橋本裕の日記
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2002年03月20日(水) 安楽な批評家

 私は基本的に評論家が嫌いである。なかでも嫌いなのが教育評論家。あれこれ立派なことを言うが、言うは易く、行うのが難しいのが育児や教育である。新聞の投書などでも、随分立派なことを書く人がいるが、実際、現場に立ってみると、なかなかそう思ったようにはことが運ばない。

 以前に塾の先生が「塾では授業崩壊が起こっていない。そのことを学校の教員はよくよく考えるべきだ」などと新聞に書いていたのを見て、「塾と学校の違いもわからずによく書くなぁ」と腹立たしい思いをしたものだ。

 以前に中学の教師に平手打ちを食ったと訴えた女生徒にたいして、東京地裁が学校側の非を認める判決を言い渡した。この判決について、私は何も不満はないのだが、そのときの判決文の内容に、首を傾げたことがある。

「体罰を加えるからにはよほどの事情があったはずだというような積極、消極の体罰擁護論が、いわば国民の本音として聞かれることは憂えるべきことである」

 体罰擁護論が国民の本音であって、どうしていけないのだろうか。裁判官は法に則り、判決を下せばよいのであって、それ以上、国民の思想信条に介入する必要はないし、またその権限もないはずである。国民の本音を「憂える」などというのは、思い上がりもはなはだしい。裁判官はいつから私たちに道徳を説くようになったのだろう。

 ちなみにこの判決文を、我が意を得たりとばかり引用したのが、朝日新聞の「天声人語」である。さらに国法に従って死の道を選んだソクラテスの言葉まで引用して、「実際にはソクラテスの道を選ばず、法などおかまいもなく体罰に走る教師が少なからずいる」と、こちらのほうも、大いに憂えている。

 教師は規則や法律を守らない生徒を野放しにするわけにはいかない。そのような生徒に対してどのような罰がふさわしいのか、体罰に代わる有効な方法を考えてみることが必要だろう。体罰反対を叫ぶのは簡単だが、それでは何ら教育問題は解決しないし、前進もしない。


橋本裕 |MAILHomePage

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