anxious for Heaven

鳥かごなんて、最初からなかった。

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2006年10月26日(木) まだ、遠かった。(中編)
「まだ、遠かった。(前編)」の続きになります。


火曜日の記憶ももちろんありません。
当たり前です、どれだけ薬飲んでるんだって話ですから。
ただ、この日のこと、所々だけは覚えています。

ベッドの傍ら、見守るように座っていた、父親と冬寿。
食べたであろう、コンビニ弁当のカラが入っていたビニール。
ふらふらと1階への階段へ向かったこと。
ピンク色の剃刀を力いっぱい引いたこと。
予想外の出血に少し戸惑ったこと。

ここからまた伝聞が主になるし、伝聞の「元」が今さっき就寝した為(苦笑)
時系列が曖昧になってしまうのですが。

冬寿の名前を叫んだことで異変を察した2階の2人が駆けつけたときには
左腕から大量に血を流して呆然としていたそうです。
すぐに父親がタオルで傷口を圧迫して止血をし
ふゆが「キズパワーパッド」なる優良品を探し出してきて貼って。
(切り傷によく効きます、かなり治りが早くなります)

2階に戻って、散々泣き、喚き、暴れたそうです。
手元にあったコードで思い切り首を吊りもしたそうです。
すぐ取り押さえられたようですが。
以下は冬寿から聞いた言葉と、自分が言った覚えのある言葉と
言いそうである(心にずっと持っていた)言葉を、そのまま記します。


あんたたちのせいで、あんたたちのせいで
あたしはずっと大人になれなかった
お金のことも、離婚のことも、全部メッセンジャーさせられて
中学生になるかならないかでそんな役割持たされて
パパにもママにも、どっちか片方にしか味方することがないように
必死でパイプ役頑張って、言いたいことが言えなかった
パパに味方したらママが傷つく
ママに味方したらパパが悲しむ
だから自分の考えも気持ちも殺して、ただメッセンジャーに徹して
でも一緒にいるときはすごい子供のままでいようって思って
あたしが子供であり続けたら、パパとママもいつか
いつか仲良くなってくれるかもって馬鹿なこと考えて
だから過剰に子供でいよう子供でいようって
メッセンジャーさせられてるときの大人の自分と
家族を繋ぐ為の「子供」っていう存在でいなきゃいけない自分と
いつも悩んでた、いつも苦しんでた、いつも乖離を感じてた
頑張っても頑張っても、もう無理ってくらい頑張っても
パパとママは上手く行かなくなって
離婚の時のお金の話も全部メッセンジャー役やって
パパから聞いたことをママに、ママから聞いたことをパパに持っていって
ボロボロになったのに
あたしはパパもママも好きだったからボロボロになったのに
「あんたが頑張らなかったから親が離婚したんだ」って近親者に言われて
まだ足りないまだ足りないってずっとずっとずっと認めてもらえなくて
あたしの心は12歳のあのときのまま成長を止められてるのに
頭の中身ばっかり、知識ばっかり、理論ばっかり大人になって
それでこんな歪んで、ありようがわからなくてこんな病気が再発して
あんたたちが、あんたたちが
あたしを子供のまま押し込めたくせに
あたしを無理に大人にしようとしたくせに

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書いていて思い出しました。
凄く辛かったこと、何より辛かったことの一番は
私は父親も母親も好きだったということ。
優劣なんてない。
父親のココは好きでココは嫌い、母親のココは好きでココは嫌い
そういうものは確かにあるし、割と本人にも口にしますが
そこに優劣なんてものは存在しなかったんです。
私が一番大事にしていたのは、弟でした。

「私はママの血を半分、パパの血を半分引いてる。
 ママとは半分しか繋がってない。パパとも半分しか繋がってない。
 弟はママの血を半分、パパの血を半分引いてる。
 私と一番、血の配合が近いのは弟なんだ。
 だから(両親の仲が)どんな結果になろうとも
 私はどっちの味方もしない、弟のことを一番に考える」

私はたぶん、自分で自覚していた以上に「血」に拘る子供でした。
人間の体のいたるところ、隅々まで毛細血管が走っていて
そこには脈々と血が流れ続けている。
生命活動を続けている限り、身体は「血」に縛られているのと同じで。
だからこそ重く、疎ましく、逆にだからこそ、大事で、愛しくて。

私には、半分しか血の繋がっていない父親の、そして母親の
どちらかしか選ばないという生き方は出来ませんでした。
どちらかしか選べないと言われれば
弟と話して、彼にとってより良い選択肢を相談し、決めた後

