Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2012年04月18日(水) ザッピング「タガララジオ26」テキスト

二月堂のお水取り、3月12日深夜、奈良へ向かう東名高速でこの曲になみだが出てきた。3月のお水取り、ジョビンの「三月の水」じゃねえか!・・・なんて子どものような言葉遊びは本気だい。

ふふふ。サルヴァトーレ・シャリーノ、それから、ジル・オーブリー、この視野とレベルの音楽は確実に到来するだろう。耳の臨界点はがーっと上昇して、もう昨日までの音楽はバスの最後部で見送る景色のようだ。

モーガンが化けたと世界で最初にぶち上げたのは、お、おれだぜよ。07年の『日野=菊地クインテット/カウンターカレント』に愛情を込めて「足を引っ張っているのが世界のヒノテル」と記したレビュー、「じじいのせんずり見せつけあいショウにおれたちはついてゆけない」という名セリフを刻んだ『ポール・モチアン Trio2000+Two/オン・ブロードウェイ vol.5』のレビューがその証拠だ。

深夜の八百万の山河がわきたつようだった。圧倒された。この圧力、この力量、この漲り。聴きながら必死だ。

「あの日 突然に 離ればなれになった瞬間でさえも思ってた 君のこと 好きになったことも 忘れないことも 大丈夫だって」、失恋とか離婚とか大震災とか、人生にはこれでもか!というくらい辛いこともあらあな。

この「エヴァンス〜ジャレット〜メルドー」を根こそぎ更新してしまうピアノの技術や質感は、むしろクラシック界のシフやピリス、岡田博美との参照で捉えるべきものかもしれない。それはいわゆるジャズやクラシックの越境といった事態ではなく、自然に音楽が進み出た視界なのではないだろうか。その意味で「ハーシュは21世紀の革新者である」(ニューヨーク・タイムス)という指摘は正しい。

「あれ?こないだフリッパーズ・ギター、再結成したよねえ?」と昨日きいたぞ。ほんとかよ、「恋とマシンガン」のスイング感でジャズなんて一発さ。ジャズ喫茶で「ECM全部聴いてきたよ、でも小沢健二のライフ一枚あればみんな要らない」と言って誰かさんを困らせたりしたっけ。

長いトンネルを抜けるときには、それがそうだとわかるものだし、何に囚われていたかも次第にわかってくるものだ。

準拠するモンが無い自由というのかなあ、フリージャズでもアヴァンギャルドでもないよこれ、不思議な道なき道を行く童貞力のチャーミングさだ。こら!メアリーに童貞力言うか!

こ、これは!ECMニューシリーズの第1作『アルヴォ・ペルト:タブラ・ラサ』ECM1275(「現代音楽の風景を一変させた」と評される歴史的な作品)の「ベンジャミン•ブリテンへの追悼歌」での鐘の響き、・・・オーケストラが沈み込んだ轟音を響かせて終わってゆくのに、オーケストラが響き終わって静寂が現れるところ、鐘の残響がふぁーんと立ち現われてくるあの身動きできない音楽的体験ではないか。

キース・ロウはあれだ、グルジェフ信奉であるし、禅とかが基盤にあって奏でているだろ。AMMが即興シーンで孤高の存在だった理由のいくばくかもそこか。弱音系だか音響系とかの新しい世代は、彼から出てきた系譜ではないだろうか。アーストワイル(レーベル)の良さも、そうだね。デヴィッド・シルヴィアンがアーストワイルのスタジオに来たりしていたのも、つながる。

日本はTPPではなく、TPTに襲われるべきだ!(あちゃー)

アニメ『荒川アンダーザブリッジ』(傑作だよん)のDVDを観ていて、金星人を自称する電波系美少女ニノ159cm43kgの声をやっているのが坂本真綾かあ、と言っている、今ごろ!わはは。おいらの遺伝子史上最高傑作は第一子の長女かなみん24さいなんだが、アニメ好きだとか腐女子だとかいろいろ言うが、いつもアニメの世界にいるような毛糸の帽子をかぶって夕暮れお魚屋さんのOL仕事を終えて帰ってくるのを、かわいくてこないだは抱きついてきた(!)、2さいの頃府中競馬場に肩車をしてダービーの馬券を買いに連れていった小さな公園、「おぼえてるよ!おとうちゃんのおでこがあぶらでべたべたしてやだなーって思ってた!」。ニノにそっくりになってるし。

