橋本裕の日記
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映画通の北さんに、これまでたくさんの映画を薦められて見た。そのなかでとくに印象に残った一つが、「十二人の怒れる男」である。制作は1957年、監督はシドニー・ルメット、主演はヘンリー・フォンダ。この映画を見ると、アメリカの陪審員制度や、民主主義というものがそもそもどのような精神に基づいているのかがよくわかる。
ニューヨークの下町に住む不良少年が、父親をナイフで刺し殺したという容疑で逮捕され、裁判にかけられた。そして、一般市民から無作為に選ばれて召還された12人の陪審員が、被告が有罪であるか無罪であるかを判定するために裁判所の一室にこもる。
少年と父親は日頃から仲が悪い。階下の老人は、少年が激昂して「殺してやる」と言ったあと人が倒れる音がして、逃げてゆく少年の姿を見たと証言している。電車の線路を隔てたアパートの女性は、通り過ぎる電車越しに、少年が父親を刺すのを見たと証言した。かんじんの少年は父親と喧嘩して家を出た後、映画を見ていたというけれど、その内容もタイトルも覚えていない。
だれがみても、少年の有罪は明らかなように見える。ところが、ヘンリー・フォンダの演じる一人の陪審員だけが「無罪」を主張する。全員一致でなければ判決は成立しない。ただ一人の常識外れのために、審議をやりなおさなければならない。彼の「無罪」の投票に誰もが驚き、腹を立てて、詰め寄る者もいる。釈明を求められて、彼はこう主張する。
「自分も無罪と信じているわけではない。しかし、一人の人間の生命がかかっているのだから、少しは議論をしてもいいのではないか」
彼も少年が父を殺さなかったと確信して、「無罪」を投じたわけではないのだ。ただ、法廷で彼を有罪とするに足るだけの立証が行われたかどうか、もういちどよく検証してみたいと思ったのである。
そうしてしぶしぶ始まった議論の中で、証言の信憑性が崩れてゆく。何度も評決が行われ、12人の陪審員たちの職業や家庭環境、性格や気質、偏見と言った社会背景や人間模様が次第に浮き彫りになっていく。そうした様々なバックグラウンドを背負って行われる緊迫した言論のやりとりがあり、最後には全員が自分たちの呼び覚まされた良心に照らして、少年の「無罪」を認める。
アメリカ民主主義の精神はこの陪審制度にあると言われている。政治家を選挙で選ぶだけではなく、裁判をも自分たちの手で行う。ギリシャ以来の直接民主主義の精神がここに受け継がれている。しかし、ギリシャ民主主義が衆愚政治となり、ソクラテスを有罪としたように、この制度は常に転落の危険性を孕んでいる。
この危うさをこの映画は私たちに見せつけてくれる。もし、12人の陪審員のなかにただ一人の「彼」がいなかったら、この少年は「有罪」になっていただろう。「12人の全員一致による評決」という規定の中に込められているのは、12人中一人くらいは「彼」が存在するに違いないという切実な期待である。
私たちはともすると、一つの与えられたものの考え方に囚われて、それが多数の人々によって共有された偏見であり、共同幻想であることに気付かない。そうした思いこみが集団を支配するとき、これに「否」という言えるかどうか、ほんとうの勇気はここにある。
ヘンリー・フォンダの演じた「彼」は、その意味で民主主義社会が必要とする「勇気」の在り方を示している。地味で目立たないが、「彼」もまた貴重な現代の「Hero」の一人だと言っていいのだろう。
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