Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2009年02月11日(水) 上原彩子 ピアノ・リサイタル

上原彩子 ピアノ・リサイタル

2009年2月11日(祝) サントリーホール 大ホール 

一柳慧:ピアノスペース
グリーグ:抒情小品集より
第1集 第1曲 アリエッタ Op.12-1
第8集 第6曲 トロルドハウゲンの婚礼の日 Op.65-6
第9集 第4曲 山の夕べ Op.68-4
第9集 第5曲 ゆりかごの歌 Op.68-5
第10集 第3曲 小妖精 Op.71-3
第10集 第6曲 過ぎ去りて Op.71-6
グリーグ:ピアノ・ソナタ ホ短調 Op.7
グバイドゥーリナ:シャコンヌ
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 Op.84
アンコール;
リスト:愛の夢
リスト:鬼火
ラフマニノフ:前奏曲op.23-5

すばらしいコンサートだった。プロコフィエフって、こんなに奥深いものなのか。上原のピアノが、プロコフィエフの音楽にある扉を次々に開いてゆく。

まずは上原彩子のこのプログラムに驚いていた。一柳慧、グリーグ、グバイドゥーリナ、プロコフィエフ、という、おいらの耳の中では全部違う引き出しに入っている作曲家たちである。おぜうさん、なにゆえ?会場でいただいたパンフレットに上原は「今現代曲と呼ばれている音楽もあと何十年か後にはそう呼ばれなくなることを思うと、やはりその曲が創られたのと同じ空気の中で皆さんと共に音楽を楽しむ素晴らしさを強く感じ」演奏することにしたという、なんともすがすがしいたたずまい。これら、を、それぞれ、テクニックの突出を感じさせずに歌う感触・・・。文章でこう書くのは簡単だが、すごいことなんだぜ、みんな。

一柳慧の曲は現代音楽のコンサートでどのように弾かれると十全であるのかがすでに確立してしまってるだろ。おれもう聴こえるよ。んで、よくできましたね、という具合の。ところが上原の演奏は、そんな確立されたものには触れていない。作曲した一柳慧も想定していない美しさを弾いたんだが、その美しさをうまく言えねえ。何てんだろうなあ、カンペキなのに初々しくてきらびやか。それじゃ、わかんないか。上原は大切なものをいとおしむように扱う。おれ、なぜか想起していたのが小学校の頃、押入れの布団の間にあったケセラン・パサランを発見したときのこと、この世とあの世の境目に光り輝くような沈黙にじっとしていたときのことをを思い出していた。上原の弾いた一柳慧はケセラン・パサランのようだった、と、おれはおれに向かっては書けるけど、みんなに向かってはさすがに書けない。たぶんなー、シフだって一柳をこうは弾けないだろう。一柳は来ていなかったのか。どうだったかきいてみたい。

グリーグにしたってそういうところがあった。グリーグらしいグリーグというのもそれこそ山のようにあったわけだけど、やはり上原の演奏は数段違う。楽曲のキモの部分と足元の部分と、そういう二分があるともほんとは言えないんだが、足元の部分、旋律のおしまいや一瞬の間に、扉が開かれている。開かれていると書くとそこに空白があるように思われても困る。上原の指の一音は、どこの部分にも強さと優しさがピタリと合っている。自問する、こんなにも耳が離せないでいる、というのはどういうことだろう。

グバイドゥーリナも現代音楽感なしである。グバイドゥーリナがどういう躍動を描写したくてこのスコアになっていたのか、上原はちからづよく、しかし、おれはそもそも楽譜が見えるような演奏は評価しないが、上原はグバイドゥーリナの創造を魔法のようにヴィジュアライズした。いかんな、つい魔法のようになんて小学生みたいな形容をしてしまうが。おれは悪口は得意だが、どうも素晴らしいのをうまく言えない。

東芝EMIから出た最新作『プロコフィエフ作品集』のピアノに片腕ついてうつむいているジャケを見ながら、どういうお嬢さんなんだろうと思っていたが、ステージで初対面した上原は子どものような笑顔で、おなかには赤ちゃんが宿っているようだった。そこで母性がどうこう言ってはならんのだけど、おなかの赤ちゃんも聴いているんだな、と、やはりおれはこのグリーグの素晴らしい演奏に思うんだよ。上原は言われたかないと思うだろうが。そして、妊婦であることがなにか演奏をゆがめているところなぞ微塵も感じさせない、彼女の演奏だったことは強く書いておく。

プロコフィエフのピアノ・ソナタというのは、そうか、なるほど強鍵奏者たちの歴々の名演奏に飾られてきたのだ。おれなんかそういう名演をCDで聴いてきては、「あ、そう」てな程度よ。今まで感動したことないよ。ごりっぱねー、と思うだけでいたの。ところがねー、この日の上原の演奏は真っ白の状態から一瞬ごとにプロコフィエフの楽曲にひそむ閃きが次々と立ち現れてきているのがヴィジュアルに感じられるようなもので、ぼくは演奏を聴きながら時間を忘れて上原と一緒に歌った。歌ったというのはもちろんメタな表現で、上原と一緒にめくるめく旅を体験したとも言える。プロコフィエフのピアノ・ソナタは重層的で奥が深い。フォルテをガツンと決めればプロコになってるなんて、ないから。


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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