ギターのネウフェルドは、タイショウウン・ソーレイやジェラルド・クリーヴァー、ダン・ワイス、トニー・マラビー、武石務らとの活動をしており、自己のグループでのビリー・ミンツBilly Mintzというドラマーについてはわたしはちょっとときめいたりしているのだが、と、まあ、ミュージシャンつながりを言うのも何だが、見逃せない存在だ。

彼らの頭ん中にあるのは、フリッパーズ・ギターみたいな全音楽引用を無邪気に編むような楽しくて楽しくて仕方ないという創造のかたちだ。分析するのは困難かもしれない、だけど、中に入ってしまうことだ。そりゃどんな音楽でもそうだろ!

この坂本真綾のファーストは捨て曲なしの名盤なんだが、「約束はいらない」でもこの鐘鳴りアレンジは実に効果的に施されており、加速はパットメセニーを思わせるし、2:00に突如バグパイプが大地から響き渡るさまは・・・

間違いなくモーガンのベースは世界最高峰に到達している。

この音楽に出会ってしまうような出来事が、いま悲しみの淵にいるようなぼくや誰かにもきっと訪れますように。それで、この音楽の純度が、そのまま現在までの小沢健二の歩みに続いているということ。

「Floating in Time, Hiding in Sight」
浮遊するサウンド、音の背後でそれは見えない
・・・ぜんぜん意訳になってねえ!が、本質を見据えたいいタイトルじゃねえかNYタイムスよお。

坂本真綾を聴いたのは、ミシェル・ドネダ〜斎藤徹『春の旅 Spring Road 01』をrovamimi Jazz/Improv AWARD 2002年間ベストに挙げた翌年に『少年アリス』(これぞ最高傑作!)からかな。

東京タワーをバックに背伸びをする内ジャケ。

プーさんは演奏にまったく満足していなかったところ、モチアンが心配して、その録音に介入し、2曲カットしてアイヒャーと仕上げてしまったんだようだ、それを聴いてプーさんは耳をチェンジしたってんだから、凄まじいものだ。ジャズの現代史だ。

オリジナルなヴォイス。これを獲得したサックス奏者橋爪。天性のメロディー・メイカーの橋爪。そして、市野、橋本のプレイに耳をすますと、橋爪がニューヨークに行かなかった理由が判然とする。>単独のCDレビューを掲げました

ああ、そういう録音なのです、感じます・・・。即興とかAMMがそういう演奏を許すのか!と原理主義者みたいな意見もあるかもしれませんが、え?ナシなの?そんな偏狭な制約は無いでしょう?とわたしは思うわけです。

プーさんはシンプルに「自分のランゲージを深めているだけだ」「アヴァンギャルドを演ってるんじゃないよ」とだけ、読者向けに基本的ななヒントを与えている。ぼくにはメアリー・ハルヴァーソンのうなじにも「Play Your Own Thing」にも、「Stay Hungry, Stay Foolish」にも聞こえる。

ヴェサラの『ナン・マドル』(ECM1077)に雅楽の響きを聴き。

ギターのストロークから始まって、鐘の音が鳴る。サウンドの背景に鐘の音が鳴り続け、5:00からいきなり空中に投げ出されるような浮遊感、これは驚くべき音響効果である、この謎は解けていない、そして、楽曲がギターの最後の一音を響かせたあと、その残響の中に、鳴り止んだはずの鐘の音がまざまざと立ち現れてくる。

2010年の年末、ジャズの殿堂、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで75年の歴史の中で初めてピアノ・ソロでの一週間公演(6日間12セット)を果たしたフレッド・ハーシュ。このライブはCD『アローン・アット・ザ・ヴァンガード』(Palmetto)となり、即座にハーシュはグラミー賞にノミネートされた。

