橋本裕の日記
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2007年06月29日(金) 人生の味わい

 大学生の頃、いろいろあって、一時精神を病んだ。大学を2回留年し、もう生きる気力も失って、間借りしていた寺の庫裏で畳に仰向けになって天井を眺め、ため息ばかりついていた。一応身分は学生だが、勉強しようという気力がわかなかった。今でいうニート状態である。

 やがてため息も出なくなった。完全に無感動状態に陥った。見るもの聞くものすべてつまらなく、人生は色とにおいを失い、自然さえも無機質な抽象的存在のように感じられた。食欲さえもなく、なぜ自分が生きているのかわからなくなった。そんな私の耳に、ある日ラジオから犬養孝さんの万葉集の朗読の声が届いた。

 信濃なる千曲の川のさざれ石も
 君し踏みてば玉と拾はむ

 このとき不思議なことが起こった。私のこころに「ああ、いいな」という感情が少しだけきざしたのである。それはほのかなそよ風を頬にうけたときのような、ささやかな感覚でしかなかった。しかしとにかく、このこのかすかな感動がきっかけになって、私のこころにいろいろな感情がよみがえってきた。

 私はそれまで自分が失っていたものが何か、その正体に気づいたように思った。ひと言で言えばそれは「生きていることの感触」だった。人生に大切なもの、それはこの感触(クオリア)ではないだろうか。そんなことを思った。

 「クオリア」という言葉は、「質」を意味するラテン語に由来し、古くは四世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場するという。しかし現在のような意味で使われはじめたのは20世紀になって、アメリカの哲学者ルイス(C.I. Lewis)の著作「Mind and the world order」(1929)あたりかららしい。その部分をウイキペディアの「クオリア」の項から引用する。

<There are recognizable qualitative characters of the given, which may be repeated in different experiences, and are thus a sort of universals; I call these "qualia." But although such qualia are universals, in the sense of being recognized from one to another experience, they must be distinguished from the properties of objects. Confusion of these two is characteristic of many historical conceptions, as well as of current essence-theories. The quale is directly intuited, given, and is not the subject of any possible error because it is purely subjective. >

(私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。そしてこれらには何らかの普遍的なものだと考えられる。私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これらは対象の特性とは区別されなければならない。この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。クオリアはダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない)

 その後、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められ、1970年代後半あたりからトマス・ネーゲルやフランク・ジャクソンの研究があらわれた。こうして物理化学的過程の中に還元しきれないクオリアの特性が注目をあつめるようになった。さらにオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズがこの流れを決定付けた。ウイキペディアから引用しよう。

<1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開する。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなる>

 現代は私の若い頃と比べてもストレスの多い競争社会になっている。こうしたなかで、多くの人々が生きることにあくせくし、その挙げ句、人生について豊かな感触や感動を失いつつある。効率優先の競争社会に適応した勝ち組と言われる人たちのなかには、クオリアを喪失しながら、その事実に気づかない人もいるだろう。金儲けしか頭にない人の心を診断すれば、「クオリア喪失」に見舞われている可能性が大きい。

 じつのところ私たちは、クオリアを通して世界に出合う。クオリアは私の魂と世界を結ぶ接触面である。したがってクオリアを喪失するということは、世界を喪失するということだ。お金があっても、知識や教養があっても、世界との生き生きとした接触を断たれ、味わいを失った人生はつまらない。私はクオリア喪失体験から、「人生を味わう」ことの喜びを学んだ。

(参考サイト・文献)

「クオリア」(ウイキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

「哲学的な何か、あと科学とか」(飲茶著、二見書房)

(今日の一首)

 清らかに流れる川のほとりにて
 空を眺める日差しをあびて


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