クレヨン - 2007年08月08日(水) まっすぐになれなかったわたしは、まっすぐに生きる人を見て、いいなぁ、と思う。 子どもたちが語る「将来の夢」はあまりに壮大で、そして純粋でまっすぐだ。 そして、時たまそういう子どもの頃からの夢をそのまま実現してしまう人というのがいる。 まばゆいほどの直立、しっかりと大地に根を張り、すくすくと栄養を吸収しながら立派な美しい若木へと育ってゆく。 わたしはちがう。 わたしは、途中でぽっきり折れたクレヨンのようだと思う。 折れたってまだ描けるし、折れた断面で絵を描くとそれなりに味があったりもして、悪いことばかりではない。量が減ったわけでもないし。 けれど、折れていないクレヨンは、折れたクレヨンより美しいとわたしは思うし、その感性もごく自然なものだろうと思う。 折れていないクレヨンはいつでも折れることは簡単だけれども、一度折れてしまったクレヨンは、もう二度と、折れていないクレヨンに戻ることはできない。 だから、折れていないクレヨンは、折れたクレヨンより美しい。 いつまでも折れないでいるクレヨンは、有難い。 わたしはその強さに憧れる。 折れない強さに憧れる。 折れた自分を否定も卑下もしない。それは愚かなことだ。 わたしは自分を気に入っているし、自分に満足している。 ただ、折れていないクレヨンは、折れているクレヨンより美しいな、と思う。それだけのことだ。 県庁に用があり、正門前の銀杏のプロムナードを歩いた。 権威を示すかのように壮麗なプロムナード。 その奥にそびえる近代的な二棟の庁舎。 わたしはここで働きたかったのだろうか。 そのことを考えた。 わたしは地元の大学の法学部で、なんとなく時代のムードに乗るかたちで公務員を志望していた。 けれど、試験当日、わたしは、県庁の試験を受けなかった。 クレヨンに入った小さなひびは少しずつ大きくなり、わたしはそのひび割れをはっきりと自覚し、その事実に内心傷つきつつも、何もできなかった。 常にわたしは、目の前に提示されたことをこなしてきただけだ。 それでも、今こうして、天職と呼んでも差し支えないほど楽しいと思える仕事に就くことができている。 人生とは、本当は、わたしが思っていたよりも、とてもとてもたくさんの部分で、「運」に支配されるものなのだろうか。 わたしは、「運」がよかっただけなのだろうと思う。 日本に生まれた幸運。 教育熱心な親のもとに生まれた幸運。 大学まで進学できた幸運。 母親が仕事をしていた幸運。 それを手伝う機会があった幸運。 同じ仕事を選ぶきっかけに出会った幸運。 採用面接に受かった幸運。 優良な教室を引き継がせてもらえた幸運。 まじめなスタッフさんにめぐり合えた幸運。 好きになった人が、自分を好きになってくれた幸運。 わたしは、ただ生かされているだけだ。 「将来の夢」を語る子どもたちを前にして、そのようなことがいっぺんに頭の中を駆け巡り、ふと思った。 わたしはなぜ、生きているのだろう。 以前さんざん繰り返してきた懐疑的な、虚無的な問いではなく、答えを見出そうとする意志が、あくまでポジティブにそう問いかけてきたのだと思った。 わたしの生命に、あらかじめ定義された社会的な使命はない。 そういうのはだいたい後付けでついてくるだけのものだ。 それでも。 クオリティオブライフ、人生の質、 これは「したほうがいい」もの、ではなく、「すべき」もの、かもしれないと思った。 追求すべきもの。 折れたクレヨンはもう折れていないクレヨンにはなれないけれども、せめて、その真似事でも、やってみたいと思う。 -
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