Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2013年11月02日(土) 妹が小3の娘と泊まりの付き添い看護




『中世の狂気−十一〜十三世紀−』人文書院6400円を自転車職人Wくんに見せてもらって、豊島区中央図書館で借りたはいいものの。

おいらもまずはBjorkは挙げたくなっていたけれど、揺らいだり耳の焦点が合わない感じというのは、日本の現代音楽の合唱にそういう技法があったとか、そっちのほうへの連想が重い。女性の声という点では、明治学院でのバッハの公演で高校生が16にん並んで歌った声の、若い女性の声そのものの天国性に舞うことへ、あと、30年前の小平かの創価学会施設での千畳敷の畳の間で女子中高生だけが100にん以上もでお題目を唱えている迫力の記憶、そういう異次元に。芸能山城組もクリネックス以外も聴いた記憶があるが、どんな肝だったか・・・、ケチャか。

反例としてのエンヤ。レディオヘッド。命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲーム!

ステテコでベーコンエッグを食べてて、ももの内側にしょうゆのしみをつける。

カメラが神社の願掛け札を映してて、「××死ネ」の札にノイズが混じり若い女性がかっと見開いた顔がななめに映り込んだ、まさに「生き霊」が映っていた、さっきテレビでやってた。おおこわ。

なんか知らんけれど、平沢進のトラックを5つ並べて編集CDRに入れておる。

われ思う。「もはやジャズもインプロもロックもクラシックもフィールドレコーディングスも売り場の仕切り板になりつつある」という記述は安易だ。奏者は何を持ち、何を出し、何を狙っているのか、何がしたいのか。何に突き動かされているのか。

サイトウキネンオーケストラの今年の夏、3年ぶりの小澤征爾、を、観ながら寝る。冒頭に、ジャズピアニストの大西順子がラプソディーインブルーかなんか弾いて、小澤に「こうじゃないと、入れないんだよー」などと指導されている。良かったねー、大西順子、弾く場所が見つかって。大西順子は90年代日本のジャズピアノの頂点で、完成形のフォーム。

ジャックよ、「AKBとかももクロとか」と並べないでほしい。それは、ディープパープルとレッドツェッペリンを、ペーターブロッツマンとデレクベイリーを、チックコリアとキースジャレットを、パフュームとぱみゅぱみゅを、並べて語るような粗いものなのだ。

ももクロの「灰とダイヤモンド」ガイシホールを、耳をすまして、フィールドレコーディングを聴く解像度で、オーケストラの響き、ピアノの打音、ギターのストロークの、拡がる空間的配置を、そしてかなこの「ここはどこなんだろう」という歌声の入りを、味わっている。

スピーカーをどう鳴らすか、という言葉があるけど、鳴るサウンドを耳の受信する空間でどう配置し、どう解像度を設定し、どう鳴ってほしいかを渇望し、それを創造する。同じ音楽がいつも同じようには聴こえていないことは、この創造の可能性を示唆していた。

佐々木敦の『即興の解体/懐胎演奏と演劇のアポリア』を図書館から借りていた。最初のほうから、読めなくなってしまった。そのようには問題立てて聴いていないのだった。完全即興のテーゼとはうらはらに、ぼくにはパーソナルな演奏に、聴こえるわけだし。問題となっているのは、彼らは何を聴き、何を弾き、反応し、図形美なり色彩美なり強度としか言えない事態を引き起こしているか、だから。この本を読んで、若者たちは即興演奏の何を聴いているのだろう。

久しぶりに、チャールズ・ロイドの『ウォーターイズワイド』(2000)ECMを聴く。





画像は横浜駅2013。


妹が小3の娘と泊まりの付き添い看護。

「朦朧となりながらも、気遣っているところが、パパらしくて、めんこい。麻薬の副作用で、時々キレて、さわれないことや、外務大臣!!と言っていることもあり。他人には、子供のように泣く事があり、看護師さんに、おまかせして甘えていることも。パパであり、祖父であり、俊夫ちゃんでもあるのです。勉強になりました。」


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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