思考過多の記録
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2003年02月23日(日) 「思いやり」と「生き残り」

 「他人への思いやり」というのは、基本的には自分にある程度の余裕がなければ生まれないものなのだろう。けたたましいクラクションを鳴らしながら歩行者を蹴散らして猛スピードで走っていく中国の自動車の運転手には、車を停止させるか減速させて歩行者を横断させようという心の余裕はない。何故なら、そんな素振りを少しでも見せたら、その車は車の流れから取り残されるし、横断する歩行者の列に切れ目がなくなることは目に見えているからだ。つまり、誰もが自分のことで精一杯なのだ。そういう状況下では、他人を思いやるということは事実上不可能である。それは、自分自身の「取り分」の喪失を意味する。



 社会保障などの相互扶助の制度が生まれたのは、むしろこういう状況下においてであろう。誰もが他人を思いやらず、それどころか他人を押しのけて自分の「取り分」の獲得だけを目的に行動すれば、その生存競争の勝者はほんの一部である。けれど、その不公平を放置しておくことは、結果的にその社会自体の崩壊につながる。「善意」などという不確かなものをあてにしていたのでは、その危機を回避することは覚束ない。
 だから、かの国々の社会では、「思いやり」=「助け合い」を「契約」と規定して、「制度」として確立させた。誰もが他人を押し退けあうよりも、この「契約」に従う方が結果として1人1人の「取り分」を確実に確保できるという仕組みである。この「制度」が長い年月をかけて「規範」として内面化され、世代を超えて継承されていく。「思いやり」とは、様々な法律や決まり事が内面化された「規範」意識が形になって現れたものだといっていいと思う。



 少し前に、僕の会社の組合が、社員を対象に職場で感じていることを自由に記述してもらうアンケートを実施した。その中に、ある職場の1人の女性のこんな意見があった。
「子育てをしながら働く人への有給保証(産前産後休暇や、育児休暇、育児時短を指す。僕の会社では全額ではないが有給保証されている)はもういらない。子育てのために働いていない人にこれ以上お金を払う必要はない。子育てをしていない人とのバランスが崩れすぎている。」
 この意見を書いた人は組合員ではない。しかし、この人自身も働きながら育児をした経験を持っているのだ。これを読んだある子育て・仕事両立中の女性は「これを読んで傷付いた。」と言っていたという。



 ご多分に漏れず僕の会社も業績が悪化し、賃上げも定昇分にとどまり、ボーナスの支給額が減らされるということがここ数年続いている。また、定年や有期契約の人の契約終了に伴う退職者の人員補充が行われず、実質的に人員減となっているために、1人1人の労働密度は確実に上がっている。この結果、働いている人達に物理的・精神的に余裕がなくなり、職場がギスギスした雰囲気になっているのだ。
 こういう状況では、子育てをしている人達がそうでない人達に比べて条件面で優遇され、特別扱いを受けていると感じる人達が出てきても不思議ではない。子育てという「ハンディ」を周りがカバーしながら支えていくという「思いやり」よりも、そのことで自分たちが足を引っ張られているのに何故それが認められるのか、という「取り分」の発想が全面に出てくるというわけだ。
 子育てと仕事の両立の話がメインではないので、ここではこれ以上深入りしないけれど、そういう人達の存在を許容できるということは、その職場、もっと言ってしまえば社会全体にある種の「余裕」がなければなかなか難しい、というのが少なくともこれまでの主流の考え方である(僕自身は、それはもう古いと思っているが)。だから、社会や職場から急速に「余裕」が失われていくのと比例して、こうした「ハンディ」を持つ人達に対する風当たりが強くなってきたという一面があることは確かであろう。



 しかし、自分に余裕のある時の「思いやり」というのは、本当に「思いやり」といえるのだろうか。
 ある国が難民や移民に対してオープンであり、また少数者や弱者に対しても寛容であるのは、その国に(多くの場合、経済的な)「余裕」がある場合だ。ひとたび経済危機が襲えば、たちまち社会の有り様は変わる。難民達は追い返され、移民達は排斥され、少数者・弱者は閉め出される。限られたパイの奪い合いの中で、彼等は真っ先に押し退けられる。人々の関心は、ただ自分の「取り分」を確保することだけに注がれる。「金持ち喧嘩せず」という言葉があるが、彼等が喧嘩をしないのは「金持ち」だからである、というわけだ。



 けれど、こうした局面においてこそ、「思いやり」が必要なのではないか。自分たちの「取り分」が確保できるかどうかという瀬戸際だからこそ、その貧しい「取り分」を他へ分配できないかと気を配る。また、声を出す力のない人がいたら、自分のことはさておいても敢えてその人の権利を代弁する。「思いやり」とはそういうものだ。自分の取り分を確保してから正義面して他人の立場に目を向けるのは、「思いやり」でも何でもない。それはただの偽善だ。



 「他人を思いやる」とはそういうことである。それが如何に困難なことであるかは、ちょっと身の回りのことを考えてみればすぐに分かる。
 僕は会社の正社員の組合に属しているけれど、こういう時にアルバイトさんやパートさん、派遣さんの労働条件の改善を全面的に押し出していく。また、僕達の業界を支える関連業種の人達の待遇改善を求めて行動する。そういう姿勢を見せることこそが、まさに労働組合の存在意義なのであるが、現実には自分の会社の正社員の「取り分」のみを確保することに汲々としてしまいがちだ。
 人はなかなか他人を本当の意味で思いやれない。けれど、僕は倫理や道徳を説いているつもりはない。「他人を思いやる」ことは、自分が確実に生き残る上でかなり現実的な選択肢である。目の前の自分だけの利益に人は飛びつきがちだが、結果としてそれで身を滅ぼすことが多い。



 ポイントは、「自分だけが生き残ろう」と思わないこと。みんながお互いの立場を理解し合い、目を配りあうこと。すなわち、「みんなで生き残ろう」とすることだ。繰り返すが、これは道徳や倫理、宗教の類ではない。最も現実的なサバイバルの方法である。
 そして、長い人間の歴史の中には、本当に自分の生き残りとは関係なく、他人を思いやった人達もいた。その人達の困難は計り知れない。また、彼等の「善意」の深さ・強さも僕達の想像を超える。僕達の誰もがその域に到達できるわけではない。だから、今の僕に言えることは、せいぜい「みんなで生き残ろう」ということくらいである。これとて、実現にはかなりの困難が伴うであろうけれども。


hajime |MAILHomePage

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