橋本裕の日記
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山頭火と並んで、放浪の俳人として知られているのが尾崎放哉(1885〜1926)である。放哉も山頭火も荻原井泉水主宰の自由律俳句誌「層雲」に投句していたが、兄弟弟子であった二人が、生前会ったことはなかったようだ。
放哉は明治18年、鳥取県に生まれ、一高、東京帝大を経て、東洋生命保険会社や朝鮮火災海上保険株式会社に勤め、エリートとしての人生を歩む。しかし酒癖が悪く、挫折を繰り返し、やがて妻子とも別れ世俗を捨て、寺を転々とした。
大正14年、福井県小浜町の常高寺に寺男としてやってきたが、貧乏寺だった常高寺での生活もまたたく間に終わり、やがて小豆島南郷庵に住むこととなる。そこに隠棲して、句作三昧の生活を送るが、粗食から病を得て、翌15年4月7日に42歳で没した。
その3日後の4月10日に、45歳の山頭火が放哉の衣鉢を継ぐかのように、行乞流転の旅に出ている。そのきっかけは放哉の死の報せであったに違いない。実際、山頭火はのちに小豆島の放哉の墓に詣でている。そこで、放哉の名句「せきをしてもひとり」に和すようにして、次の句を墓前にたむけている。
鴉啼いてわたしも一人
放哉と山頭火はほとんど同年輩であり、同じ自由律の俳人としてお互いを意識していたようだが、作風はずいぶんちがっている。野生人の山頭火にくらべ、放哉には都会人の繊細さと孤独が感じられる。句のすがたも寡黙で端正に整っている。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める 足のうら洗へば白くなる こんなよい月を一人で見て寝る 山に登れば淋しい村がみんな見える 入れものが無い両手で受ける せきをしてもひとり 墓のうらに廻る 春の山のうしろから烟がでだした
放哉は日記を書かなかったようだが、そのかわりたくさんの書簡を書いた。そのなかから、俳弟子の星城子に書いた一節を引用しよう。
「俳句は詩なのです。私をして云わしむればむしろ宗教なのです。宗教は詩であります。決して哲学ではありません。之を論じることになれば、すこぶる長くなりませう。私はただ結論をここにあげて、あとは賢明なあなたの解釈に任せませう」
かって小豆島の西光寺の放哉の墓を訪ねたことがある。それから、放哉が寺男として暮らした若狭小浜の常高寺も訪れた。小浜市は私が小学生の頃過ごした土地でもあり、放哉の足跡を辿るのが楽しかった。ちなみに放哉は小浜でこんな句を作っている。
あたまをそつて帰る青梅たくさん落ちてる 淋しいからだから爪がのび出す ころりと横になる今日が終つて居る
<今日の一句> ふるさとの 寺を下れば 夏の海 裕
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