え!このフィールマイセルフの残響を検証された福島さんから、ギターの最期の一音の残響が鐘の音の残響音程と一致しており、実際には鐘の音は聴こえないにしても、明らかにそれを狙っている菅野よう子の天才性を指摘された。・・・え?鳴ってない?おれのグランディスで大音量でかけるとたしかに鳴っていた気がするのだが・・・ほんとだ、鳴ってないや。

さあ、これまでの流れから、現代ジャズのめがね女子メアリー・ハルヴァーソンのギターに耳をすますのがタガララジオの流儀だ。この経路でやって来なければきっと迷うと思うんだ。ジャズだと思うから、インプロと思うから、新しいと思うから、Thirsty Earだと思うから、アンソニー・ブラクストンとこの学生だと思うから、あれ?あれ?となる。・・・ならないか。

ニューヨークタイムス、ちゃんとプーさんの、あえて書くけど現代性を、認識してる。欧米のクリティークは、テイボーンの新しさにもキチンと反応していたし。能も、石庭も、怪談も、欧米に見出されて自分に気付いている日本だったりしているのと同型なのかい。

ハルヴァーソンに注目したのは、コンポストを熟読したいた頃に八田真行さんのレビューで即購入したんです。

全国で(つまり全世界で)18枚しか初回予約が入らなかったというコアなブツになってしまってはいけないだろ。全国の自治体および教育機関の図書館仕入れ担当者の皆さま、民衆のリクエストに応じてAKBや五木寛之やジブリのサントラの同一作品を6点も揃えることだけが責務ではないと思います。

深夜にEXILEのDVDで岡村隆志が警備員姿で闖入するRising Sun聴いてカンドー(岡村ちゃんのダンスうまいよ!おお日本が復興するための歌なんだなあ!)してたんだが、SunriseのプーさんがNYタイムスにという・・・、ポリドール時代にBambooレーベルを立ち上げてコアなJAZZシーンを牽引した五野洋さんがFaceBookでシェアしたのをかわきりに、トリオレコードにいた原田和男さん、現代JAZZ批評家益子博之さん、カッティングエッジなレーベルSongXJazzを駆動する宮野川真さん、そして我々現代JAZZリスナーを育ててくれたマーク・ラパポートさんが次々と祝砲のようにシェアしている。ラパポートさんは、40年かかったがラブユー!プー!と短かくも万感伝わる投稿だ。

これまた凄いものを聴いてしまった。わたしと堀内さんが主宰する音楽サイト「musicircus」で、「2011年に聴いた10枚という企画を、多田雅範、堀内宏公、若林恵、長井明日香、岡島豊樹、福島恵一、益子博之、原田正夫(敬称略)、ONE PIECEの面々が音楽の海原を海賊するイメージで、わたしは読んだわけですが(すいません)、日本の伝統音楽の深淵を探求する堀内さんと、インプロから音響からディストピアアンビエントまで論ずる耳の熊楠たる福島さんがともに沢井一恵の本作をピシッと棋盤に金将を指すような、選出。

NPR(National Public Radio)が「プーさんと呼ばれるピアニスト(A Pianist Named ‘Poo’)」という動画付き記事を掲げたこれをFace Bookでシェアしてくれたのは益子博之で、昨年の名盤『Motian Sickness モチアン症候群』のジェフ・コスグルーヴがシェアしたものだそう。・・・うー、世界が正義と信頼に満ちてきたみてえだ・・・

デビューアルバムの1曲目、坂本真綾と菅野よう子の第一子(おいおい)がこのフィールマイセルフである。

TPTはピアノ、ベース、ギターというドラムレスの編成。おれは彼方にジョー・マネリ尊父の『三人歩き(ECM)』(ダウンタウンの伝説盤)や嚆矢であるジミー・ジェフリー3までを耳に招聘する。

ラジオは桜前線が長崎に岡山に、今年は遅いですねと話している。ぼくは「2011年に聴いた10枚」で『韓国の伽耶琴(カヤグム)/金竹坡』を耳にして、おそらく共時的にここに来ていたのだろうかと思う。韓国も日本も音楽のつながりは太古から綿々とあることが感じられるし、西村・沢井・齋藤は今ここでという現代性でリレーしている。この圧倒的な贈与された感覚、途方もなく届かない思い、といったものは、個人的にはECMを聴き始めた頃の価値と地続きである。おいおいマンフレート、このCDはアマゾンでも売ってないゾ、邦楽ジャーナルでしか購入できないぞ、なんなら送ってあげようか?そっちでは桜前線を待ってうきうきしているアジアの片隅のわたしにはなれないって?

