日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2008年06月25日(水)

発見が多いです。

この間自分の中にみつけたのは、「どうせわたしが望んだって・・・」というヒガミの感情。
いやー、今現在「意識の自分が行いたいこと」に対して何でこんなにわたしは抵抗する感情や行動(うまくいきそうになると焦っていたことがあった)が出るのかなー?と追いかけていったら、そういう感情が出てきたのでした。
ああなるほど、そういう風な思いをしていたのかもなー、癖ついていたのかもなー、と小さい頃を思い出します。大したことでそう思ったわけじゃないんだろうけど、思っていたんだろうなーと納得します。

で、見つけられたので対応するアファメーションを用意して、デプログラミングをしてみました。(プロブラミング外し)

「わたしはわたしがいちばん望むものを素直に求め、それを受け取ることはとてもリラックスすることがらです」
そうして思い癖を変えて、行動も違うことをしてあげて、「それができる」ということを自分の潜在意識に証明してあげます。

デプログラミングをしてる自分の反応を客観的に見ると、いい技を身につけたなあとしみじみ思うのでした。習ったばかりの頃、これは全く興味がなかったからあんまり使ってこなかったけど、そういうものなのかもなあと思います。
他のことから効果があることを実感できて、受け入れるくらいのリラックスもできてきたんだろうなと。

他人の行動の気になってしまう分野と、意識できていない身についた価値観と、それによる自分への制限とは、全部繋がっているなーとわかります。
周りの人の感情を見ても、それは感じることができて、それをただ観察するようになったのでそれに振り回されなくなったかもしれません。

毎日何かしらわかります。
少なくとも、自分はこれがわからなかったんだなあ、ということがわかります。
昨日は、相手の気持ちを思いやって、今ここでの自分が出来るベストを行う、という当たり前のことがわかりました。
相手の気持ちなどを差し置いて、ベストにしようととらわれていたものがあったなあと。ハーモニーになりやすいかどうかの目線で見てみると、意味ないなあと。

カウンセラーの本を読んでいたら、わたしは小さい頃から親の葛藤処理の役目をしていたんだなということも気づきました。好きでやっていたんでしょう。他のやり方があることを探すということを知らないから。求められるままに。
他人の愚痴を聞くよりも、身内の愚痴を聞くことの方がしんどい、ということもなるほど理解しました。
そんなわけで、「愚痴を聞かなきゃならない恐れ」VS「愚痴を出さないとしんどそうだから聞かなきゃという思い」の葛藤は融合されました。いやー、楽ちん。

朝ヨーガをしていたら、わたしは呼吸をすることが好きだということがわかりました。幼稚園の頃、先生に「歌が好きでいつも歌っている」と言われていましたが(無意識)、なるほどこれも呼吸かもしれません。お香も呼吸の味付けに使っている気もするし、他にももろもろ。
バンブラの新作を買う予定ですが、これも演奏がしたいというよりか「風呂で歌うため」という理由。
ちなみに朝ヨーガも、空気が澄んでいる分、呼吸することが気持ちいいから、という理由で始めました。

呼吸をすることは「この世に生きる意思」だったかな?そんな感じだったような。
わたしにとって生きる意思満々らしい。どうやら。(今頃知ったよ)


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