橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2002年03月26日(火) |
愚忠をつらぬいた周恩来 |
1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。
毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇と��小平である。
焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。
さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。
これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、��小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。
ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、��小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。
そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、映画や小説にも描かれているので説明するまでもないだろう。
こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、��小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。
周恩来なかりせば、毛沢東の偉業はなかった。と同時に、度を外れた毛沢東の悪行の数々もなかっただろう。私は周恩来をあえて、「人類史上まれにみる極悪人」と呼んだ。なぜ、私が周恩来を毛沢東以上に巨悪だと考えるか、以上に述べたことから、その一端を理解してもらえたらありがたい。
周恩来はなぜこれほどまでに毛沢東に忠愚を貫き通したのであろうか。ここに一つの大きな謎がある。周恩来を擁護する人々は、毛沢東に対する個人崇拝が破られれば、中国は内戦状態に陥っただろうという。しかし、私はそうは考えない。
フルシチョフによる「スターリン批判」があったあと、中国は「毛沢東個人崇拝」を脱却する方向に一時動きだした。これは時代の要請であり、これによって中国はスムーズに国の近代化や民主化をはかることができた筈である。そうすれば、中国の現代史ははるかに明るく、美しいものになっていたし、毛沢東自身も歴史上の偉人として、私たちの胸にいつまでも輝き続けに違いないのである。
その、歴史上のターニング・ポイントを握る人物こそ周恩来その人であった。毛沢東の手足となり、毛沢東の命令を忠実に実行することで、彼は毛沢東と常に一心同体だった。そして国政上の実権を握っていた彼のこうした暗愚が、中国を恐るべき恐怖と貧窮の王国と化したのである。その後遺症は、今も中国大陸に住む十数億の人々の上を覆っている。
|