橋本裕の日記
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2007年01月23日(火) 日本語の構造(8)

 文には「be動詞」を代表とする「存在文」と、他動詞を代表とする「行為文」がある。ところで、西洋人の登山家マロリーは「どうして山に登るのですか」という質問に答えて、次のように答えた。

 Becouse there is the mounnten.
 (そこに山があるからだ)

 これは名言として、世界でも知らない人はいない。

 Becouse I like the mounten.

 これでは後世に名言として残らなかったに違いない。現代英語に一般的な「行為文」ではなく、意表をついて「存在文」にしたところに、世界の人々が新鮮な驚きをもったのだろう。

「山がすき」というのは、「山」を自分の意識の対象物としてみている。これにたいして、「山がある」という存在文には「私」は出てこない。山の巨大な存在感の前で、「人間」はかすんでいる。

 これと対象的なのが、マラソン選手の有森裕子さんの「自分をほめたい」という名文句だろう。それはれっきとした英文式の「SVO」構文だ。しかも自分が自分を誉めるというのは、これまた、きわめつけの「行為文」である。日本人女性がこの言葉を語ったことが意外だった。そしてこの言葉を語った彼女の開放的で前向きな積極性に、多くの人たちは好感をもった。

 日本文はどちらかというと、自動詞を中心にした「○は□である」という形式の文が主流である。「私は子供を持っています」とはいわずに、「私には子供がいます」という。「風が窓を開けた」というかわりに「風で窓が開いた」、「私は山を愛する」というかわりに、「山が好きだ」という。

      私は
  −−−−−−−
      山が
  −−−−−−−
     好きです

  英語の場合も「存在文」は用いられるが、主流は他動詞を用いた「行為文」だろう。その代表的な構造は、次のようになる。

 ��Someone ��do ��something ��sometime ��somewhere.

 主語、動詞、目的語をこの順番に直線的に並べれば「行為文」ができあがる。これはとてもシンプルで、パワフルである。「山が好きだ」という文は、英語の場合は、「I」を主格(主語)にして、「like」という他動詞を用い、次のように表現する。

    I like mounntens.

 これを、言語構造式であらすと、次のような縦構造になる。

      I
 ー−−−ーーー
     like
 −−−−ーーー
   mounntens

 見かけは同じ三層構造だが、日本文は述語を土台にもち、その上に主格をふくめて、様々な補語や連用修飾語がゆるやかに並ぶ横構造の「主題ー述語」文である。英文の「行為主」(主語)を頭にして直線的に一方支配する「主語ー述語」文とは発想や性格が違っている。

 しかし、英語も500年前までは主格が頭に置かれないことも珍しくなかったし、述部の位置も日本文と同じように最後尾が定位置だった。ベオウルフという8世紀に書かれた英語の叙事詩を見ればこのことがわかる。金谷武洋さんの「英語にも主語がなかった」(講談社選書メチエ)から引用してみよう。

 se hlaford pone cnapan binds.
 (主人が召使を縛る)

 これは現代英語になおせば、「The lord the servant binds.」である。ただし、「SVO」ではなしに、「SOV」になっている。このように古代の英語では動詞が最後に置かれることが多かった。さらにこの頃の英語は、SとOの語順も自由だった。

 これは英語だけではなく、多くのヨーロッパ語がそうだった。ギリシャ語やスペイン語、イタリア語はいまでもそうである。たとえば、ラテン語で「主人が犬を殺す」「犬が主人を殺す」という文章を書くと次のようになる。

 Dominus canem occidit.
 (主人が 犬を 殺す)

 dominum canis occidit.
 (主人を 犬が 殺す)

 ここでも殺す(occidit)という動詞が最後に来ている。そして行為者には語尾に「s」が、行為を受けるものには「m」がつく。行為者が先頭に来るともきまっていない。「行為者=主語」という認識もなかった。英語で主語を「subject」ということからもわかるように、主語はむしろ「従属語」であった。何に従属しているかといえば、述語(動詞)にである。その言語構造は日本文と同じく、二層構造であらわすことがでる。

「I like mountens.」という英文も、もともとの発想は、日本文の発想に近かったのだろう。

  I  mounntens
 −−−−ーーーー
     like

 ここでは「山」は私の行為の対象物ではない。現代英語のように「自己と他者を対立関係におく「行為中心」の発想ではなくて、むしろ私は山に「like」という関係をとおして向かい合っている。

 ここで、私はあえて一つの仮説を述べてみたい。現代においてもなおネイティヴの人々は、このような「主題ー述部」の二層構造の意識をいくらか抱きながら、彼らの母国語である英語を話しているのではないだろうか。

   Someone something sometime somewhere.
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               do

 私は現代においても、英語をこのような発想で語ることは、原理的に可能だと考えている。そして、これが許されるのであれば、私たち日本人がこうした発想で英語を語ることは、あながち間違っていることではない。こうした日本人らしい感性が反映した英語があってもよいのではないだろうか。

 日本人は日本語で養われた感性がある。それを捨てて、現代英語の行為者意識重視の感性にあわせる必要はない。本来の日本的な感性を生かした独自な英語を語るのも悪くはない。日本語を母国語にする私たち日本人が、政治、経済、文化の様々な場面で世界に貢献するために、むしろこのことは重要なことかも知れない。

(今日の一首)

 河原にてとんびを待てり妻とわれ
 手持ち無沙汰に小石をひろう

(せっかく、餌を持って、妻と二人で河原に行ったが、いつもやってくる鳶の姿がなかった。手持ち無沙汰に、小石を拾って、妻と二人で水切りあそびをした。二人で競争していると、小石が水面を4回ほど跳ねるようになった。それでも、とうとう鳶はやってこなかった)


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