「付き合うって何だ論争」 - 2008年02月18日(月) 「付き合うって何だ論争」というものがあるらしい。 大学生のころに聞いた。 でも決着なんてつかないんだろうな。 「本人同士がそうと納得していれば、それが付き合ってる状態だ」とか、中学2年生の放課後の雑談みたいなしょうもない結論にしかたどりつかないような気がする。 「結婚」とはその先のステップアップなのかどうなのか、こういうことを考えるたびにわたしはもうちょっと唯川恵とか読んで世間の年頃の女性がどういうことを考えてどういう人と結婚しているのか知ったほうがよいのだろうか、と思ったりもするのだが、たぶん「結婚」は一般的に考えるとまあひとつのステップアップなのだろう。けれどあくまで一般的に考えたときの話にすぎず、選択肢のひとつにすぎず、それを採るかどうかは当人にかかっている。誰か唯川恵のおすすめの本を教えてください。 さて本題を。 わたしのこの側面は、いつ消え去ってくれるのだろうか。責任転嫁ではなくて自己分析なのだけど、わたしは両親から、理不尽に怒鳴られ、罪を着せられながら育った。今現在、老いた二人は本当に温厚になった。酒が入ると父は時折以前のようにささいなことで激昂して暴れたりもするけれど、頻度は劇的に減った。きちんと人の話を聞けるし、会話が会話として成立する。たぶんこれが「普通の家庭」なのだ、と、わたしはこの年にして本当に初めて知った。わたしの精神がおかしくなりだしたのはどうやら思春期に入ったころからだろう、というのは今までかかってきた医者たちに共通する見立てで、わたしの自尊心とか自己肯定感といったものの芽生えは、どうやらうまくいかなかった。理不尽な扱いを受けるたびににわたしは「こんな人間にだけはなるまい。」と固く心に誓った。子どもを叱るということはとても大切なことだし、人前で怒りを露にすることがあってもいいと思う。ただし、目の前にいる人間に対して相応の筋を通す限りは。 育った環境が少なからず今のわたしに影響を与えていることは確かだと思う。わたしは親しい人、大切な人に愛情表現をすることを、すなわち「怒鳴りつけること」だとどこかで思い込んでいる。それはきっと、両親の愛情表現だったのだ、だから親しい人に対してはわたしも同じことをするべきなのだ、というふうに知らないところでからだに刻み込まれてしまっているような気がする。 こういうことを書くのは好きではない。「親のせいにして」という声が今にも聞こえてきそうだ。そう言われるのはしんどい。 でもちがうんだと思う。ここで立ち止まって不幸自慢を続けているだけでは、それは単なる責任転嫁だと思う。でもそうじゃないの。わたしはもっとよくなりたい。もう少し、もう少しだけでいいから、普通の人間になりたい。周りの大切な人たちを、当たり前に大切にできる人間になりたい。それだけ。ただそれだけなのです。変わりたいんだよ。変わりたいから、だから考えなければいけないことなのだ。 わたしが人間関係を長く保たせることができないひとつの原因にこの側面があると自覚してからは、自分で言うのもなんだけど、がんばったと思う。内側で暴れまわる自我を何としてもコントロールしたかった。以前に比べたら最近はずいぶんましになったのではないだろうか。 なんて思っていた昨日、わたしは同じことをした。どんどんどんどんあふれだすことば。ことばの波。大津波。こわい。おそろしい。わたしなのにわたしじゃないみたいな、ひどいことば。ひどすぎるよね。 筋は通した。けれど、だから何だというのだろう。たとえそれなりに筋が通っていたって、ひとつひとつのことばが刃になって相手をぐちゃぐちゃにしてしまうことに変わりはないのだ。変わらない。あのときの父と、母と、何も変わらない。変わらないよ。同じことをしてるだけだよ。わたしは何も、わかってなんかいなかったんだよ。大切なものを傷つけて、谷底に突き落とすだけなんだよ。 こんなことがあると、自分の殻の中に閉じこもりたくなる。もう誰とも話したくない。関わり合いたくない。いやだ。いやだ。いやだいやだいやだいやだ。 -
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