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『微炭酸ニッキ』  山崎ナオコーラ

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果たしてあやまるのは意味があるのか?
2002年12月30日(月)

私が前から思っている疑問で「人間関係において、果たしてあやまるのは意味があるのか?」というのがある。

自分が失礼なことをしてしまった時、相手にあやまりたくなるものだが、果たして相手の立場に立つとどうだろうか。

相手としては、別に「自分が悪かったと認めろ」とか、「下手に出ろ」とか、そんな欲求は持ってないだろう。きっと全然別の欲求があるはず。

「自分がいて、相手がいる世界観」だと、ついあやまってしまうのだが、「相手がいて、自分がいる世界観」を持てるのならば、もっと違うことが出来るように思う。

例えば、「遅れてごめん」よりは「待っててくれてありがとう」の方が相手には効くはずだ。ごめんなさい、すいません、と使う場面で、ありがとう、を使いたい。(そう思うがそれも難しい)

兎に角、自分の場合は、相手にあやまられてもなんとも思えないのだ。
これは他の人にはそんなにいないかもしれないが、私は真面目にあやまられてもあまり心が動かない。
むしろ、言い訳が可笑しい時に許す。
面白い言い訳の方が、意味があるように感じる。

それで、つまらない言い訳だったら絶対許さない。

それは何なんだ、と思うに、こういうことだと思う。

面白い言い訳、と書いたけれど、別に面白いことが言えない人でも、それぞれの空気を持っていて、話をしているとふわってするものがあると思う。

人はそれぞれ空気があって、だから人と人とが話すと温度差があったり、
そうすると、つむじ風が起こると思う。

それで、つむじ風にやられると、許す、とか思ってる。

要はあやまるあやまらない、じゃなくて、
風にやられるやられないじゃないのか。

だからあやまらなくていいから、つむじ風を起こして欲しい、
と私は思う。




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