Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2015年06月12日(金) ジャパニーズアイス櫻花





おお、金曜日に定時上がり!ソファで午後のNHKみてて恵比寿でジェラートたべたいー
こないだ割引きチケットでラーメン食べに行った恵比寿にあったな
「ジャパニーズアイス櫻花」
店内は若くてかわいいOLたちで溢れているのでテイクアウトするしかない老人だ
かぼちゃ、かりんとう、まっちゃ。かな。

こりはサーティワンよりも美味いわ

月光茶房に寄って、ラ・セルヴァをクルマで聴けるようにしてもらお。


(以下FaceBookからコピペ)


福島恵一 そこは螺旋を巡るような動きがあるのではないでしょうか。つまり音色とか、音触とか、筆致とか、滲みとか、スパイシーな部分を食べている時期が続くと、もっとボディのある味わいが欲しくなったりする時期がまた来るのではないかと。それは前衛と旧守の間の振り子運動といった単純なものではなく、肉声の中に音彩を聴きとり、あるいは倍音の広がりに温もりを感じるようなかたちで、スパイラルアップしていくのでは。初期ECM30枚を遺伝子解析にかければ、another timbreやPotlatch、Unfathomless等のDNAはほとんど見いだせるのではないかと、今でも思っています(検証できてないけど)。そうした「耳のアルケオロジー」方向に掘っていき、以前には気付かなかった魅力を再発見する楽しみと言うのは確実にあると思うので、ここは早まらないでいただきたく。まさにそれってビブリオテカが与えてくれる悦びなので。
原田さんも多田さんも、日曜の晩に『熱帯雨林の毒気』にかなり当てられているので、ただいま様々な妄想や幻覚が去来しているところではないかと思います(笑)。すごい音楽を聴いてしまうと、「音楽なんて世界にこれひとつだけあればいい!」などと固く思い込んでしまったりするものですが、実際にはひとつでは足りないわけで。でも多田さんの言う「音楽的音楽の底が抜けてしまう」という感じはよくわかります。私も『松籟夜話』第三夜の準備をしている時に、「あー、もう『La Selva』だけあればいい‥」的なところへ落ち込んだりしたので。


原田正夫 FB投稿の【 ロード・トゥ・松籟夜話 第三夜 - その壱 】で取り上げた JAZZ TOKYO のコラムが2005年に書いたものなのでそのあたりがら徐々に始まった「耳」の変化だったと思います。一方、デレク・ベイリーと田中 泯の廃工場でのパフォーマンスの記録は聴いた当初からわけもわからずに興奮していた自分でもあります。
ジル・オーブリーとロペスあたりから「耳の変化」は速度を増し始め、反比例するように自分の中で「ジャズ度」は下がっていきました。益子さんのおかげで「ジャズ度」の目減りに一時ストップがかかったものの、先日のタダマスでは4枚目以降に何の興味も湧かなかった自分です。
ECMはそのすべてを処分することは無いと思いますが、全てを持っている必要は無くなったなと思っています。


30年ほど前の話だが、ある画家を紹介するテレビのドキュメンタリー番組を見ていた。自宅のアトリエで油絵を描く画家の姿が画面にしばらく映し出された。冬の午前中の陽光が射し込むアトリエに、キャンバス地をこするペインティング・ナイフの音、筆洗にナイロン筆を突っ込む音、画家の座る椅子が軋む音だけが静かに響く。BGMもナレーションも無い。室内の音のほかには、家の外の鳥のさえずりや遠くを走る自動車の音が時折、小さく聴こえるだけだ。屋外の物音の小ささと、それよりは大きい室内の物音の対比が、アトリエの静寂を際立たせていた。この時、言葉による説明はなにも無かったが、この物音のみの画面から、画家の作画への集中と緊張がより伝わってきて見ていてまったく退屈しなかった。
 どのような筆使いをするのだろう。ペインティング・ナイフの使いこなしは? 色の重ね方は?
 画面を食い入るように見つめるわたしの興味は、画家の作画の実際と彼の佇まいそのものだった筈だが、いつしかTVのスピーカーから聴こえる「物音」へと自分の注意が移っていったのだ。
 夏登山をしていて涼し気な川のせせらぎに耳を奪われる事などは、それはあまりにも自然な事として、その聴取のあり方を音楽と比較して考えた事などなかったが、この時の「物音」にはまるで面白い音楽を聴いているような興奮を覚えて新鮮な体験だった。表現を意図して発せられた音楽ではなくとも、感動を得る「音」と云うものがある。そうはっきりと認識をした最初の体験だったかもしれない。その時の画家が誰だったかは全く憶えていないのに、そのアトリエの中での数々の物音は今でもはっきりと耳に残っている。そしてその物音から想像させられるアトリエ内のひんやりとした空気や緊張感も、「音」の「付属物」として憶えている。

コラムを書いた時点で「30年ほど前」というのは、大学生の頃になります。
文中で夏登山にも触れていますが、川のせせらぎだけでなく、落ち葉や木の枝を踏みしめる足音、風に揺れる木の枝の音や、鳥の囀りなど登山では様々な音に囲まれ、その音のひとつひとつに結構気をとられるというか、山や森を歩いていて耳をそばだてている自分に気づくことが多かった。
文中にあるとおり、その「聴取」を音楽の「聴取」と同類に感じたり考えることは無かったけれど、この「アトリエ」の件で思い出すのは、そんな登山の「聴取」の折でも登山靴が木の枝や落ち葉を踏みしめる音や、川や湧き水の音には耳が吸い寄せられるというか、特別な何かを感じながらまさに自ら耳を向けて聴いていたのでした。
この「アトリエ」の件があっても、当時の自分はロック (当時だと渋谷のブラックホークに入り浸っていた頃です) ばかり追いかけていたわけで、すぐに実験音楽やテープコラージュやサウンドアートの世界に踏み入ったわけではありません。音を聴くことに関してはまだまだフレーミングされた中での聴取だったわけです。
ずぅ〜っと後になって、フィールドレコーディングやサウンドスケープなるものを知った時、真っ先に思い出したのが、この「アトリエ」体験でした。
「キャンバス地をこするペインティング・ナイフの音、筆洗にナイロン筆を突っ込む音、画家の座る椅子が軋む音だけが静かに響く。BGMもナレーションも無い。室内の音のほかには、家の外の鳥のさえずりや遠くを走る自動車の音が時折、小さく聴こえるだけだ。屋外の物音の小ささと、それよりは大きい室内の物音の対比」を聴くということは、今思えば「サウンドスケープ」そのものを聴くことでした。
この「サウンドスケープ」と「物音のテクスチャー」だけで成り立つ音楽 (それを音楽と言って良いのかわかりませんが) というものがあってイイんじゃなかと、この「アトリエ」体験の時に思ったのでした (このコラムの文章の後半でその事について書きました)。


















Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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