静かにパニクるゆきちゃん - 2008年11月14日(金) 仕事のできない新人はいつでも悩みの種だが、教育のやり方でどうにかなる人もいれば、残念ながらどうしようもない人もいる、という話。 仕事帰りにいつものうどん屋に寄ると、見慣れない店員さんがいた。 新人さんらしい。 ベテランのおばちゃんに「ゆきちゃん」と呼ばれている彼女の第一印象は、清潔感のある容姿で返事もはきはきしていて気持ちよく、実直でまじめな人柄を思わせるものだった。 年はわたしと変わらないか少し上、30代前半といったところだろうか。 ところが、どうも様子がおかしいことに気がついた。 だいたい金曜の深夜の客もまばらな店内に、接客係がおばちゃんとゆきちゃん二人いるのに、客が帰った後のどんぶりが下げられもせずそのままになっている席がいくつもあることからしておかしい。いつもは調理係のおじちゃんが配膳まで含めてひとりで回しているのに。 仕方ないのでカウンター席に座る。 厨房で何か異変が起こっているらしい。 奥のおじちゃんに直接かけうどんを頼んだ後、なんとなく気になって、厨房の様子をそれとなく伺っていた。 おばちゃんも奥のほうでばたばたと忙しげに動き回っているが、ゆきちゃんはカウンター近くで記入済みの伝票を片手に同じところをひたすら行ったり来たりしている。 「えーっと…」 「○番テーブルがあそこだから…」 とぶつぶつつぶやいているのがいやでも聞こえてくる。 自分がさっき注文を取ったテーブルが何番テーブルかわからなくなったようだ。 おばちゃんに聞けばいいのになあ。 おもむろにゆきちゃんはあきらめたのか 「かけうどん大盛り、トッピング肉とわかめでお願いしまーす」 と調理コーナーに注文を通す。 まだ通してなかったのかよ。 しかもそういうときは 「うどん大盛り一、肉わかめです」 じゃないのかよ。 従業員ではないがいつも行くので手順を覚えてしまっているわたしの心配など知る由もなく、ゆきちゃんは案の定おじちゃんに 「そういうときはこう言うんだよ」 とレクチャーを受けている。 このときはまだわたしはゆきちゃんに同情的だった。 たまたまおじちゃんもおばちゃんも忙しくて、仕事を覚えるにも覚えにくい状況なんだよね。 もしかしたら事前のレクチャーも十分でなかったのかもしれない。 さて注文を通したゆきちゃん、まだカウンター内で意味もなく右往左往している。 やることが見つけられないらしい。 とりあえず、客席の食器を下げてはどうだろうか。 それに流しにはまだ洗っていないどんぶりが山積みになっているよ。 奥の仕事が一段落したおばちゃんがカウンター前に戻ってきた。 人気メニューのかしわおにぎりが残りわずかとなっているのに気付き、おばちゃんは急いでその仕込みに入る。 ゆきちゃんはひたすらうろうろしながら、意味もなくエプロンを結び直したり、帽子をかぶり直したりしている。 ていうか調理場で帽子を脱いだらダメでしょ! がんばれ、落ち着けゆきちゃん。 勇気を持って聞くんだ。 「何をすればいいですか?」 と。 たとえおばちゃんに呆れられてもいい。 新人は恥をかいて仕事を覚えるもんだ。 聞くまでもないような気もするけど…。 新しい客がたて続けに3組入ってきた。 意気揚々と注文を取りに行くゆきちゃん(客が入店する→注文を取りに行く、はわかるらしい)。 そして伝票の書き方がわからない。 「えーっと…」 「ざるうどんの書き方は…」 とカウンターの中で思い悩むゆきちゃん。 さすがにおばちゃんも気付いて 「うどんに丸つけて『ざる』って書いとくよ」 とレクチャー。 テンパりながら記入し 「伝票は赤ペンで書いてね」 とダメだしを食らう。 ていうか、せめて注文取りのついででいいですから、他の客席の空いてる食器を下げてほしいんですけど…。 さて先ほどのかけうどん大盛り肉わかめトッピングが出来上がり、ゆきちゃんはお膳をととのえる。 その間にも 「なんでそっちにレンゲがあるの、レンゲはこっちよ」 「伝票は赤ペンでね」 と再度ダメだしが飛ぶ。 それさっきも言われてたよね。 なんとかお膳が完成して、おぼんを両手に持っていざ配膳!というそのとき、ゆきちゃんは「えっ?」とうどんに顔がつきそうなくらいに深々と伝票を覗き込み、そのまま固まってしまった。 「どうしたの?」 とおばちゃんが伝票を取り上げてチェックする。 先ほどテーブル番号がわからないまま通していたので、どこに配膳したらいいのかわからなくなったのだ。 おばちゃんが素早く客席を見渡し 「ああ、これはあそこのお客さんよ、まだだったったいね。急いでね」 と状況を察知して指示。 「いやでも、8番って…」 とゆきちゃん。 「だけんこれは番号が間違っとるとたい」 「ああじゃあ、書き直してから…」 「いやいや、いいけん、とにかく急いで持っていって」 と、このやり取りの間、ゆきちゃんはかけうどん大盛り肉わかめトッピングに息が吹きかかりそうなぐらい顔を近づけた状態で話し続けていた。 ゆきちゃん…。 それはダメだよ。 今から客に出す食べ物なんだよ。 戻ってきたゆきちゃん。 ちょっと前に自分で取ったはずの伝票の中身さえ把握できてないというのも、まあ新人だから仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。 