にのらの日記

2011年01月12日(水) 年明け早々

にのらです。

あけましておめでたかったのもつかの間、おばあちゃんが亡くなって
てんやわんやでしたが落ち着きました。昨日には東京にもどって
いる予定だったのですが、そろそろ帰ろうかなという感じです。

もう94歳で10年くらい入院生活だったのと、年末に一度骨折して
さらに体力が落ちていたので、心の片隅で割と長いこと覚悟を
していました。が、そうは言っても覚悟が即行動につながるものでも
なく、できれば避け続けたい死というものに対峙して、姉達は
子供が小さいので、とりあえず両親と私の3人で交代でお葬式から
お骨を拾うまで、3日間で4時間睡眠くらいの休憩でついていたので
心身共にどっと疲れが出たなあという思いです。

でも、お正月で私が実家に戻っていたことも、基本的に決まった休日
の無い姉の家族がたまたま揃っていたことも、今にして思えば
人に心配されたり世話になるのが嫌いでいつでも自立していた
(一番最初の入院ですら単体で入って後から連絡してくるような)
おばあちゃんらしいタイミングであったなあと感服する次第。

長い入院生活は決して幸福なものであったとは思わないけれど、

葬儀屋「生前にお好きだったものはありますか?おまんじゅうとか…」
家族「トンカツ」
家族「・・・トンカツですね」
家族「トンカツのイメージが」
家族「トンカツですね。大丸の上にあったやつ」
葬儀屋「トンカツ…ですか」
家族「トンカツです」
葬儀屋「本当にトンカツがお好きだったのですね」
家族「(コクリ)」

こんなに、個々におばあちゃんと会っていた全員の意見が一致するとは、
おばあちゃんはどんだけトンカツに凝っていたのだろう。もしかしたら
孫は若いからみんなきっとトンカツが好きだろうという思いやりで
せっせと連れて行ってくれていたのかもしれないと、ちょっと
しんみりしました。まあ本当に好きだったんでしょうが。
結果、祭壇にはそっとトンカツが添えられ、その周りで大量の幼児たち
が走り回っている、にぎやかなお通夜となりました。



葬儀の間中、昔のことをずっと思い出していました。

神戸の元町の1本筋に入ってすぐのところにおばあちゃんの家は
ありました。街中にありながら、育ち過ぎたサボテンが屋根を
貫通したり月下美人が咲いて新聞社が取材に来たり、コンクリート
に囲まれた小さな花壇には植物がひしめいている古い家でした。
すりガラスの玄関をガラガラを開けると、いつもお線香の匂いがして、
左手の靴箱の上には手作りの小物とかあみぐるみなんかと一緒に
ピラニアのはく製が置いてありました。床は黒いピカピカの木で、
古いから少しミシミシいいますが、超掃除好きの人だったので、
塵一つみたことはありませんでした。何もかもが年季の入った
家で、電話はもちろん黒電話、沢山の写真が飾ってあって、
いつもキレイに仏壇を飾っていました。電話の横にはオルゴールが
あって、その横に福引で当てたパリ旅行の写真が置いてありました。
懸賞運が強く、昔から、ハンカチじゃないけど「もってる」人でした。

夏の天神祭の時には、元町ではおおきなお祭りがあったので
いつも泊まり込んでいました。おばあちゃんの家の前にまで
神社のお店や屋台が出るので、私が寝かされてもしばらくずっと
外のにぎやかな明かりが部屋の中を照らしていました。

明日は何をして遊ぼうか
あの福引のペンギンのゴミ箱は誰かに当てられちゃわないか
境内にあったお花の入った氷のオブジェは明日も触れるのかな
神社で御神輿を担いでお菓子がもらえるな

姉達とタオルケットに包まれて、楽しいことを考えながらも、古い家の
お仏壇の前で寝るのでちょっとドキドキしながら眠りに就くのが
常でした。

朝、子供なので5時に目が覚めると、とっくに起きているおばあちゃんが
お花にお水をやって、隣の家のおばあちゃんともうおしゃべりを
しています。本当に生まれてから地震で家が無くなるまで、
毎年のことだったので、特別なエピソードがあるわけでもなく、極自然に
繰り返されていたので、あえて思い起こすこともなかったのに
そんな風景がたくさん浮かびました。

悲しかった時もありました。両親がケンカをしている時なんかは、
妄想家の長女が、「もしお父さんとお母さんが私たちを分けちゃう
事があったら、そうなる前にみんなでおばあちゃん家に逃げよう」
と家出を画策しました。長女は特に反抗期が激しかったので事あるごと
におばあちゃんの家に行っていました。いとこ達も親に怒られたり
進路で悩んだ時にはしょっちゅうおばあちゃん家に来ていたので、
幼心におばあちゃんの家に行けばなんとかなる、という無意識の
信頼関係のようなものがあったのだろうと思います。別にお金持ち
でもなかったし、何かものすごく気が強かったわけでもなかった
けれど、あの絶対的な安心感と求心力はなんだったのでしょうか。

幼児期の幸せな思い出や安心感が随分とこの人につながっているん
だなあと思うと、また泣きました。

トイレの神様とか言う曲を聴いても、「そんな感謝してるならもっと
最初から良くしてあげろよ。碌に見舞いもしないで死ぬ前の日の
1回ぽっきりの交流でしらじらしいぜ」くらいのレベルの感想と
キレイ事に対する反抗心しかなかったですが、植村花菜ほどではなくても
私も大して良い孫ではなかったし、最後の方は私を覚えてくれていなかった
ことに年甲斐も無く恐怖感を感じてしまっていたので、こう見えて
取り返しのつかない反省をしています。

人間なんて、後悔の連続ではありますが、私もせっかく家族を
持ったので(今のところ夫だけだが)、いつか子供を持てた暁には
双方の両親と沢山交流させなければと思った次第。

おばあちゃんは、私という自分勝手な存在にそんな思いを持たせる
力を持っているだけではなく、連綿と受け継がれていく幼児期の思い出に
とって無くてはならない存在となったのです。私や姉妹・従姉妹たちに
「おばあちゃんとはかくあるべし」の礎となった今、月並みでは
ありますが、彼女は私達や子孫に至るまで、永遠に心の中で生き続ける
ことになるのでしょう。


ここんところ考えていた色々を日記に書きなぐってみると、少し
気持ちが落ち着いたもようです。それにつけても、もっといっぱい
お世話してあげるべきだった。私を忘れてしまっていても、
病院の雰囲気が苦手でも、もっと頻繁にお見舞いに行くべきだった。


しょんぼり・・・



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