ベースのモーガン、ギターのネウフェルド、同じ81年8月生まれの30さい、ともにプーさんやモチアンに負けない耳の良さがわかる。プーさんというと、ピーコック、モチアンとのテザート・ムーンの黄金のトリオが挙がるが、もうピーコックはいらないだろう、この二人モーガン、ネウフェルドの若き畏れを知らない才能にプーさんのピアノはさらに先に出ている。プーさんはこの演奏に“ensemble improvisation”という語を用いている。おれは・・・、名人の舞う能を感じさえしている。

益子博之が『Sunrise』について、モーガンのベース音へのフォーカスを指摘しており、堀内宏公も「モチアンの関与の核心はそこでしょう」と分析していた。おれは「モーガンがすげー!」としか言えてなかったな。

TPTの演奏がひとたび始まれば、身動きできない漆黒の無重量状態になってしまう。今はそうとしか書けない。

イントロから、到来するような気配・・・。楽譜の根底にある韓国リズム「クッコリ」の原形に近いところで演奏したくて、楽譜に指示された打楽器ではなくコントラバスの齋藤徹との協演となったという。・・・西村朗も、沢井一恵も、齋藤徹も聴いてきた、し、7手先までは余裕で読めるゾ、なんて構えで聴こうとする自分がいて、しかしね、薪で炊いたごはんの味わちがうううんですよお、というオバハンみたいで、どこがどう美味しいとかグルメンなこと言えんのですが、演奏にトランスしていたとか憑依していたとか所在がわからなくなる時間にこちらもチューンインしてしまう演奏だし、現代音楽のコンポジションにも十七絃にもコントラバスにも還元できないもんが、そこには西村も沢井も齋藤もいないふうにただただこちらは漂って聴いて、いみじくもライナーで齋藤が「録った音を聴くと生き物のようにうねっている」と書いたところに到着する。

そこまで書きますか堀内さん、と、アマゾンして・・・CDプレイヤーのスイッチを止められない、動かし難く、引力が・・・スピリチュアル・ユニティみたいな出会いだぜ・・・不用意に聴くと頚椎がやられるぜマジで。そ、それにしても何なんだこれは。ああ、雅楽ね、なんて絶対一蹴できないって。お正月にテレビから流れる雅楽は全部ウエハースだ。これぞまさしく原液。漆黒の闇の中、四方八方から矢が飛んで来て、足元には撒きビシ、身動きはできない。笙の響きのゆらぎ具合、笛の空間描出、鳴り物の絶妙、・・・あらゆる耳の聴取の必殺技が完封されている体で必死なのだ、顔はひきつり、・・・このサウンドの畏怖は。

04年にキース・ロウはAMMを脱退しているんだって?・・・AMMはプレヴォーとティルベリーのふたり組になってしまったのか。ふうううん、て、あんまり関心無さげ、M.I.M.E.OとPhosphorまでは追いかけたこのシーンではありましたが最近聴けてません。キース・ロウは好きでねー、『AMM III / It Had Been an Ordinary Enough Day In Pueblo, Colorado』(Japo/ECM)を最初に聴いて今でも「Radio Activity」を脳内再生させてうっとりとしている。

わかった音楽は次々と生彩を失ってゆく。わかるようなわからないような謎が音楽を聴かせる。衝撃は謎だ。あなたのことがもっと知りたい、だから音楽は女神。

この2枚組のラストトラック。「ニセコロッシJAPAN2011」で書いた、耳の飢餓感を煽るブラコンのバックトラックみたいな快楽は、その演奏の最後にキーボードは余滴のようにビーチボーイズのグッドヴァイブレーションを仄めかすキーを置いているところでブレイクする。それはもう熱病のウイルスのように、予感を暗示する。アメリカンミュージックが視た夢の果実のひとつである。アップル・コンピュータだよ。Stay Hungy, Stay Foolish が向こう側に見えるんじゃないかと思うような。

「ライフ・イズ・カミン・バック!」、おざけん26さいの声を書きたいのだ。

ハーシュは08年に持病のエイズが悪化、昏睡状態から、気管を切開してチューブで摂る状態が8ヶ月も続いていたとのこと、そして、奇跡の復活。死の淵から帰還したハーシュの演奏について、天使の指を持つとはただの形容句ではない。おれはね、音楽の神さまが「ちょいとフレッド、まだ弾くべきトラックがあんじゃねーの?」と、

中学生になった次男が「アジアン・カンフー・ジェネレーションていいんだよ!」と言い、おれは「なにい?エイジアン・ダブ・ファウンデーションのほうがすごいぞ!」と返答していたあの日。次男と日本武道館へアジカンを聴きに行って、アリーナで立ちっぱなしのライブは気持ちは乗っても体力が続かないのでそれ以来引退している。アジカンとバンプでおれの中のミスチル時代が終わり、アジカンバンプ時代はラドウィンプスで終わりを告げ、そのあとは相対性理論、世界の終わりが一枚だけ熱病になって、去年はHIATUS(ハイエータス)だったかな。少女時代か。

これが阿波踊りのリズムだなんて、ほんとうだー!
長井明日香「2011年に聴いた10枚」

昨年は震災の影響で延期された「コンポージアム2011)」が1月に行われた。悠さんのレビュー「音響についてのとらえ方の変更を迫られる思いを強くした」という、わたしもこのCD3枚組を聴いてのけぞっています。サルヴァトーレ・シャリーノ。こんなに耳に鮮やかなのはペルト、シュニトケ、グバイドゥーリナに遭遇した以来のことだ。現代音楽のCDでこんなに没頭できるのは『射干玉(ぬばたま) ── 小山薫の世界[作品選集]』以来だ。

菊地成孔の公式サイト第3インターネットで、ミュージックマガジンを撤退します、という記事!松尾、寺島、後藤、中山みんな出てきて、つい平岡正明著『毒血と薔薇』の解説で書いた寺島×平岡論争読み解きまで思い出す。そこには「清水先生亡きあと」と文字が並び、思えば菊地も大友も清水俊彦チルドレンであるはずだ。帝王油井正一は清水俊彦に阿部薫へ連れて行かれて「こういうのはわからない」と言ったという。すごい逸話だな。こないだ後藤雅洋が菊地雅章を「わからない」と書いたのもえらい。・・・この、菊地が後藤をディスった直後にコンポストで村井康司が素晴らしい菊地成孔特集を始めた。ちょっと政治のにおいでうまく読めない。菊地成孔、日本ジャズ村を完全制覇の観が。アウンサンスーチーか。みんな出てくるオペラみたいだ。

フレッド・ハーシュ。1955年オハイオ生まれ、子供の頃からピアノを弾き始め12才のときにはシンフォニーを書いている神童。ボストンのニューイングランド音楽大学で教鞭をとる。あのブラッド・メルドーが教え子だときいてメルドーの謎はいくばくか解けた(メルドーはレディオヘッドとハーシュでできている!)。バッド・プラスのイーサン・アイヴァーソンも教え子である。いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャンの存在ではあるが、ハーシュはビル・エヴァンスを研究しつつ、その後のジャレット、メルドーの数十年にわたる王権を、ジャズ語法的に空中に跳躍させるのではなく、執拗に一音一音正攻法で音のロジックを追い詰めてゆく手法で覆そうとしているようだ。

それはこの冒頭の躍動に現れていると思うんだけど・・・。

現代音楽を現代音楽たらしめいてるのは、オーケストラの表現だろう。おお、すごい誤った断定。オーケストラの維持とか音楽学生の作曲家育成費用とかのインフラにどれだけの税金が投入されているのか明らかにするような現代音楽評論はどこかにないのだろうか。

ハーシュもプーさんも、音楽の神さまから地上に返されてきたってわけか!

絶望の淵にあったことがあったとかなかったとか、だれかはだれかの昔話をきくこともあるかもしれない。菊地成孔の粋な夜電波でこの曲流れて、即座に泣けた。このトラックがぼくを触発し、何か次の場所まで行けるような気持ちにさせた。


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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