自分は死のうと思っていました。
18のときでした。

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自分が「愛らしい、そして少し小憎たらしい子供」であれば
「子供」を中心に、家族は纏まっていられる、そう思っていました。
だから、必要以上に子供であることを、身に纏いました。
必要以上に子供である為には、まず、大人でなければなりませんでした。
演じている「子供」になど、いつか綻びが出来てしまうから。
だから、完全に「子供を演じる」為には、大人にならなければなりませんでした。

同時に、理性あるいは知性と言動と、その根幹となる論拠を確固として持つ
そんな大人であれば、両親の間に立って、仲裁なり何なりが出来る
そして私よりまだ幼い弟を見守り、あるいは手助けが出来る
そう思っていました。
だから年齢不相応に「必要なもの」を磨きました。
でも、それもまた、「演じている大人」でしかありませんでした。

本当の私は
自分勝手な割に妙に物分りがよく
別段子供子供した言動をするわけでもなく
別段年齢不相応の弁舌なり論拠を持っているわけでもなく
ただ、「もっと好き勝手に生きたいなあ」なんて思っている
年齢相応の、思春期のはずでした。

 「Kyoさんには思春期がなかった」
主治医にそう言われたことも思い出します。
それが私の抱える(精神的な)病気の根本のひとつである、とも。
思春期、あるいは反抗期というものを経ずに
正確にはその時期に
「子供の演技」「大人の演技」を使い分けることしか出来なかった私には
12歳から20歳くらいまでの情操というものが育ちませんでした。
 「Kyoさんと話しているときの違和感はきっとそこだね」
…そうだと思います、8年分、すっ飛ばしてますから。
 「Kyoさんは時折、30歳近い頭脳を持った、ただの子供に見える」
 「おなじくらい、10歳くらいの情操しか持たない、立派な大人に見える」

12歳から20歳までは、そうやって「大人と子供の使い分け」をすることで
なんとか自力で物事を捌いてきました。
でも、「足りない足りないまだ足りない」「お前のせいだお前のせいだ」
それを近親者から言われたことによって
私はもう、「使い分け」では対処しきれないことを知りました。

6歳から抱えていたと言われる病気の再発でした。
自分の中に、身代わりを立てました。
立てるというのもまた、正確な表現ではありません。
それは能動的な所作ではないから。

「大人の自分」も「子供の自分」も、自分でした。
はっきりと自分の頭で考え、状況を読み、どっちの行動をするべきか選択する。
それは間違いなく、自分で行ったことでした。
だけど、「身代わり」は違いました。
それについては省きます。

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その時期、父親とはもう離れていました。
12歳から別居していたので今更ですが、離婚が成立してから後は
数年に1度会えれば上々かな、くらいの頻度でした。
メールなどでのやりとりはしていましたが。

だから、父親は、私の「そのこと」をあまり知りませんでした。
幾度となく自殺未遂を図ったことも
ICUで心電図、人工呼吸器、カテーテルと管だらけにされたことも
「身代わり」の存在も
2年半以上もの間、入退院を繰り返していたことも
全くではありませんが、それに近いくらい、知りませんでした。

そして私は、それを父親には見せたくないと思っていました。
メッセンジャー役をやらされていた頃
「お金は?」とそればかり言わされて
母親の目のあるところで「元気にしてる?」なんて些細な近況も尋ねられず
事務的な話ばかり、しかも決して明るくない話ばかりしていたことに
ものすごい罪悪感を感じていました。
もっと健康も、生活も、気に掛けてあげたかったのに、と、後悔していました。
電話がかかってきたと思えばそんな話にしかならない…
そんな娘が疎ましくなかったんだろうか?
嫌いにはなりきれなくても、疎ましいと思っていたんじゃないだろうか?

そう思っていたから
これ以上疎まれたくなくて
これ以上嫌われたくなくて
これ以上距離を置かれたくなくて

病気に纏わる話は出来るだけしなかったし
そういう「病状」を見せたくありませんでした。


大量服薬の副作用で錯乱したり
目の前で腕をぶった切ったり
コードで首を吊ったり

死んでも、本当に死んでも見せたくありませんでした。


だけど、23日からの3日間で
見せてしまいました、一番近い位置で。
見せてしまいました、その全貌を。

一緒にいられると思ったのは
たぶん、間違いじゃない。
written by:Kyo Sasaki
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