橋本裕の日記
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2006年02月17日(金) 愛の弁証法

 脳科学者の茂木健一郎さんに何となく引かれて、書店で彼の本を見かけると迷わず立ち読みするようになった。週刊誌では、阿川佐和子さん相手に、こんなことを話していた。

「僕は何かを愛するということは必ずそれに批評的視点を持つことが大事だと思うのです。現状が全部OKということって、ホントに愛していることにならない」

「リストラにあっても生き延びる力はいい文学の中にあると思うのです」

「趣味がいい人って、生きることでも価値観でも、最後は絶対途方に暮れると思うんだ。阿川さん、そういうところがありますよね。すごくいいと思います」

「生きるってどういうことかわからないことなのに、決めつけると何も生み出す感じがしない。生命感がないんですよ。コンピュータのプログラムみたいで」

 私たちが人や国を愛するのは、欠点がないからではない。むしろ、欠点や悪いところがやまほどあるから愛おしいわけだ。人間でも国でも完全無欠な存在などありはしない。そして、趣味のいい人は、ときどき途方に暮れる。これもいい言葉だ。途方に暮れ、迷いながら、それでも何とか赦しあい、認めあって生きていかなければならないのが人生なのだろう。

「人間は傷つき合って、許しあって、愛を覚える」

 これは何かの映画のなかのセリフらしいが、映画監督の大林宣彦さんがバイブルのように大切にしている言葉だという。たしかに私たちが感動する文学やドラマは、「傷つきあって、許しあって、愛を覚える」というストーリー展開になっている。これはドラマ作りのテクニックというだけではなく、真実の愛がそうした弁証法的な深みのある姿をしているからだろう。

 大林さんはお互いの価値観や思想が違うことは仕方がないが、大切なのは「お互いの存在を認めあうこと」だという。お互いの存在を認めるまでには、傷つけ合い、そして途方に暮れ、赦しあうことも必要なのだろう。そうした過程を通って、愛が深められる。いや、その過程そのものが「愛」なのではなかろうか。

(参考文献)
 週刊ポスト「阿川佐和子のこの人に会いたい」


橋本裕 |MAILHomePage

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