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■ 終戦記念日を前にして
この時期が来ると急に特集を組まれることの多くなる「戦争」問題。
去年の「茶屋娘日記」を読み返してみた。 やはり、父のことが書いてあった。
今は「混沌」とした世の中といわれるけれど、やはり「平和」だと思う。 幼い頃、笠寺観音や大須観音に行くと、白い装束を身にまとい、片足や片腕を無くした、軍人さんだった人らしい人を見かけた。 幼い記憶なので確かではないが、ござの上に座り、あるいは椅子に座り、通り行く人たち特に声をかけることも無く、じっと待っていた。 何を待っていたのか? 今の時代にはもうほとんど見かけられなくなった、「お慈悲」だったのだろうか?
去年の日記にも書いたが、私の父は酔うとすぐに「疎開体験」の話を繰り返す。 何度も何度も。
豪華な料理じゃなく、ただ、白いご飯を思い切り食べたかった少年。 地元の悪がきに、袋叩きにあい、悔しかった少年。 父母、兄弟と別れ、ひとりで疎開し、夜になると、とてつもなく寂しかった少年。 名古屋の空が赤く染まった姿に、不安を抱いた少年。 田舎の夜の静寂が、とてつもなくわびしく思えた少年。 疎開先の叔父・叔母の愛情を体いっぱい感じた少年。
どれもこれも、私の父なのだった。
酔うと繰り返される、そんな思い出話。 私達子供は、すっかり疑似体験したような錯覚に陥る。
そう、戦争をまったく知らない子供達が、なぜかその体験をさも自分がしたような錯覚に陥る。
父の思い出は私達の思い出とも、なっているのだろうか?
テレビゲームが大好きな現代の子供達。 「戦い」が大好きな子供達。 相手が倒れるまでコントローラーを叩いている子供達。
リセットすれば生き返る、画面の中の人間達。
「痛み」は、感じられない・・・。
殴られる痛み、殴る痛み、心の痛み・・・。
食べ物も、娯楽も、そして知識もあふれている世の中。 そんな時代の中で、今私達が子供らに伝えておくべきことはなんなのだろう? 大切なものはなんなのだろう
父のように、酔うと子供達に何度も繰り返されるあのような話は、 この飽食の時代に一体あるのだろうか?
2002年08月14日(水)
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