Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2017年03月07日(火) 「けーまがさ、高校生ん時、







ぶんぶんぶん、オザケンの復活に、声が劣化した、おじさんの歌じゃん、はなにつくな、と、わざわざわたしに告げないでください、う、こんにゃくの味噌炒め、おいしすぎる、



マイナス1度の空気を腕にあてて、その刺激に脳がだまされて、再生細胞は活発化させるらしい、遊び呆けているだけのジジイだよ、



オザケンの新曲「流動体について」「神秘的」をインストもセットにして4トラック、すでに100回はリピートしている、



早朝の羽田空港から帰ってきたら、知ったオザケンのニューシングル、



ドンキの和光店に麦茶が安いので久しぶりに、鮮やかに、元気づける、騒がしい店内、15年前のいくつもの夜の記憶が、それは楽しく、懐かしく、バンプの音楽とかも、



新しく生まれた気分、12時間も爆睡して身体が軽くなったから?、なだらかな夕暮れのマンションが建つ丘を照らす道のかたち、とか、



JKきよりんが、Bouno! 「こころのたまご」を、「けーまがさ、高校生ん時、友人2人乗せてきて、これかけたら、イントロ1秒でカーステのスイッチ変えたんだがー」と、全歌詞うたうおれに、「おとん、やばい!」とウケてた、



「ホップステップジャンプ、ドゥルドルウドロウン、チップシロップホイップ、いっぱいあるもん、」



「流動体について」「神秘的」、ほんと、すごい歌詞だ、一語一句解説したいぜ、緩んだ歌詞は一箇所もない!「カルピス」「イスラム教」というワードだってさ!オザケンの体験を共有できてしまうようだし、この音楽的高みは小澤征爾伯父と戯れるべきだし、でもさ、これはいちおう宗教みたいな現象だと押さえておくんだ、が、



なんだか生活全般に波及してきていて、港区のビルの夜中の谷間をフィーレコ耳で耳をすましてみたり、ひっそりと営業している定食屋の灯りをじっと見ていたり、友だちからのメールを読み返したり、



「もしも、間違いに気が付くことが無かったのなら!」





(読書用コピペ)

「魂が宿ったかの様に生き生きと」
津田 貴司·2017年3月7日
去年来、『君の名は。』に関してあちこちから賛否の評判をさんざん聞かされてきたが、どうもわざわざ見に行く気になれないので、ただ黙って無視してきた。話を聞くぶんには「生理的にムリ!」という類だと判断したからだ。その新海某の他の作品のTV放映をたまたま家人が録画しておいたので、新海どんだけのもんじゃい!と思って見てみた。結論から言うと、やっぱり「生理的にムリ!」もっと今様に言うなれば「むりむりむりむり〜」というやつである。こればかりはしょうがないし、そのことを土台に据えて文句つけるのは筋が違う。ただ、少し気になったことがあったので考察してみることにした。


私はアニメーションについては詳しくないし、知っているのはせいぜい宮崎駿か、子供の頃に見た「釣りキチ三平」とか、さらに幼い頃の朧な記憶の白土三平の「サスケ」アニメ版とか、大人になって観たアートアニメとかチェコアニメの類(アップリンク系?)なので、比較の前提が間違っているかもしれない。だが、だーっと暴力的に端折って言えば、アニメーションという言葉の原義は、生きているはずのない絵が、魂が宿ったかの様に生き生きと動く、ということなのだろうと思う。つまり絵にアニマがどの様にして宿るのか、という表現なのだろう。この「魂が宿ったかの様に生き生きと」ということに対する新海某の態度に、どうにも引っかかりともやもやした違和感を感じたのだ。


新海監督の『言の葉の庭』。冒頭から、まるでビデオカメラで撮影した様な質感の風景描写が続く。風にそよぐ葉や、雨に打たれた庭園の木々、風を伴いながら池の表面を打ち付ける雨の描写は、もちろんそれなりに工夫が凝らされた繊細な描写であると言える。しかし、その画面を見ていくにつれ、そこは新宿御苑であることがわかってくる。またその背景に新宿の高層ビルが描かれ、さらに「アルコール持ち込み禁止」とか「Z会」の看板、「十六茶」とか「金麦」とかの固有名詞まるわかりのペットボトルや缶などが出てきて、一気に興ざめするのだ。そこに上乗せされていく、ありえないくらいベタな登場人物設定(ありえないから!雨の日の公園の東屋で美女と二人きりになって会話が生まれるなんて、自己愛性の妄想の中にしかありえないから苦笑!)。反吐が出そうになった。だが、新海作品のラノベ的な甘っちょろさや、自分酔いの安い物語性についてのディスリスペクト言辞は、ここまでに留める。問題にしたいのは、そういう次元の話ではないからだ。


