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小さな別れ
2003年12月12日(金)

仕事が終わって、帰ろうとしたところで、デスクに「1、2分いい?」と呼び止められた。
私が辞める話だった。
このデスクは面白い人で、それに、私の生意気な話もしっかり聞いてくれる、ほんとうにいい人だった。
「健康に留意して」
なんて、おどけた調子で言うので笑ってしまった。
どうでもいい冗談ほど、人を苦しくさせる。
お世話になりました、と言うと、「まあまあ、そんなのは言わないで。Mくんじゃないけど、ぐっときちゃうから」と言う。
Mさんというのは、私の隣りの席の人で、3年半務めて、2ヶ月前に辞めたのだけど、最後の日に会社で泣いていた。
私は1年しか務めていないし、例のごとく心も開かず、それほど懇意になった人も現れなかったのだけれど、それでも、ああ、これって別れなんだ、と思うと、胸がおののく。
帰り際、デスクなのに、いつものように「どうぞどうぞ」とお姫様のように前を通らせてくれるときに、ああ、と思った。

私は別れに敏感な方だと思う。
お世話になった先生とは離れたくなかったし、大学で先輩が卒業するときは「卒業しないで」としか思えない。
小説を読み終わって本を閉じるときも胸がいたいし、毛先の開いた歯ブラシを捨てるのも嫌だ。

胸がおののくのだ。

この「おののく」というのは、寂しさや欠如感とは違う。
ものすごい勢いで何もかもが離れて行っていることを実感すること。
瞬間、瞬間でほとんどのものが消えてなくなっているのを知ることだ。

昔、大学に通っていたころ、駅のプラットホームの石段に、先輩がヒラリと飛び乗って座ったことがあった。
それを見たとき、私は胸がおののくのを味わった。
特別仲の良い先輩ではなかったのだけれど、思ったのは、こういうことだ。
こんなやんちゃなしぐさを見られたのは今の一瞬だけだった。
もうこの先輩はこの駅には来ないかもしれないし、来たとしても、もうこんなしぐさをする若者じゃないかもしれない。一年後にはもう、違う人になっているかもしれない。若いときに出会って、こういう一瞬を見れたのは宇宙の奇跡くらいのことかもしれない。
そしてこの一瞬はものすごい勢いで離れて行くのだ。

その人がどうの、ではなく、一瞬一瞬で何もかもが離れて行くことを感じたのだ。

こういった程度の人との別れは、はっきり言って、悲劇的なことではない。
その人はこれからも、また誰かに出会い、おいしいもの食べて、生きていくだろうし、私もまた然りである。
悲しいとは全く言えない。

別れに関する痛みというのは、大人なるしたがって、鈍くなっている。こどものころや、若いときのように、何が何だかわからない状態にはならない。
免疫ができ、学習し、どのように対処したらいいかがわかりきっているし、逃げ口上も知っているのでどうとでもなるのだ。

でも、胸がおののくのは止められない。

開いた歯ブラシがあれば、きっと私は新しい歯ブラシを買うだろう。
新しい歯ブラシを買った私は、きっと開いた歯ブラシのことを忘れてしまうだろう。

忘れるというのはどういうことなのだろう。

私は、この瞬間も、ものすごい勢いで、大切なことを忘れていっている。
今日よりも明日、明日より明後日、大切なことを忘却しているはずだ。
それが健康なことなのか、切ないことなのかは、わからない。

悲しいことではない。
でも、次の瞬間が訪れた途端、前の瞬間はすっかり消えてなくなっている。
もうどこにもみつからないのだ。



私は何もかもから離れたいのだろうか。忘れたいのだろうか。わからない。

でも、もう会わないだろうという人たちからもらった温かみが、今も私を温めている。



ところで、マレーシアに行って、それからシンガポールを抜けて、インドネシアに渡ってから帰って来ようと思っていたけれど、萎えてきた。
インドネシアは怖いし、面倒な気がしてきた。
マレーシアを周って帰って来ようかな。お金も時間も大事にしなきゃだし。

最近はゆず湯に入っています。
あったかい。




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