読ませていただいてるのですけど、いやあ、文章が上手な方が多くて、厚手の本を見ると燃えてくるような文章読みのわたしとしては個人的に超うれしいです。しかも、押しつけがましくない表現の仕方の人が多いように感じます。
(そういうブログしか読んでいないのかしら)

もちろん自分とは違う意見の方もいますが、あー、そこをそう見るのか、みたいな発見ができるのは、やっぱりおもしろいです。

「流動体について」の曲を自分はどう受け取ってるか、について、いいなーわたしも書きたいなーと思っていて、でも異常に長くなりそうで(その割にわかりにくい文章になりそうで)二の足を踏んでいました。

なのですが、書きたーい。

なので、わかりにくいままですがちょこちょこと書いてみます。
全部書こうとして、そしてちゃんとした文章にしようとして途方に暮れるので、ちょこちょこっとだけ。
(現在のところ、力が不足しております)


小沢さんが、この曲を短編小説みたいなものと先日表現されてましたけど、この曲を聴くとわたしは、歌詞の中のひとつの言葉や音のなりたちから、ある印象や体の感覚がそこから生まれてきて、それらがどんどんつながって物語ができる、みたいに感じています。


例えばここの部分。

「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼」

すうがくてきっ、びてきっ、にさくれつするしんきろー!
声に出して言いたい日本語の部分です。

上昇してー(数学的)上昇してー(美的)、パーン!(炸裂する蜃気楼)

数学=美しさ。
美しさと美しさが重なってどんどん増していって、そうして上昇するのと共に弾ける「蜃気楼」。
「蜃気楼」は「幻想」のことかな?と受け取っています。
あるように見えるけど、ないもの。「神」の属性、例えば愛とか静けさとか、そういったものではない、これまで持っていた幻想が弾ける、「あ、わたしを苦しめていたものは、蜃気楼のように、あるように見えていただけのもので、実はなかったんだ」って気づく。


「彗星のように昇り」では、もう自分では何もしていないけど、慣性の法則みたいな感じで自然に昇って行く感じになっていて。

そしてその心地よい感覚をキープしたままで「起きている君の部屋までも届く」。
起きている、つまり、もう気づいている君(二人称。直に呼びかけられているということ。)の部屋、本当に身近な空間にまで届く。もう、遠くにあるものではなくて、すぐそばに。

自分の手元にある地上に降りたそれが、「もしも」と、また音階が上がって続いていくのだけど、音が上がりますがわたしの受けている印象では、そこからはぶわあって周りに草花が咲き広がっていく、みたいなものになります。
(知ってる方にしか伝わらないですが、「大神」というゲームの大神おろしのような感じで広がる印象)

これまでは荒野だった地上が、自分のいる地点からぶわあって花が咲き広がっていく。
それは気づいたから、それから、気づいたことから感謝が広がるから。


たぶん続きます。


...




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