橋本裕の日記
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2002年03月15日(金) 安楽な懐疑主義

 人と議論をしていて、こちらの旗色が悪くなったり、面倒になったりすると、「それも一つの考え方だね」と鷹揚にいなして、相手に悔しい思いをさせることがよくある。十人十色という諺があるように、人それぞれに異なった考え方があるのは当然だが、見解の相違ということで片づけられてはたまらないだろう。

 ある一つのことに対して、AとBの異なった見解が提出されたとき、そのいずれが正しいのか、徹底的に議論し、決着をつけるべきかもしれない。そうした妥協を排した厳しい論争や対話によって、ものごとの認識が弁証法的に深められ、私たちは真理へと一歩ずつ近づくことができるからだ。

 しかし、私を含めて、日本人はどちらかというと、こうした論争や対話が苦手なのではないだろうか。そして、「見解の相違」ということで、結局うやむやのうちに終わらせてしまう。こうしたことは、人と人の論争の場合だけではなく、思考という、一人の人間の内部で営まれる対話の場合も同様である。

 あるときはAだと言い、別の時はBだと考え、その両者の間に存在する矛盾について、つきつめて考えようとはしない。一人の人間がその時々に応じて、平気で矛盾することを主張するというのは、知的能力が劣っているか、人間的誠実さに欠落があるとしか考えられないのだが、おおむねこのようなことが何の疑問もなく行われている。

 これに対して、あくまで筋を通して白黒を鮮明にすべしというのが、西洋流の徹底した合理主義にもとづく考え方だろう。「真理は一つ」という立場である。これに対して、私たちは真理は相対的なもので、多元的であり、そもそも人知の及ぶ範囲のものではないと考える習性が身に着いている。

 真理に対するこうした考え方の違いは、それぞれのおかれた社会的風土や歴史によるところが大きいのだろう。いずれがいいのか、にわかには判定しがたいところだが、私たちの怠惰な精神はともすると懐疑主義の安楽椅子を求めがちだ。

 そして、真理の絶対性を説く相手に対しては、「まあ、それも一つの考え方だね」と、呪文のようにこの言葉をつぶやく。そうして、私たちは厄介な苦役を逃れた子どものような、ひそかな満足と安堵を覚える。


橋本裕 |MAILHomePage

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