日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2011年03月31日(木)

わたしの住んでいる地域は、直接的な被害は少なかった方だと思う。語弊があるかもしれないけど。
物資やガソリン、食物、道路、住んでいる場所、職場(仕事)など、もちろん被害はある。だけど、直接的に生命のどうこうという感じは少なかった方に思う。
放射能は気になるけど、これも今の段階でどうこうという話ではない。身体はすごいと思う。

けれど、そう頭で理解しても気持ち的にはどんよりしていた。
身体的には寒くて仕方なかった。

だから、わたしは支援する側なのかされる側なのかわからないな、と漂っていた。
どちらなんだろうと。

で、今日気づいたことは、支援する側、支援される側、そのどちらかだけという人をわたしは好まないなあ、ということ。
わたしの好む人は、支援しているし相手から受け取ってもいる。
支援されているし、なにげに相手に与えてもいる。
ただ、笑顔だったりとか。素直な感謝の気持ちだったりとか。
本人には与えているつもりはないかもな、というもののこともある。でもその威力がはんぱないこともわかる。

わたしは親から「じぶんのこともできないのなら他人のことに手を出すな」と言われていた。
すごくよくわかる。
でも、これでわたしはこれまでちょっと失敗もしていた。

なにが失敗だったかというと、自分のできないところばかり見てしまうこと。だから、周りに目が行ったとしても行動につながらなかったということ。

今日気づいたことは。
わたしの「できること」は、わたしにとっては「当たり前」のことだったということ。でもそれが、周りに「与えられること」のことがあるということ。
できないことをみていると、そのできないことしかないように思えてくる。トータルして自分が「できない」としてしまう。
そうじゃなくて、これはできないけど、これはできるし与えられるし、…っていうかこれ、与えるって言っていいの?別に苦労もなにもないよ?みたいなものもあるということ。
それをすればいいだけ、ということ。

だから、今日決めた。
支援者でも、支援される側でもあろうと。

ツイッターでいろいろ読んでいると、ときどき福島県民として胸が痛いものに出会うこともある。
あーこの人はそう思う・そう楽しむ人なんだなあ、と思いながら胸が痛いなあと感じることがあった。

でも、その人はただ、自分のこととは考えないってだけだ。
そしてイコール、今こんなに溢れているものをその人は受け取らない人だってだけだなあ、と思った。

そんなわけで、「寄り添う」って意味もわかった。
与え受け取ること、受け取り与えること、それが寄り添うことなのだなあと思った。
なんとなく、タロットの6を思い浮かべた。




先日、ゆびを挟んで負傷したけれど。
もう痛くない。すごい。身体ってすごい。

当日は、つめ死んだな…と思ったけれど、色も変わってきて、あれ?死なない?かも?みたいな見た目になった。
切り傷の部分もくっついて堅くなっている。
血まめの部分もやわらかいほくろみたい。
血まめは、血まめとゆびの境目の感覚がわかるから、ゆびと別のものが身体の一部として一体になっているような感じで、

あれー?なんか肉球みたい…。

と感じて、ひたすら触っている。。。

つめは話によると、死んだら下から新しいのが生えてきて二人ばおりみたいな状態になるという。
。。。ちょっとおもしろそう、それもいいな、と思った。
さあ、どっちになるでしょう(^o^)




なぜか職場で松岡修造動画祭り。スーパーマリオ版とかおもろすぎ。
助かる。
すごいひとだー。




先日見た、松田くんの出てきた夢。
自己分析すると、ざいあくかんだねー、と思う。
味わっとこう。




最近とみに思うのは、思考・数字的なものだけでもだめ、感情的なものだけでもだめ、どちらも満足させると決める、ということ。
原発・電気のことも、一挙両得をねらいたいから常識力をつけているところ。


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL