賛否両論の出る作家というのは、たいてい「大物」か「売れっ子」である。誰も見向きもしなかったら、話題にあがらないから責められることもない。例えば村上春樹(前者)や辻仁成(後者)がそうである(と私は思う)ように。
そして覆面騒動が物議をかもしているサスケ議員ならぬ舞城王太郎も、非常に大物の匂いがする。
『九十九十九』(講談社ノベルズ)をようやく読了した。非常に苦しかった。これは『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞をとった彼が再びノベルズに戻ってきて書いた作品だ。しかし、殺人事件というには人の「死」が曖昧である上、事件を解決する、本来ならコナンのように完璧なはずの探偵が<欠陥>を抱えていて、推理小説として読むのは非常に難しい。
「苦しかった」、と書いた。それは何処まで行っても、読者を作品に近付けない、簡単には共感を呼ばせないぞ、というような筆者の「メタ視線」が働いているからだ。からっぽなのだ。
だからこの小説は、どこまで行っても終わらない。読み終わっても、少しも安心できない。この作家はなぜ小説を書いているのだろうという気になる。もしかしたら本当は書くことなんかどうでも良くて、何だか現代人に受けそうな「社会問題」や「現実」に対峙した振りをして、原稿料を稼いでいるだけなのかもしれない。そして自分はもうひとつの世界でせせら笑っているのではないかと思ってしまう。
悔しいかな、それでも訴えてくる何かがを感じるので、私は今まで手をつけなかったノベルズの棚に足を運んでしまうようになった。疑いながら、《僕》の台詞を引用してみよう。
*** 世界大戦中に発生した大量死への反発が《特権的な死を死ぬ》ための装置としての推理小説の隆盛を読んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。・・・(中略)本物の特権的な死というのはあくまで自分の死を死ぬことである。周囲の人間が自分を失うことで悲しんでくれること。惜しんでくれること。・・・推理小説の死にそういうものはない。
推理小説が大戦中の大量死を経て隆盛したということがあるならば、それが起こった理由は人間の死の尊厳の薄まりを推理小説かが回復させようとしたせいではなく、うまく利用したせいだろう。 ***
『キャラクター小説の作り方』で、大塚英志が書いていることを思いだした。「現実感」が希薄な場面で、しっかりと死や現実に向き合っている小説こそが文学であると。
小説全体を嘘と妄想で塗り固めながらも(ここで出てくる《僕》も、一体誰なのかが定かではない)、しかし舞城は私の目の前に現実を恐ろしいほどに突き付けてくる。しかし同時にあらゆる現実の先にある究極の希望を、彼は描いてくれる。「絶対愛」という、親子や家族、人と人のつながりを。
「苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ」
--本の帯に引用されている台詞だ。私はこの絶望が作品のテーマだとは思わない。むしろ「頭が三つもある僕なんて、誰も愛してくれないよ!」と誰かを求めて悲痛な叫びを繰り返す僕こそを、作家は描きたかったに違いない。
「講談社第三編集部」「清涼飲流水」「担当の太田さん」実名や固有名詞が繰り返し使われるのに、こんなにも現実感が希薄な小説も珍しい。同時にこんなにも現実とは無縁の世界で物語が繰り広げられるのにも関わらず、「希望」なんていうちょっと涙がでそうなうさん臭い単語に、しっかりとした手触りがある小説もないはずだ。
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