しかしさっきの帽子といい、顔面うどん大接近といい、どうもこの人は飲食業で働くにあたって一般的に求められる衛生観念に欠けている人らしい。 うまいラーメン屋で頑固親父が親指突っ込んで持ってくるラーメンもいやだが、それともまた少し違った感覚の欠如を感じた。 おばちゃんは誰かに電話している。 注文も立て込んできたのにどうしたのかと思ったら 「そうそう、うん、なるだけ早く頼むね。ごめんね。」 他の店員に呼び出しの電話をしていた。 まあ、うん…。そうか…。 そんなことは露知らず、ゆきちゃんはおじちゃんのところへ行き、さきほどの不手際を謝る。 「まあ初めてだけんね」 とにこやかに許すおじちゃん。 やる気をアピールしたいゆきちゃん、精一杯の笑顔で雑談を交えながら 「レジの仕事も習わないといかんですね」 とか言っている。 さすがに困惑して何も言えないおじちゃん。 そのうちうどんの茹で上がりを知らせるタイマーがピピピと鳴り響き、おじちゃんはさらに奥のうどん釜のほうへ逃げるように歩いていった。 普通パートの接客係がそこまで行く用事はないのだが、なおもおじちゃんについていって一方的に談笑を続けるゆきちゃん。 ちょ、ちょっと、ゆきちゃん…。 さらに電話を終えて戻ってきたおばちゃんに 「明日は大雨ですけど、お休みですか?」 とか聞いている。 ぶったまげて 「いえいえ、来て下さいね」 と諭すおばちゃん。 ていうか大雨って、確かに明日の予報は雨だけど、この時期にそんな出勤もできないほどの大雨ってあんまり考えることじゃないような…。 それでもゆきちゃんはひるまない。 次々とできあがってくるうどんのお膳の準備に大忙しのおばちゃんに必死に食らいつき、シフトの話を延々と続ける。 おばちゃんに、指示をするだけの隙さえもつくらせない必死さ。 その必死さで手を動かせよ。 おばちゃんがたまりかねて 「うん、それはまたおいおいね」 とやや強い語調で伝えると 「ああはい、また後でってことで」 と上から目線で寛大な心を示すゆきちゃん。 厨房で起こっていた異変の正体はゆきちゃんそのものであった、ということをわたしは理解した。 同時に、こんな人を教育することになってしまったおじちゃんとおばちゃんが不憫で仕方なく(よく知らんのだが、パートの採用はフランチャイズ本部のほうでやるらしい)、多少の野次馬根性もあり、意識的にゆきちゃんの動向を伺うことにした。 えらいな、と思ったのはおばちゃんで、こんなゆきちゃんにもきちんとフォローを入れてあげていた。 せっかく入った新人だから、なんとか仕事ができるようになってほしいという切実な願いがもちろんそこにはあるのだが… 注文が一段落し、かしわおにぎりを三角形の容器につめながら、おばちゃんはゆきちゃんに話しかけた。 かしわおにぎりは残り一皿しかなく、危機的な状況であった。 とにかく急いでおにぎりを量産しながらも、おばちゃんがこの少ない機会を活かして努めてにこやかに話そうとしているのがわかった。 おばちゃん「ばたばただったね」(おばちゃんはそうだよね…) ゆきちゃん「はい、忙しくて…」(えっ?!) おばちゃん「…まだまだ、こんなもんじゃないよ」(うん、今日はいいほうだよね) ゆきちゃん「そうなんですね」(そうだよー!) おばちゃん「忙しいほうがよく覚えるでしょ?」(おばちゃんナイスフォロー!) ゆきちゃん「あはは、そんなものですかね?」(だめだ伝わってない) おばちゃん「…ゆきちゃんは、仕事ばせなんなら、わたしが世話してあげようか?」 ゆきちゃん「いえいえそんな、大丈夫ですよー。こちらでがんばりますから!」 おばちゃん「…でも、ご家族のこととかね。△○でしょ?」 ゆきちゃん「ああ、父も○×だし、親戚も△○だから(このへんあんまり聞こえなかった)、いっしょに散歩とか行くんですよ!最近天気がよかったじゃないですか!だから○○公園とか一緒に行くと、犬がいてですね、その犬がすごくかわいくて!(散歩話を始める)」 そのときゆきちゃんは、何も仕事をしていなかった。 彼女はただ立ったまま、働いているおばちゃんを雑談に付き合わせていた。 わたしは、ゆきちゃんがいつ 「かしわおにぎり、わたしも詰めます。その容器どこにありますか?」 と申し出るか、一縷の望みをかけて見守っていた。 しかしとうとう、ゆきちゃんがそのセリフを言うことはなかった。 おばちゃんも言えばいいのに、という話だが、ゆきちゃんの散歩話がこれまた必死で、さっきと同様に付け入る隙がないのだ。 おばちゃんの顔から、ついに笑顔が消えた。 相槌も打たなくなっていく。 うどんを食べ終わった。 伝票を持ってレジに向かう。 しゃべるのに夢中で気付かないゆきちゃん。 はっと気付いたおばちゃんが 「おとうさーん、ごめん、レジお願い!」 と厨房のおじちゃんを呼んだ。 320円を払って店の外に出る。 一味とゆず胡椒をたっぷり入れて食べたどんぶり一杯のあたたかいうどんに、わたしは体も心も満たされていた。 いつもおいしいうどんをありがとう、おじちゃんとおばちゃん。 おそらく、彼女の顔を見ることはもうないだろう。 願わくば、彼らの力強い助けとなる若者が次回は現れますよう…。 静かにパニクる 静かにパニクる2 -
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