問題は、この「魂が宿ったかの様に生き生きと」というところについて、どうも新海某は勘違いしているのではないか、ということなのだ。誰もが知っている、現実にいかにもあるような固有の風景を細かに描写することによって、ストーリーにリアリティを呼び込むことができると考えたのだとしたら、それは先に述べたアニメーションという表現の原義に反するふるまいだろう。例えば、宮崎駿がものすごくいいとも思わないけれども、少なくとも、彼の一連のジブリ作品には、どこでもないどこかの草原を風が吹き抜けていく描写、あるいは目もくらむ様な谷底を電車が通っていく様、またあるいは空を飛びながら見下ろす浅い海の底に雲の影が写っている様、そのどこにも奇妙に焦点が合っていてくっきり手に触れられるように見える様、または穏やかな日常の続きに魔的な状況が突然たちあらわれてハラハラしたり、夢のような辻褄の合わない展開になぜだかどうしてだか安堵したりという心の動き、さらには大空高く上昇し飛翔する重力や浮力の動きそのもの、そこから落下する身体感覚、、といった、ありえないような事物や風景が、まさに「魂が宿ったかの様に生き生きと」動きまわるのだ。あるいはほかには、実験的なパペットアニメの、ローファイといっていいような仕組みの面白さも、同様に、動くはずのないものがまるで「魂が宿ったかの様に生き生きと」そのキャラクターを演じ、そこにアニマが宿るところにこそ、面白さがあるのだと思う。このような、「魂が宿ったかの様に生き生きと」ということ、それそのものが物語を紡いでいく様は、想像力の産物たるアニメーションだからこそなしうる表現なのだと思う。つまり、新海某のように、モデルになった場所を明らかにして設定に親近感を持たせようとすること(そこから、かの「聖地巡礼」というものが生じてくる)と、どこでもない、どこにもない、ありえない事物や風景にリアリティが宿るのとは、まったく別のことなのだ。


このことが、なぜ自分の中で重要であったのか。
それは例えば、フィールドレコーディングをどう扱うかということをめぐって虹釜太郎氏が述べる「セピア問題」ということに通じる。平板なピアノ曲の背景に、校庭で子供が遊んでいる音風景を重ねるとか、妙にキラキラしたエフェクトをまぶして多幸感と高揚感を演出するとか、演奏の背後に近所の夕暮れの気配が忍ばせてあり、そこはかとなく漂う郷愁とともに、何月何日どこそこで演奏したという遠い記憶の影を感じさせるとか。それは、音を、音の響きを、あるいはフィールドレコーディングを、音楽の額縁として使用し、都合の良い背景として音楽にセピア色の風合いを付け加えるだけの、まさに「ラノベ」的な安っぽさではないのか。そこに描かれるのは個人的な感傷の域を出るものではなく、ただの気障な演出にすぎない。音そのものに語らしめること、音そのものが「魂が宿ったかの様に生き生きと」語り出すこととは、まるで方向性の違うことなのだ。それ対して、たとえばAmephoneの、いつの時代なのかどこの街角なのかもわからぬ猥雑な音の織りかさねの様、あるいはmama!milkの『Quietude』の、いついずこかもしれぬ廃墟の響きそのものから演奏が引き出されていく様、さらにはMichel Donedaの、空間と相互に侵食し合いながら無限の奥行きに身を沈めていく様、そこには、「魂が宿ったかの様に生き生きと」音そのものが、音みずから語り出す様が立ち現れてくる。


アニメーションの原義がそうであるように、音そのものが「魂が宿ったかの様に生き生きと」語りだすためには、「音そのものをして語らしめる」という厳しさが必要なのだろうし、それは物語を運ぶ「メディア」やプロット組み立ての「素材」として音を扱わない、という厳しい態度の問題でもある。ありえない事物や風景にリアリティが宿るということ、それは、なにもアニメーションだけの話ではなく、音に関する話でもそうなのだと思う。







Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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