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2007年12月05日(水) わが通る道はありけり(2/2)



 上高地から穂高の中継点の涸沢に行くまでの行程は、少しだけ政治家の気持ちが分かる。バスターミナルのあたりはそうでもないが、会う人会う人さすがに握手はしないが、軽く頭を下げつつ、「こんにちは」を繰り返す。夏場だと、数百人行き交う人と挨拶を交わす。正直うんざりするが向こうもおなじ、とにかく挨拶する。帰りなどは一挙に降りてくるのでへとへとだが、会えばもう声を出すのも面倒で、軽く頭を下げるだけになる。それでも挨拶をする。政治家だとこれに握手したり、抱擁(これは無いか)したりしなければならない。有権者にしたら、支持者の握手は嬉しいに決まっている。が、握手は一回である。政治家は来るものを拒めない。選挙の時などたぶん手は腫れ上がるのではないか。
山に入るときくらい、政治やイデオロギーはちょっと置いておきたいと思うが、今回唖然とするものを見た。写真を見てくれ。




徳澤に続く道から、徳本峠の分岐を少し入った山の中の登山路沿いの木に貼り付けてあった。

「なんやこれ!」

なんで「戦争」が突然出てくるのか。果てしない単細胞を感じた。
山と人命大切に? 何で「人命」なんだろうか「命」ではないのだろうか。
 
 美しい自然を壊すのは「戦争」ではなくて、この醜悪な看板そのものだ。
断定的に「戦争反対」といったその後半突然優しくなって、「空き缶、ゴミ、良心(??)は持ちかえろうね」と、まるで子供に向かっていうような文章。こういう文章は本当に気味が悪い。

自然が美しいなんてのは嘘で、確かに自然を美しいと感じる感性を持つ人もいるが、人工的な都市の夜景を美しいと感じる人もいる。
そして自然は美しいより何より、過酷で怖い。台風、落雷を平気だと言う人はいないだろう。美しいと思える森林や沢筋も、人間が環境を整え手を加えてきたのだ。猿や鹿は自然が美しいなんて露程も思ってないだろう。日々の糧を得るためにただ走り回る所なのだ。

 自然に「美」は存在しない。人の心にだけある。なぜか。それは人間の存在が不自然そのものだからである。

 これを書いた奴の頭の中では「戦争は絶対悪」との思いがあって、何にかこつけても、これを言いたいがために、書いたのだろう。別に山でなくても自然でなくてもいいのだ。「戦争」がいやなのだ。いくら戦争がいやでも、病気と同じで無くならない。地球から例へ消えたとしても、今度は宇宙間戦争としてまた、始まることだろう。
病気絶対反対と言っても詮無い事で、反対をいうより備えを考える。普通の人はそんな事くらいとっくに知っていて、健康保険に入って、もしもの時に備えている。

書き換えてやろうか。

「山と人命を大切に
自然を壊す元凶、全ての人間の入山に反対」

したらどうなるか。山は荒れ放題になる。美しくなくなる。










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